風月庵だより

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教育を考える、その5-可愛い子には蟻を殺させることなかれ・熏習ということ

2006-05-19 17:23:26 | Weblog
5月19日(金)雨後曇り【教育を考える、その5-可愛い子には蟻を殺させることなかれ・熏習ということ】

この頃幼い子どもが犧牲になる事件が多すぎる。一昨日も秋田で 米山豪憲君という七歳の少年が犧牲になってしまった。本当に日本はどうなってしまったのであろうか。ほんの二十年前でも、これほどに酷くはなかったのではなかろうか。殺人を犯す人々は生まれついて殺人鬼ではあるまい。後天的ななんらかの要因が、幼いときには可愛らしかった少年たちを殺人鬼に仕立て上げてしまったのではなかろうか。

本当に教育を真剣に考え直さなくてはならない。どこか、なにかが間違っていることは明白である。教育基本法の表面的なことばかりに、時間とお金をかけて議論の為の議論をしている余裕はどこにもない。多くの殺人者たちをその幼年時代から調査をして、どこに問題が有るか探る必要がある。人権などというのなら、殺された子供たちの人権を第一としてもらいたい。


先日お墓でのお参りの時に、幼ない子が蟻を追いかけて、手にした石でつぶそうとした。「ダメだよ、そんなことをしては」と私は急いで其れを制した。坊やはびっくりして、キョトンという顔をした。「あのね、アリさんもね、僕と同じように生きているんだよ。」「だからね、ころしちゃいけないんだよ。」「わかった?」と言うと、坊やは 頷いた。

生き物を殺してはいけないということに、理屈は不用である。理屈抜きに、そのようなことはしてはいけないことなのだ。小さいうちから、虫でも蟻でもなんでも、子どもが面白がって殺そうとするとき、そのたびに生き物を殺してはならないことを、言い聞かせる必要があるのではなかろうか。命の大事なことを言い聞かせる必要があるのではなかろうか。

諭すべき大人が、不用意にテーブルの虫を捻りつぶしている情景をよく目にする。ブータンという国では、ゴキブリでもテーブルの上に這ってきたら、そっとどけてあげることが徹底しているという。

寺子屋をしているとき、小学生から高校生まで教えていたが、その時に蚊の生け捕り方法を子供たちに伝授した。飛んでいる蚊をいかにして上手に捕まえて、外に逃がすか、ちょっとしたコツが分かれば、生け捕りは簡単である。でもあまりにひどく血を吸われているときは、おもわずバチリとやるときもあるが。

子供たちに勉強も教えたが、草取りやトランプやボール投げやら、勉強以外のこともいろいろみんなで楽しんだ。その子たちが大きくなって、お墓の草取りに来たとき、蟻を殺そうとしたお祖母ちゃんに、「だめだよ、蟻を殺したら、蟻だって生きてるんだから」と言ったのだという。庵主さんに小さい時に教えられたのだそうですよ、と言ってお祖母ちゃんは笑っていた。

小さいときから、何が人間として、してはならないことか、しなくてはならないことか、教えこむ事が大事じゃなかろうか。蟻をつぶそうとする度ごとに、虫を殺そうとする度ごとに、それはいけないこととして、教え込むこと。これを仏教的には熏習(くんじゅう)と言う。洗脳という表現より素敵であろう。小さなことの積み重ねであるが、子どもの心が優しく育つように、〈熏習〉に心がけたいものである。

二十年前をあらためて振り返ってみると、あの頃は小学生の自殺が多かったことが思い出される。寺子屋の子供たちと、いじめで自殺した子供たち、鹿内君という少年もいたと思うが、彼らの冥福を共に祈ったことを思い出す。自ずと命について皆で考えた。

勉強は二の次でもかまわない。とにかく戦後、特にバブル期以後の教育は大きな間違いを犯していることは、確かである。子どもを取り巻く環境全てを含んで、改めて教育を見直そう。宝物の子どもたちのために。


熏習:香の匂うこと。香を薫じると元々香りのなかった衣服にも香りが漂うように、われわれの身体やことばや心の動きの残留する影響作用。習慣によって心に染みついたもの。習慣性。唯識学派では、無表業(表面には表れない行為)が種子をアーラヤ識に植えつけること。われらの心に起こる善悪の言動と、意に起こる善悪の思想は必ず種子が自己の心の本体(アーラヤ識)に残留する作用とする。

*バブル期以後だけが悪いのではないので、また項をあらためて考えたい。

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