5月21日(日)晴れ【三国志-出師の表】
上海から帰ってきた中国人の友人から、絹のスカーフをおみやげにもらった。岳飛の筆になる『出師(すいし)の表』が書かれたものの写しである。岳飛といえば宋代の有名な武将である。宋王朝は金の侵略によって南下させられたが、岳飛は南宋に仕えて、たびたび金を破った英雄である。しかし秦檜(しんかい)の謀略によって獄死した非業の将軍でもある。因みに公案禅を鼓舞した大慧宗杲(1089~1163)も秦檜によって流刑の目に遭っている。
兵法に精通した武将が、見事な筆を揮っていることに、あらためて感心した。蜀の軍略家、諸葛孔明(亮)の赤心を表した名文であれば、武将岳飛が筆を揮う意味はさらに深いものがある。出師表とは、軍隊を出すについての上表文であるが、単に出師表といえば、その名文をもって諸葛孔明の出師表のことをいうようだ。建興五年(227)、北伐(魏)に向かうにあたって、蜀の皇帝劉禅に奉ったものである。
建興六年にも出師表が出されたと『三国志演義』などにはあるようだが、正史の『三国志』にはないので、後世の偽作とされているようだ。五年に出されたものを前出師表といい、六年のを後出師表と呼んでいる。私が勝手に私淑している井波律子先生が全訳を出された『三国志演義』の中に前出師表の訳は無いかと探したが、後出師表の方は載っていたが前の方は残念ながら見つけられなかった。(*「前出師の表」は井波先生の『三国志演義』6巻125~128頁に掲載されていました。失礼しました。先生の訳文をもとにまた後日このブログに訳を書き足しますので、興味のある方は二週間後ぐらいにこのブログをご訪問下さい。)**26日のブログに全文を掲載しました。
三顧の礼をもって劉備玄徳に迎えられたことに、深い恩義を感じている諸葛孔明の臣としての赤心が表されている上表文に、涙しない者は無かったという。『三国志』の世界における、人のまことを岳飛の筆を頼りに味わってみたい。(『大漢和』の活字を参考にする。)
〈原文〉
前出師表
臣亮言。先帝創業未半、而中道崩殂。今天下三分、益州罷(岳飛の字は疲に見える)敝、此誠危急存亡之秋也。然侍衞之臣、不懈於内、忠志之士、忘身於外者。蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開張聖聴、以光先帝遺徳、恢弘志士之氣。不宜妄自菲薄、引喩失義、以塞忠諫之路也。
〈読み下し文〉
前出師の表
臣亮言う、先帝創業未だ半ばならざるに、中道に崩殂(ほうそー崩御に同じ)したまう。今、天下三分して益州疲敝(弊)せり。これ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衛の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るる者は蓋し先帝の殊遇(しゅぐうー特別のてあつい待遇)を追って、これを陛下に報いんとするものなり。誠に宜しく聖聴(せいちょうー天子の耳)を開張し、以て先帝の遣徳を光(かがや)かし、志士の気を恢弘(かいこうーひろめること)すべし。宣しく妄りに自ら菲薄(ひはくー才能や徳が乏しいこと)し、喩(たとえ)を引いて義を失い、以て忠諌(ちゅうかんーまごころからのいましめ)の路を塞ぐべからざるなり。
〈省略〉
(*岳飛の墨跡はここより省略されている。宮中府中、倶爲一體。陟罰臧否、不宜異同。若有作奸犯科、及爲忠善者、宜付有司、論其刑賞、以昭陛下平明之治。不宜偏私、使内外異法也。侍中・侍郭攸之・費禕・董允等、此皆良實、志慮忠純、是以先帝簡拔以遺陛下。愚以爲宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行、必能裨補闕漏、有所廣益。將軍向寵、性行淑均、曉暢軍事、試用於昔日、先帝稱之曰能、是以衆議舉寵爲督。愚以爲營中之事、事無大小、悉以咨之、必能使行陣和睦、優劣得所。親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也。親小人、遠賢臣、此後漢所以傾頽也。先帝在時、毎與臣論此事、未嘗不歎息痛恨於桓靈也!侍中・尚書・長史・參軍、此悉貞亮死節之臣也。陛下親之、信之、則漢室之隆、可計日而待也。*ここまで省略されている。)
〈原文〉
臣本布衣、躬耕南陽、苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、遂(岳飛にこの字有り)許先帝以馳驅。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。
〈読み下し文〉
臣、本、布衣(ふいー官位のない人、庶民)にして躬(みずか)ら南陽に耕し、荀くも性命を乱世に全うせんとして、聞達(ぶんたつー名が世間に聞こえ表れること)を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙(ひひーいやしいこと)なるを以てせず、猥りに自ら枉屈(おうくつー貴人が身を屈しへりくだって来訪すること)して三たび臣を草廬の中に顧み、臣に諮(はか)るに当世の事を以てす。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くちー車馬を馳せること)を以てす。後、傾覆(けいふくー国が覆ること)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。
〈原文〉
爾來二十有一年矣。先帝知臣謹愼、故臨崩(岳飛の字、終)寄臣以大事也。受命以來、夙夜憂慮、恐託付不效、以傷先帝之明。故五月渡瀘、深入不毛。今南方已定、甲兵已足、當奬帥三軍、北定中原、庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還於舊都。
〈読み下し文〉
爾来二十有一年。先帝、臣の謹慎なるを知りたまえり。故に崩ずるに臨み臣に寄するに大事を以てせんとす。命を受けて以来、夙夜(しゅくやーあさゆう)憂歎(ゆうたん)し、託付の效あらずして、以て先帝の明を傷うことを恐る。故に五月、瀘を渡り深く不毛に入りて、今、南方已に定まれり。甲兵已に足る。当に三軍を奨帥(しょうそつーはげまし率いる)し、、北のかた中原を定むべし。庶(こいねが)わくば駑鈍(どどん-才が鈍く智恵の足りないこと)を竭(つく)し、姦凶(かんきょうー悪巧みをする悪者)を壤除(じょうじょー攘除、はらい除く)し漢室を興復し旧都に還さんことを。
〈省略〉
(*ここより岳飛は省略)此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。至於斟酌損益、進盡忠言、則攸之・禕・允之任也。願陛下託臣以討賊興復之效、不效則治臣之罪、以告先帝之靈。則責攸之・禕・允等之咎、以彰其慢。陛下亦宜自謀、以諮諏善道、察納雅言、(*ここまで省略)
〈原文〉
深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激!今當遠離、臨表涕泣、不知所云。岳飛
〈読み下し文〉
深く先帝の遣詔を追う。 臣、恩を受くる感激に勝(た)えず。今、遠く離るるに当り、表するに臨みて涕泣し、言う所を知らず。
岳飛の書(スカーフ)はあまりにみごとな行草書なので、『大漢和』の助けがなくては読めなかった。三カ所ほど明らかに『大漢和』の字と違うところもある。手本とする書の違いであろう。また頂いたスカーフは全てが書かれていないのであるが、果たして岳飛の書いたもともとの書は、出師表を省略したものなのだろうか。またはこのスカーフのもとは、西安の碑林にでも保存されている石に彫られたものかもしれないので、もともとの岳飛の墨跡を敢えて石に彫るのに際して省略しているのかもしれない。そのことについての知識がないのでご容赦。
訳はつけないが、読み下し文を省略したところには、人材を大事にすることが述べられている。若い皇帝を残して、北伐に出かける諸葛孔明の危惧が表されているのである。どの時代にも大事なのは人材であろう。そしてすぐれた人材を見抜けないと国は滅びるのである。狡獪な秦檜の言を入れて、岳飛のような真実のある人物を死に追いやった南宋もまもなく滅びることになるのである。
日本もまことの人材を見抜けないと、危ういことになる。三国志の時代は人材を選ぶのは皇帝や重臣であるが、今の日本国は誰であろう。決して首相ではない。われわれ国民一人一人にその権利があることを自覚しようではないか。三顧の礼をもって迎えたいようなまことの政治家は果たしてどなた様なのであろうか。経済ばかりが先行する社会は子どもの社会である。経済に動かされず、経済を動かせる理念のある大人の社会にしなくてはならない。人の世の道を知る、人類の遠い先を見通せるような人物が、政界にも、経済界にも出てくれますように。
『三国志』は単なる戦の書ではない。義に生きる姿を学ばせてもらうことができる書である。社会でまことの活躍をしたいと願う人には学んでもらいたい書である。
*三顧の礼:蜀の劉備が三度諸葛亮の廬(いおり)を訪ねて遂に軍師として迎えた故事。そのことから目上の人が礼を厚くして、人に仕事を引き受けてくれるように頼むこと。単に目上、目下に拘わらずに使う場合もある。
*碑林:中国西安市の孔子廟にある二千三百余基の碑石および陳列所のこと。ここで関羽が曹操に捕らえられたとき、劉備に送った竹の絵が書かれた書簡の碑を見たことがある。西安碑林が名高いが、ほかにもある。
*井波律子先生:中国文学者。また項をあらためて後日ご紹介をしたい。