風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

教育を考える・その4-可愛い子こそ法事の主役

2006-05-15 23:10:33 | Weblog
5月15日(月)晴れ【教育を考える・その4-可愛い子こそ法事の主役】

幼児は何も分からないと疑いもなく思っている人が、多いのではないかと推察するが、いかがであろう。そう思っている親は、頭ごなしにただダメと怒ったり、我が儘を通そうとして泣き叫ぶ子どもを、諭すということができないのではなかろうか。

私は幼児でも心(この言葉は仏教的には問題のある言葉だが)の深いところでは全て分かっていると信じている。これは理屈ではなく、法事の度の経験を通して確信していることである。どこの家の法事でも子どもがいたなら、子どもに向かって法事の意味を説明するようにしている。子どもへの説明を通して大人も改めて法事の意味を反芻することができよう。法事の説明はその時々の状況によって異なる。

昨日はお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、お二人の三回忌と十三回忌ということで、四人の可愛いお孫さんたちも列席をした。一番の小さい子は三歳である。元気な男の子で少しの間もじっとしていることはできないのだが、それでも一緒に合掌するところは合掌しているし、般若心経の書かれたしおりも一人前に持っている。お経の間、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんに僕も自由に何か言っても良いよ、と言うと、時々お経の声に混じって、自由な僕の声が聞こえる。

「南無観世音菩薩」と皆で唱えたので、「観音様にお祖母ちゃんのことを、どうぞお守り下さいって頼んだのよ、僕もお唱えしてみる?」と聞いたら、「うん」と答えが返ってきた。真剣な顔をして「ナム」「カン…オン」「バサツ」と一緒に一声お唱えしてくれた。三歳のその子に、どこまでその意味が分かっているかは分からないが、小さなお手々を合わせて「 ナムカン…オンボサツ」と唱えたことは、坊やの心の奥にしみ込んでいてくれるだろうと、私は信じている。

お焼香の方法も子どもに向かって、きちんと説明をする。まずちゃんと合掌して頭を下げること。お香をつまんだら、それを額のところで念をこめること。「お祖父ちゃん、いつも有り難う。お祖母ちゃん、可愛がって下さったこと有り難う」ときちんと念じることを教える。それからお香を捧げるのよ、そしてまたきちんと合掌して頭を下げるのよ、と説明をすると、子どもたちは一生懸命それに習ってお焼香をしてくれるのである。

合掌やらお焼香やら一つ一つのことは、亡き人に捧げる真なのだから、心をこめて勤めることが大事である。私は子どもを信頼して、それを説明をする。大人にとってもこのような説明は無駄ではないだろう。三回お焼香を忙しげにする人が多いが、どうもその方法には念が込められないように見受けるので、私はその方法はお勧めしない。

三歳の坊やが一歳の時にそのお祖母ちゃんは亡くなられたのだが、「覚えている?」と聞くと「うん」と答えてくれた。お祖母ちゃんが遺影の中で微笑んでいるような気がする。他の孫たちはお祖母ちゃんのことは勿論よく覚えているが、お祖父ちゃんは産まれる以前に亡くなられているので、遺影でしか知りようはないが、法事の度にその存在のあったことを確認することが、子どもにとって連綿と受け継いでいる血の流れを知る大事なことである。

先々週のことだが、私は二歳の坊やに感動させられた。その日は坊やにとってお祖父ちゃんの七回忌であった。坊やは勿論そのお祖父ちゃんのことは知らない。でも私は二歳の坊やに向かって話した。お祖父ちゃんから僕に命がつながっていることを。お祖父ちゃんに今日は有り難うございますって感謝する日なのよ、とお話をした。

お部屋での誦経の後、お墓に皆でお参りに行った。お参りの終わった後で、坊やに私は尋ねた。「○○ちゃん、お空のお祖父ちゃんに有り難うって伝えられた?」「られたよっ」と坊やは、お空に向かってちいちゃな手をパッと伸ばした。

その瞬間に坊やと天がパッと繋がったかのような感じがした。二歳でも本当の意味が分かるのだ、と私は感じた。大人になったとき、このときのことを覚えているとは思わないが、坊やの心の奥底にしっかりと入っているのではないかと思うのだ。次の法事は六年後、坊やは八歳、小学生になっている。また会えるのが楽しみである。

人は亡くなった後どうなるのか、誰も本当のところは分かっていないだろう。その議論をするよりも、受け継がれていく命のことを伝え、感謝することを伝えていくことの方が大事だろう。そして幼いのだから多少騒いでもよいから、法事の席に一人前に列席し、法事を共に勤めさせてあげることは、教育として最たるものだと確信しているのである。

合掌は仏教に限ったことではない。天地人のエネルギーが集約される行為である。かつ天地に対する人の祈りの姿である。天地に示す人間の敬虔なる姿である。祖先への感謝を表す姿でもある。キリスト教社会、イスラム教社会では、幼いうちから祈りの姿を教えられるが、仏教国とされる日本では、日常的にはそれがないのである。子どもにとって惜しいことだ。せめて法事のときには列席させてあげて、祈りと感謝を子どものうちに植え付けてあげたいものだと思う。

宗教教育を排除するような教育は、頭でっかちな教育であることに気づいてほしいものである。