goo blog サービス終了のお知らせ 

風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

2011-08-15 09:27:00 | Weblog

8月15日(月)晴暑いです 【閑】

昨日棚経に伺った家で、李白の話が出ました。李白の漢詩が大好きなのだそうです。「山中問答」の話もでました。

話をしながら思い至ったのですが、李白の詩の意味とは別にして「心自閑」は、心はもともとに閑なのだ、というふうに読めないだろうか、ということです。いつも揺れ動いているのは、揺れ動かされているのは、やはり心ですが、その心はもともとは閑なのだというふうに読んでみたいと思いました。本覚思想と指さされてしまう解釈かもしれませんが。

帰ってから、あらためて本師の本を開いてみました。「閑」という項目があり、そこに書かれている「閑」についての本師の言葉をかきぬいてみましょう。

★禅門では、この「閑」という文字をひじょうに大切にしています。(中略)禅門では真実の道理ということになるのであります。

★人は三十年、五十年、八十年の生涯を生きるが、また三つで死ぬこともある。(中略)同じ天地のいのちなのですから、人間の尺度を外せば同じ尊さがあるのです。阿弥陀様の方から見れば長短を超えた同じ姿なのです。そこのところがの世界なのです。

というのは、宗教的風光が手に入った人の風光なのです。

以上の三箇所は長い文章から、直接、閑について書かれているところを取りあげただけですが、閑について書かれた全文を通して、本師が表現なさりたいのは、宗教の風光であろうと思いいたります。本師が伝えたかったことは、「宗教の風光」であろうと思い、私が編集させて頂いた本の題を『宗教の風光』としたわけです。

先日も宗教の風光とは、なんですか、と質問されましたが、稿をあらためて、考えてみたいと思いますが、宗教の風光は、実は悟った本師だからお使いになれた表現であったと、あらためて思います。それを悟ってもいない私が解説をすることは、かなり無謀な試みでしょうが、日を改めて、考えてみたいと思います。

「雲は嶺頭に在って閑不徹」もよく本師がお使いになった偈頌ですが、嶺頭に悠々たる雲が浮かんでいる光景が目に浮かびます。「水は澗下を流れて太忙生」と対句になっています。どなたの偈頌だったでしょうか。また調べておきます。*『明覚禅師語録』にありますので、おそらく雪竇重顯禅師の頌古でしょう。その後多くの禅者が使っています。多くの禅者が使っていますと、たまたま目にしたその禅者の語としてしまうことがありますが、一番年代的に古い人が、作者でしょう。

よくよく味わってみれば、「閑」は悟りの語でしょう。

 


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
疑問 (うさじい)
2011-08-17 16:43:37
>閑不徹とは徹底した静けさ、静寂さであり、太忙生はざわざわと大変忙しいさまをいう
(虚堂録)
ググってみると、大概このような解釈がされているようですが、よく考えてみると「閑不徹」は閑に徹せずと読むしかないのになぜ徹底した静けさなのでしょう?

私はずーと「水は谷の下でざわざわと動き、雲は忙しげに嶺頭を行きかっている」と解釈していました。
返信する
うさじいさんへ (風月)
2011-08-18 11:26:52
「閑不徹」ですが、この徹は動くという意味であろうと思います。「閑で動かず」というように訳せばよいのではないでしょうか。それを徹底した静けさというように徹の入った言葉で表現してしまうと、混乱が生じると思います。
不徹の閑で「じっと動かない静けさ」ということになるでしょうか。
この偈頌はじっと動かない雲、忙しく流れていく水の対照的な自然の様子を詠んでいるということになるでしょう。雪竇さんが拈古でつけているので、もう少し調べてみます。
返信する
うさじいさんへ (風月)
2011-08-18 11:59:26
舉。僧問國師。如何是本身盧舍那。云與老僧過淨瓶來。僧將到淨瓶。云却安舊處著。僧復問。如何是本身盧舍那。云古佛過去久矣。

という話についていた拈古でした。本身の盧舍那とはなんですか、という問いに対して、慧忠国師は淨瓶を持っておいで、と言い、持ってきたら元に戻せと言った真意はおまえさんこそ本身の盧舍那なのだ、と国師は教えたいのですが、質問した僧にはそれが分からなかった、という話。それに対してつけられた拈古の中の偈のようです。

ご質問頂き、勉強になりました。

返信する
懇切丁寧な・・・ (うさじい)
2011-08-18 14:38:41
ご教示有難うございました。
仰る通り漢詩的には動と静の対比が一般的なのに変だなと思いながら深く考えもせず、調べることも致しませんでした。長年の疑問が氷解いたしました。

今晩、6時30分から読経会の後短い法話をします。
このところ、ずっと原始仏教ばかりやっているのですが、今晩は少しこの話もしてみようと思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。