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心自閑(心自ずから閑なり)

2011-08-13 11:12:53 | Weblog

8月13日(土)晴 【心自閑(心自ずから閑なり)】

「心自閑」 この言葉は本師がよく揮毫されていたので、禅語だろうと思っていました。だからといってどんな書の中にあるかも調べなかったのですが、今朝、元首相の細川さんの隠遁生活の番組を観ていて、たまたま李白(701~762)の詩の中にあることがわかりました。

李白の代表作のようなので、ご存じの方は多いでしょう。

「山中問答」  李白

問余何意棲碧山  余に問ふ 何の意か碧山(へきざん)に棲むと   

笑而不答心自閑  笑ふて答へず 心自(おの)ずから閑(かん)なり

桃花流水杳然去  桃花流水 杳然(ようぜん)として去(ゆ)く

別有天地非人間  別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り

私に(ある人が)訊ねた、どんなつもりでこんな山奥に棲んでいるのかと。

私は笑って答えなかった が、心はおのずからしずかなのである。

桃の花びらが水の流れに随って、はるか遠くに流れ去っていく。(人里離れたそんな上流に棲んでいるということ)

俗世間にはない別天地がここにはある。

李白は若い頃、東巖子という隠者と一緒に岷山に隠棲し、道士の修行をしていたこともあるようです。 この詩はその頃の詩かもしれません。山の中で、心も自ずと閑(しず)かで、世の盛衰、世の喧噪から離れての日々を送っている李白の姿が浮かんできます。この詩を詠んだ山は、湖北省安陸県にある白兆山だそうです。

40歳くらいで宰相の孫娘と結婚したようですが、友人の推挙で天子の傍近くに仕えることになりました(科挙に受かったわけではないので、普通の官吏とは違う)。しかし、酔ったあげくのあまりに傍若無人の振る舞いによって、宮廷を追放されてしまった、という説もありますが、讒言によって罷免されるという説もあります。

李白の自由な魂にとっては、山野の生活のほうが相応しかったのではないでしょうか。

私にとっては、李白ように山のなかで隠遁生活を送ることは、夢のまた夢ですが、それでも今までの年月の中で、10日間だけ一人山中で暮らしたことがあります。人っ子一人来ない山奥で、断食修行と回峰行をしたのですが、あの日々は懐かしくも得難い経験であったと、今想いかえしています。またいつかしたいと思っていましたが、多くのことは、その時一度きりの経験であったことが、振り返ってみれば、多いことに気がつきます。

しかし、これから山の中ではないですが、隠遁生活を送りたいと思っていたのですが、もしかしたらそうではない展開になるかもしれません。はたして、どのように展開していくことになりますか。どのような動きの中にあっても「心自閑」の心境でありたいものと願っています、が、そうはなかなかできないでしょう。

せめて本師に揮毫して頂いたこのお軸でも眺めながら、自戒しつつ日々を送りたいと思っています。

*良寛様の詩にも、たまたま 「人間(じんかん)」の語が出てきました。やはりこの語は俗世間、人の世の意で、「じんかん」と読む方がよさそうです。


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