2月19日(日)晴れ【供養記 葬式無用そして白洲次郎】
今日は、ある家のご長男の一周忌であった。長男の家族が法事をしないというので、両親が施主となっての法事である。長男の奥さんや娘たちとは没交渉になってしまったのだという。どの家にもそれぞれ家族の事情があるので、何とも言えないことだが、没交渉ということは残念なことである。奥さんはともかく、娘さんはお孫さんにあたる。この初孫をおそらく生まれたときから、おじいちゃん、おばあちゃんは可愛がったことであろう。
長男の家族は無宗教なのだという。しかし年をとった両親にとっては、戒名もつけない、法事もしないということは、いかにしても受け入れがたいことなのだ。お仏壇には、両親が作ったという戒名のついた長男のお位牌がまつられていた。
ご両親の気持ちが少しでも落ち着いてくれたら有り難いと願い、ご法事をつとめた。私も母より先に逝った兄のことを思うと、他人事ではないので、この家のご両親の気持ちが痛いほどに察せられる。法事が終わって失礼するときに、お母さんが「お蔭さまで気持ちが落ち着きました」と言ってくれた。勿論私でなくとも、僧侶の誦経と法話には癒されるものがあるだろう。誦経には癒しの波動があると思う。
無宗教で葬儀をしなかったり、法事をしないというのも、確かに一つの選択肢である。死んでいく本人や家族の気がすむのであれば、それはそれとして否定されるものでもなかろう。亡くなった人に充分な供養となることが、宗教者が導師を勤めるご葬儀の他にあるのなら、という条件付きで、私はよいと思う。決して宗教的なことだけが、死者を送るに相応しい方法とは限らないだろう。
しかし、この家の場合、両親の気持ちは、先祖からの仏教的な法事や祀り方をしないことに、少しも安らぎがなかったのであるから、長男家族がとった無宗教、法事無用という方法はよいとは決して言えない。親の気持ちが一番尊重されるべきであろう。
さて、その夜、机に積んである本の中から、たまたま『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利著)を手にとった。白洲次郎氏は私の好きな随筆家白洲正子氏の夫である。吉田茂首相の信頼を受け、終戦連絡事務局次長、貿易庁長官などを歴任し、占領下の日本を背負った男の一人である。占領軍相手に少しも怯むことなく堂々と、日本のために張り合ってくれた人である。また東北電力の代表取締役や軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長などをつとめ、おおいに信念を持った活躍を果たした人である。
その人の遺言は「葬式無用、戒名不用」である。丁度今夜読んだ頁にこのことが書かれていたので、面白い符合だと思った。「葬式無用、戒名不用」は本人の意志であり、遺言書も残されている。「知りもしないやつらがお義理で来るのなんか真っ平だ」とも言われたという。家族もこの意志を受け入れて、その人に相応しい見送り方がなされた。棺を囲んで古い友人たちが集まり、一晩中お酒を飲んで、故人を偲んだという。故人の思い出話に泣いたり、笑ったりしながら、名残りの見送りをしたのである。
こんな洒落た見送りができるには、故人もその家族もその友人たちも、それぞれ役者が揃わないとできないことである。人生を燃焼し尽くした人にしてできる選択の一つであろうと私は思う。
昨年、葬式無用と遺言を残した人のご葬儀を頼まれた経験がある。なるべく故人の遺志をいかした式にして貰いたいと注文を受けて、その方法に頭を痛めたが、見送りの基本は変わらないので、誠を尽くしてお見送りをした。白洲氏の言葉どおり「プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことは無い。」と同じことである。
それぞれ自分の望むように人生の幕引きを演出するのもまた楽しからずや。
今日は、ある家のご長男の一周忌であった。長男の家族が法事をしないというので、両親が施主となっての法事である。長男の奥さんや娘たちとは没交渉になってしまったのだという。どの家にもそれぞれ家族の事情があるので、何とも言えないことだが、没交渉ということは残念なことである。奥さんはともかく、娘さんはお孫さんにあたる。この初孫をおそらく生まれたときから、おじいちゃん、おばあちゃんは可愛がったことであろう。
長男の家族は無宗教なのだという。しかし年をとった両親にとっては、戒名もつけない、法事もしないということは、いかにしても受け入れがたいことなのだ。お仏壇には、両親が作ったという戒名のついた長男のお位牌がまつられていた。
ご両親の気持ちが少しでも落ち着いてくれたら有り難いと願い、ご法事をつとめた。私も母より先に逝った兄のことを思うと、他人事ではないので、この家のご両親の気持ちが痛いほどに察せられる。法事が終わって失礼するときに、お母さんが「お蔭さまで気持ちが落ち着きました」と言ってくれた。勿論私でなくとも、僧侶の誦経と法話には癒されるものがあるだろう。誦経には癒しの波動があると思う。
無宗教で葬儀をしなかったり、法事をしないというのも、確かに一つの選択肢である。死んでいく本人や家族の気がすむのであれば、それはそれとして否定されるものでもなかろう。亡くなった人に充分な供養となることが、宗教者が導師を勤めるご葬儀の他にあるのなら、という条件付きで、私はよいと思う。決して宗教的なことだけが、死者を送るに相応しい方法とは限らないだろう。
しかし、この家の場合、両親の気持ちは、先祖からの仏教的な法事や祀り方をしないことに、少しも安らぎがなかったのであるから、長男家族がとった無宗教、法事無用という方法はよいとは決して言えない。親の気持ちが一番尊重されるべきであろう。
さて、その夜、机に積んである本の中から、たまたま『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利著)を手にとった。白洲次郎氏は私の好きな随筆家白洲正子氏の夫である。吉田茂首相の信頼を受け、終戦連絡事務局次長、貿易庁長官などを歴任し、占領下の日本を背負った男の一人である。占領軍相手に少しも怯むことなく堂々と、日本のために張り合ってくれた人である。また東北電力の代表取締役や軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長などをつとめ、おおいに信念を持った活躍を果たした人である。
その人の遺言は「葬式無用、戒名不用」である。丁度今夜読んだ頁にこのことが書かれていたので、面白い符合だと思った。「葬式無用、戒名不用」は本人の意志であり、遺言書も残されている。「知りもしないやつらがお義理で来るのなんか真っ平だ」とも言われたという。家族もこの意志を受け入れて、その人に相応しい見送り方がなされた。棺を囲んで古い友人たちが集まり、一晩中お酒を飲んで、故人を偲んだという。故人の思い出話に泣いたり、笑ったりしながら、名残りの見送りをしたのである。
こんな洒落た見送りができるには、故人もその家族もその友人たちも、それぞれ役者が揃わないとできないことである。人生を燃焼し尽くした人にしてできる選択の一つであろうと私は思う。
昨年、葬式無用と遺言を残した人のご葬儀を頼まれた経験がある。なるべく故人の遺志をいかした式にして貰いたいと注文を受けて、その方法に頭を痛めたが、見送りの基本は変わらないので、誠を尽くしてお見送りをした。白洲氏の言葉どおり「プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことは無い。」と同じことである。
それぞれ自分の望むように人生の幕引きを演出するのもまた楽しからずや。
先日、実は隠れ愛読者であったことをカミングアウトしたH.N.「知殿@Net」です
お問い合わせいただいた私のブログのURLをお伝えしようと思い立ち寄りました。
今回の随筆も非常に興味深く読ませていただきました
故人の見送りに関しては、僧の身である以上、常に真剣に対峙していきたいものですね。
組織単位で統一見解を設ける必要はないと思いますが、やはり携わる僧の一人一人がしっかりとした意識をもって悲しみの現場に立ち会っていきたいものです。
葬儀の意味付けどうこうよりも、実はその僧の姿勢自体が問われているのでは…と最近感じます。
携わることの経験によって、悲しみの現場に下手に慣れないように自らを戒めている今日この頃です。
また、楽しく読ませていただきます
私の問題として、法事に宗教的安心を見いだせるように、つとめていきたいと思います。
白洲さんのような洒落た幕引きは誰にでもできるものではないですから、お葬式がなくなる心配は今のところ無いと思います。私も尼僧として皆さんのお布施で生かされていますので、お葬式がなくなれば困りますが、そんな心配よりも僧侶としての自らの未熟さを心配しております。
北先生のますますのご活躍を祈ります。
コメント有り難うございます。僧侶の方からは反対意見がコメントされるのではないかと思っていたのですが、ご理解有るご意見に感謝いたします。これからも宜しくお願い致します。法要に関するブログ情報楽しみにしています。20年ほど前になりますが、あるお寺のお授戒に隨喜しましたとき宮崎禅師様(当時たぶん監院老師)が「儀式は真摯に勤めるものです」とおっしゃいました。その一言が忘れられません。知殿関係の儀式などに精通の知殿@NET様に恐縮ですが、御礼かたがた一筆申し上げました。
こちらもTBさせてください。
記事を大変興味深く読ませていただきました。
法事に出席するたびに
命の重みを痛切に感じます。
そしてこちらも心が落ち着くのです。
白州さんはカッコよすぎますね!
武相荘は白州さんらしいおうちでした。
私自身、
実は曹洞宗のお経を聞いて育ちましたので
イザというその日には
お導きをいただいてあの世とやらへ
旅立ちたいなあと願っています。
今、北さんのご本を買ってきたところです!
楽しみ~
当方は古い邦画にどっぷりのブログですが
よろしかったら遊びにいらしてくださいね。