mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

おもしろい、藪の中のワタシ

2024-05-29 08:04:06 | 日記
 筋道の通った夢を見た。COVID-19パンデミックのような社会状況(だろうと思うが、ぼんやりとそういう雰囲気)を生きる一人の人物(ではあるが男か女かは覚えていない)の生き方を取り上げて、学生が論文を書いている。学生ではあるが、高校生か大学生かわからない。書いている学生が夢を見ているワタシなのだが、コンテストに応募しようとしているのか、教師の提出した「宿題」に応じているのかはわからない。
 ただ、社会状況が移ろうので、どこで(論文の)切りをつけていいのか定かでない。ああ、こういうのを始末に困るって言うのかと、どこかで思っている。そう思っているワタシは、でも、論文を書いている学生ではない。宿題を求めた教師でもない。でもその論文を読んでいる。そして、そこは見切りをつけるんだよとサジェストしてやりたい気分を、どこかにもっている。
 その「見切り」をつけるっていうとき、パンデミックの社会状況を見切るんだ。でもそれが、外に流れていくデキゴトにストップモーションを掛けるのではなく、じつは自分に見切りをつけることなんだ。そう、サジェストしてやりたいと感じている。移ろう社会状況というのは、見切ることができないワタシの胸中であって、ワタシ自身がそれをすっぱりと切り分けることができないんだよ。しかしワタシが見切ることができないにもワケがあるから、それがなぜなのか、何を目安にして切り分ければいいのかは、そこを腑分けしなくてはならないね。そこがムツカシイねと、学生に言っているのか夢見ている私に言っているのかわからない。
 すると、学生を呼んで、教授らしい人物が話をしている。この論文はおもしろい。取り扱っているテーマもしっかりもしている。でも、主題が拡散して、このままでは描こうとする人物の功績が浮き彫りにならない。論文の前半の3分の2に絞るようにして、後の3分の1を切り離すように書き直しなさいと(いう趣旨のことを)説明している。
 学生は、迷妄が一つ開け、自分が書こうとしている論文の焦点がわかったかのように頷いている。この説明しているのが、ワタシなのかどうかもわからなかったが、最後にその人が「困ったら、この人に相談しなさい」と指さして言ったので、「この人」というのが、傍らにいたワタシなのだとわかった。ワタシは大学院生なのだろうか。助手なのだろうか。
 ・・・と、起きてから反芻してみると、そのような筋道の通った夢を見た。
 書こうとしているものが「拡散する」のは、ワタシの身の習い。いつも感じていていること。そうか、いつか論文を書いてみたいと思っていることの欲求の表出か。
 書き留めていることが「拡散する」っていうのは、切り分けられていない、つまり何もかも一緒くた。現象していることを、そのままに受け止めて、受け止めた感触だけを書き記し、ではそれが「どういうことであるか」を論理的に突き詰めるところにまでもっていっていない。見切るというのは自分を見切ることだよ。切り分けるというのは、自分を切り分けることだよ。そういう修練を積んだ専門家が、この夢に登場する教授らしき人であって、それを受け入れたいが、どうしていいかワカラナイ。学生であるワタシと、それの相談にあずかる院生かも知れないワタシが、今私のなかに共存しているってコトか。
 そうやって夢の解析をしていて、ふと、おもしろいことに気づいた。
 ユメでは、主体がどんどん入れ替わる。学生であったものが、コンテストの審査員であり、指導教官であり、助手か院生であるというふうに、夢見る主題を、まるで藪の中の殺人を探るように、読み取る立ち位置に応じて変幻自在。それが全部、ワタシなのだ。
 ということは、つまり私の主体は、それだけ多面的であり多様なのだ。でも現実の私は一つの立ち位置しかもっていない。にもかかわらず、多面的であるというのは、私が見て取り、読み取る現実社会のさまざまは、すべてワタシの所業としてわが身の無意識に取り込まれている。
 実はワタシは、この世のデキゴトの、ユメも虚構も含めて私が感じたことすべての主体を、併せ持っている。その主体は、イマ・ココでの現実存在としては一つしかないけれども、思考としてはいろいろな立場に身を置いて考え、それらを総合してリアル・ワタシの志向として、振る舞い口にし、あるいは書き記している。その根拠は、実は大半が我が人生八十余年の無意識から繰り出されているにもかかわらず、そのほとんどを意識して取り出し解析することなく、ジブンとして表出している。
 それをときどきユメの中で、調整して、無意識のバランスをとっているのではないか。そう、今朝の夢を読み解いている。
 その夢の中で、まだ何かを主題にしてまとめようとする気脈が流れていることを感じとって、うんうん、そうそう、それが枯渇しないかぎり、ワタシはまだ、生きていくんだ。そういう、わが身の裡側からのメッセージに感じて、うれしくなっている。
 これって、ひょっとしたら、「お遍路満願報告」をしたことへの弘法大師のお告げというか、ご返事なんじゃないか。
 ははは、まるでオカルト。
 うん、でも、そういえば「密教」って言ったよな。うんうん、それでいいのだ。