mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

なぜテツガクするの?

2024-05-09 09:07:24 | 日記
 東洋経済online(2024/05/04)に、《なぜ哲学は多くの人が挫折する学問なのか?》という記事があって、目を通した。「初心者でも哲学のいろはがわかる学び直し法」と袖見出しがついている。筆者は「ネオ高等遊民(哲学YouTuber)」。you-tubeというのにはこういう人もいるんだ。それにしても、「ネオ高等遊民」という命名センスは、「ネオ」とつけてはいるが、何ともアナログ。
 なるほど「学問」を学ぶってセンスだ。まず通史的な本を読む。ついでお好みの哲学者を選んで「入門書」を何冊か読む。次は「読書会」に参加する。最後に哲学対話や(哲学カフェの)雑談を聴いてみる。そうした後に「応用編」として「自分でも書いたり話したりしてみる」と書いている。
 命名がアナログってだけじゃない。この方、たぶん哲学という学問で飯を食ってきて、それに自足しているって感触。「学問」としての哲学について語っているのに、テツガクしている気配を感じさせない。「哲学学」の方なんだ。
 もちろん飯の種としての哲学があっても、別に悪いわけではない。洋の東西の原書を読み、解きほぐして「論題」を整理し、時代を超えて考えるのも、市井の庶民にとってはちょっとした物語を読むようで、おもしろい。でもそれなら、たとえ途中で読み止めても「挫折する」とは言わない。わが身の胸中にインスパイアする何かを感じなかっただけだ。あるいは、何かを感じて読み進めても、それにワタシが何を感じていたのかに踏み込まなくては、テツガクするとは言わないと私は思っている。
 でもこのライターは、「初心者でも哲学のいろはがわかる」と銘打っている。洋の東西の,名だたる哲学者が何を問題にして、どう考えてきたかは「いろは」じゃないのか。たしかに、そうだ。でもそれは「知識」じゃないか。テツガクするというのは、「知識」を身に付けることではない。「知識」に出遭ったとき、それとワタシがどういう位置関係にあるかをみてとり、私の世界のこととしてモンダイを設定し直し、自問自答を始める。それを私はテツガクすると呼んでいる。
 このライターが、「自足している」と先に(私が)書いたのは、「知識」を身に付けることを目的のように捉えていると感じたからだ。「読書会」に参加するというのは、他の人の読み取り方と私のそれとを較べて、ワタシの狭い世界の殻に気づき、それを食い破る入口を探るきっかけになる。そう位置づければ、明らかにテツガクする道へ踏み込んでいると言えよう。だがこのライターは、古今東西の名だたる哲学者の航跡を正しく読み取っているかどうかをチェックすることをイメージしていると思える。だから、「挫折する」「いろはがわかる」と言葉にすることができた。
 何に私はこだわっているのだろう。
   門前の小僧を自称する私は、「哲学を学ぶ」ことと「テツガクする」ことを区別したいと思っている。それは「哲学的な知識を身につける」ことと「テツガク的に考える」こととは違うと思っているからだ。
 もちろん世の哲学者がテツガクする様子は、その研究書から窺える。それを究める姿は、とても門前の小僧の近づけるものではない。一つひとつの言葉の原籍登録をして、それが時代によってどう移り変わっているかの足跡もあとづけ、その長い旅の果てに少しばかり時代的な風味を加えて「論題」の先に新しい提言をする。そう感じるから、研究者の歩き方を「哲学学」などと揶揄うつもりはない。
 むしろそのような哲学者が、先に述べたように、古今東西の哲学者の探求を解きほぐして「解説」し、目下の時代や世界で突き当たっているモンダイに切り込む糸口を示す著作には、大いに扶けられている。それはしかし、受けとっている私にとっては、単なる「知識」ではない。ワタシが無意識に堆積している人類史的身体が、ほらっ、みてご覧、これがあなたですよと提示されているように感じられる。ワタシの鏡なのだ。
 このライター、「ネオ高等遊民」のセンスは、20世紀のもの。もう今の時代、哲学者とテツガクするを区別することなく提示したり、哲学的知識を学ぶことをテツガクすると勘違いする/させるようなこと、専門家と門前の小僧とを一緒くたにして語り聴かせるような口舌は、古い時代を呼び返しているとしか思えない。テツガクするって、どうすること? なぜテツガクするの? ってことを言葉にしてから、哲学の航跡を辿る案内を始めてほしい。
 世間の噂から、you-tubeというのをこんな口舌の集積所だと思っていたのは、見当違いではなかったっていうことか。