mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

高野山への旅(2)町石道

2024-05-26 10:42:23 | 日記
 高野山から家に帰り着いたのは一昨日の夜9時半頃。ふだんならもう寝床に入っている時刻。風呂を立て、湧くまでの間に荷物を整理し、洗濯物を籠に放り込む。風呂に入り寝入ったのは11時頃だったろうか。目が覚めたのは朝の6時頃。トイレにも行かず7時間ぐっすりと寝入った。ま、一日行動といっても、電車の中は身体を休めていたわけだから、山歩きと同じか。
 起きてから、昨日の記事に取りかかった。カミサンは朝食を済ませ洗濯物を干すと、北本自然公園へ出かけるという。来週の植物案内の下見。車を出そうかというと、あなたは書くのが大変でしょう、電車で行ってきますと言い置いて出かけた。元気がいい。こっちも頑張らにゃあ。
 そう思って書いていたが、何とも平凡な行程記録のようになっている。 10時半頃に飽きが来て、そうだ生協へ買い物ついでに歩こうと、出かけた。夏日のような晴天。陽ざしを避けるのに、お遍路の菅笠がいいかなと思ったが、街中をあの恰好で歩くのは、さすがに憚られる。四方に庇のついたモンゴル帽子を被り、リュックを担いで遠回りの道を通る。陽ざしの割に空気はそれほど暑くない。これが五月晴れの気配かと、ゆっくりを歩を進める。いかにも年寄りの散歩って感じ。3.5kmほどを40分足らず。時速5.2kmくらい。ま、いいペース。脚が草臥れる感触はない。
 12時頃に帰宅、お昼を済ませた後、しばらくソファに座ってTVをぼんやりと観ていたが、何だか全然おもしろくない。これが私の「疲れ」なのだろうか。再びデスクについてパソコンを開いて、旅の記事を書き続けた。午後2時半頃にカミサンが帰ってきた。「何だかこれといって、なかった」と特筆する植物が目に止まらなかったようにいう。ああ、これも、疲れなのかも知れないと思った。
   *
 さて高野山の第2日目。九度山からの町石道歩きを、紀伊細川駅まで電車で行き、稜線上の矢立で町石道に合流するように歩くことにして、電車の駅に向かう。九度山の駅には、ホームに店を開き、本を並べ、飲み物などを販売している。人気がそれほどないのに、とそのときは思った。だが、帰るときの電車はなぜかここで、15分も停車時間があった。何人かの客が降りて本を手に取り、お店の方と何かお喋りをして、紙コップに入った飲み物を買って戻ってきた。なるほど、これなら商売になる。
 電車は丹生川を50mほど下に観ながら高度を上げる。背の高い杉の木立が密生し、樹間に人の住まいが点在する。こんなところに暮らしてきたんだ。私と弟は紀伊細川駅で降りる。一旦川縁まで下り、そこから町石道に合流すべく、高野山の稜線に向けて歩き始める。家屋が点在する。車も通れる舗装路。50分ほどの間、一台だけ後ろから来て上っていった。
 矢立の交差点に「59町石」をみ、合流したことを知った。町石は、下に1メートル50センチほどの直方体の礎石を置き、その上に少しへしゃげた丸い石、その上に台形状の石、その上に二段、石を積んで、全体では2メートル半ほどになろうか、五輪を模した石柱である。下から、土、水、火、風、空と、石がそれぞれ天地宇宙を示しているという。その石の形が大きくなったり、角張ったり、角が跳ね上がったり、デザインが時代によって変わるので、いつごろつくられたものか、推定できるそうだ。一町、109mごとに置かれているので、町石(ちょういし)と呼ぶそうだが、九度山の慈尊院と高野山金剛峯寺の金堂とが180町ある間の参道を、胎蔵界(の町石)といい、金堂から奥の院の空海御座所までを金剛界と呼んで、そちらにも36町石が置かれているそうだ。金剛界は仏の世界だから、私たちは胎蔵界を歩く。分に見合っている。
 弟が先に歩く。彼は背は高いが痩せている。ふだん1時間程度の散歩をしているそうだが、はたして歩けるかどうかと心配していたから、ゆっくりねと私は後から声をかけていたが、なんのなんの。ゆっくりながら歩幅も広く、テンポもいい。追いついていこうと思うと大変だ。でも私の身体は、それほど融通が利かない。弟は後ろに目があるかのように歩度を緩めたりしている。
 矢立からすぐに山道に入り、鬱蒼とした樹林の中に、一町ごとに町石が立つ。これは歩くペースをつくるように励みになる。町石は崩れているのもある。土に深く埋まって背が低く見えるのもある。あるいは二本立っていて、一本は石が苔むして剥がれ落ち、もう一本は文字の彫り込みもくっきりとみせて、再建されたものもあった。なかには二本とも、横にたとえば文永何年と彫り込みを入れているのに、後には大正何年と建立時期を記していたりして、鎌倉期のものが逐次補修されている様子がわかる。しかも、「*町」の下に建立者の名前が彫り込まれ、藤原朝臣**とか、左近之将監平***とか、**比丘尼とか**女ともあって、女性による寄進もあった。でもその人が担いできたわけではあるまい。資金を提供して、五輪を模した石を職人が担ぎ上げて設置したのだろう。それにしても、この大石を担ぎ上げ、土を掘って埋め込むのも、容易ではない。1200年ほどの期間があるとは言え、信仰が力になっているんだと思う。
 40町石のところに「通行止め」の看板が立つ。崩土のため通行できないとして、道を閉鎖している。脇を通る国道をしばらく歩いて、また町石道へ下り入る。ここかなと思ったところが、あまりに近過ぎて通り過ぎ、やはりあそこだったと思い直して戻るというヘマをしたけれども、15分くらいのロスでまた林間道を歩き、なかなか快適な参道であった。
 九町を過ぎて程なく車道に上がり、道を横切ると大門であった。12時18分。そうか、ちょうどロスした分だけ時間がかかっている。ということは、概ねコースタイムで歩いたわけだ。そう思っていたら、弟は脚がちょっと不安定になっているという。無理していたのだろうか。ふだん歩き慣れない山道を長い時間上るというのは、膝や腰に思わぬ負担をかける。私は、山歩きを再開したからいいようなものだが、弟はたいてい平地の散歩くらいらしいから、後で響くかも知れない。付き合わせて、悪かったね。
 弟嫁さんやカミサンとも落ち合い、そこでお昼。昨日買っておいた柿の葉寿司と大葉寿司をベンチに座って頂戴する。大門の四天王像が睨みを利かせている。集団の観光客がぞろぞろとやってきて、壇上伽藍の方へと消えていった。紅毛碧眼の外国人も、中国語らしい会話も聞こえるから、シンガポールや台湾からも来ているようだ。
 大門から広い車道を中門へと進む。ここからは、一町、二町と町石が新しく始まり、36町の奥の院まで続く。途中で壇上伽藍へ踏み込み、根本中堂などを経て金剛峯寺の方へ向かう。修学旅行の生徒たちや団体ツアーガイドの説明を受けている人たちと行き交いながら、金剛峯寺へ行き、私は御朱印等に書き込みをしてもらう。ケーブルカーで到着したカミサンたちは午前中に金剛峯寺も壇上伽藍もゆっくり見物したそうだ。弟嫁さんがこの地を何度も訪れて、詳しい。町石道も山岳会の人たちと一緒に歩いて、一日で一回りして帰宅するというハードなハイキングだったと笑って話していた。
 先ずは奥の院に行き、空海の御座所に参拝して「満願」の御朱印をもらわなくては。奥の院の正門から入場する。ジャニー喜多川のお墓もあるというので、寄っていく。墓所を歩き回りカミサンが見つけた。姉の藤島メリーと並んで建てられ、没年も記されている。彼は死後の騒ぎはまったく知らないままにこの地に眠るのか。何ともはた迷惑な性癖に取り付かれたものだなと思う。
 奥の院入口の御廟橋のところは工事をしていた。そこから菅笠を取り、奥之院御廟へすすむ。ちょっと身が引き締まる感触。お坊さんに尋ねると御廟の裏側に回れという。裏へゆくと、すでに二人の女性がお経を上げている。「満願」のご報告をするのはここかと聞くと、この先を回ると地下への御座所へ出るからそこでご報告するといいと教えてくれる。なるほど、地下には細かく仕切られてネームプレートが打ち込まれている。納経するとともにここにネームプレートを仕込むのが作法のようだ。私は、信仰心があるわけでもないので、ただ単に四国八十八ヶ所のお遍路を歩いて回りましたよ、その間無事でアリガタイと感謝していると、般若心経に込めて読経した。
 さあ、これで御朱印帳に書き記してもらえば、「満願」である。納経所には、これからあちこちを経巡るのであろう、新しい御朱印帳を求める人が列をなしている。並んで待ち、御朱印を頂戴する。
 カミサンたちが待つお休み処へゆくと、若いお坊さんがお説教の時間だけど、どなたもいないから、困っていた。ぜひ時間をとって話を聞いて下さいという。それはどうも、ありがとうございます。そうしましょう。一日二回、ここでお説教をするという。話しぶりは若い落語家のよう。父が僧侶、その後を継ぐようになると言いながら話し始める。この年だと私より一回り若い父親だなと思っていたら、帰り際に誰かと話していて彼が52歳だというのが耳に入った。じゃあ父親は私と同性代だ。若くて、軽いなあ。ふと羨ましく思った。
 宿へ戻るのは、一の橋への道を辿った。弟はそこからバスに乗って高野山駅に行き、堺の家へ戻る。私たちは宿坊に泊まるから、歩いて宿へ向かう。4時半頃、宿着。古いが豪勢なお寺さんらしく、前庭も中庭も落ち着いたたたずまい。でも、宿のシステムはいかにも温泉宿の手際の良さを誇るかのように調っていて、フロントにも人が並ぶ。半数は外人客じゃないかというほど多い。カードで支払いができるかと尋ねたら、もう支払いは終わっていると返ってきた。そうだったか。
 暢気なものだ、すっかり忘れている。一部屋空いている、インターネットで申し込んで下さいといわれて、パソコンを操作したのは覚えているが、そのとき、支払いまで済ませていたことは忘れてしまっていた。
 さらに「酸素カプセル」も申し込んでいるという。すぐに支度してここへ来て下さい。夕食前に疲れをとるのにいいですからといわれる。
 部屋に荷を置きフロントへ戻る。案内されて静かな別室へ入ると、一つがカプセル、もう一つは二人が入れる小部屋になっている。私はカプセルに入り、カミサンが小部屋に入った。密閉してから、酸素が投入される。私の方は寝るからといって照明を全部消してもらった。カミサンは、後できくと、TVの大相撲を観て過ごしたそうだ。もっと酸素が強くて、頭が活性化して困るかと思っていたが、まるでそういうことはなく、50分ほど一寝入りした程度の感触であった。(つづく)