mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

高野山への旅(1)麓の九度山の奥深さ

2024-05-25 14:24:50 | 日記
 高野山2泊3日の旅から無事、昨夜遅く、帰ってきました。昨年十一月に四国八十八ヶ所の歩き遍路を終え、最後の高野山へお詣りして「満願」が叶うという仕切たりを知って、高野山へお詣りしようとなった次第。何とも信仰心のない成り行き任せなのだが、歩き遍路の最後に辿り着いた「さとり」が、「ワタシは空っぽ」であったから、ま、ミーハーついでに一つ、始末をつけておこうというくらいの気分であった。
 その私の「満願」の旅に、カミサンが付き添うという。私は高野山は3回目。ただ、最初の高野山は20代の終わり頃、何かの夏合宿として行って宿坊で泊まったことを覚えているだけ。そうだ、当時は何処にでもあった和式便所の下が何メートルもの高さがあって、わが身から離れた分身がポトンと音が立てるまでにずいぶん時間がかかったという印象が残っている。
 2回目は十年前の8月初め。4月に亡くなった末弟の供養のためと称して、長兄、次兄と一緒に大峯山に登り、山頂の宿坊で一泊して下山後、高野山まで脚を伸ばした。そのときは山上の温泉宿坊に一泊、翌日、堺の町に住む弟夫婦の案内で、高野山の奥の院にお詣りし、その入口にある水かけ地蔵に「末弟の成仏」を祈願したことがあった。
 今回はお遍路が終わったことを知った弟の嫁さんが、高野山はこんなにいろいろな旅を企画できますと考えて、「高野山の資料」を沢山送ってくれた。それで、麓からの高野山、その入口に九度山という聖地があること、そこから歩いて上る道があることを知った。
 九度山という文字をみたとき、なんとも馴染みがあるという感触が湧いていた。子どもの頃から読み親しんできた真田十勇士の物語。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道といった名が、ぷかりぷかりと胸の奥から浮かんでくる。それと共に、清廉潔白で知恵者の真田幸村。現場指揮官の人柄と才覚が、何となく好ましく身に染みこんでいる。それとともに、幸村の居城であった岩櫃山に登ったこと、上田城やそこからみた景観、さらに幸村が繁く通ったという別所温泉に泊まったことも思い起こしていた。いやそれよりも、大坂冬の陣の後、幸村親子が配流されたのが九度山であった。
 もちろん幸村たちより空海の方が何百年も前だ。空海を気遣ってやってきた母親が(女人結界の掟に従って)九度山に居を構えたので、空海は気遣って何度も高野山から脚を運んだのだそうだ。それが九度に及んだので九度山と地名が付いたと聞いた。空海の母親がその地で没したので建てられた慈尊院が、女人高野と称される聖地とも知った。どれも、今回の旅で耳に挟んだ話である。その慈尊院を起点として高野山の金堂まで180の町石が設えられ、そこが参道となっているという。歩くことしか取り柄のない私、歩いて登らざるべからず。まず1日目は九度山に宿をとることにした。
 ネットで調べると、九度山の宿は二ヶ所あった。ひと月も前であるのに、駅に近い方の「旅館」はいっぱいであった。もう一軒の宿は電話申し込みだけの受付。何度か電話してもつながらず、留守電に宿泊希望の日付を残しておいたらご亭主から電話が来て、確保できた。そのとき「素泊まり5800円、朝食800円、夕食1200円」といい、「橋本に温泉付きのレストランもあるので、そちらで済ませておいでになってもいいのでは」という。なんだか食事つきをめんどくさがっているように感じて、どんな宿だろうと心配であった。
 弟夫婦も、九度山で合流して、翌日の踏路と奥の院のお詣り、「満願」を済ませるのに付き合ってくれるというので、九度山は二部屋4人の宿泊となった。宿のご亭主は昼間どこかへ出かける用事がある。お昼頃駅に着くと予定を話したら、留守にするが二階にe2部屋用意しておくから、荷物を置いて慈尊院へ行くといい。そのとき宿へ戻る途次の「道の駅」で朝食を買ってきてくれれば、朝食代800円が無用になります。また、夕食は車で5分のところに送り迎えしますともつけ加え、ああ、この宿は食事の賄いをやめたんだとわかった。
 というわけで、1日目、南海高野線の電車で合流した私たちは、先ず宿に行った。九度山の街はいかにも山の麓らしく凸凹の傾斜に倣うように道路が上がったり下ったりして両側に屋並みを列ねてくねくねと続き、いかにも古い町であることを示している。格子窓も、そうだし、屋根の上の煙抜きだろうか、二階屋のさらに上に小さく屋根を設えている。屋根瓦の鴟尾も、なんとなく由緒ありそうなつくりだ。シャッター街という風情は、いずこの町も同じと思われたが、九度山の駅を降りてから歩く道道の家々には、六文銭と九度山と記した朱い提灯が下げられ、いかにも真田の里という風情を醸し出している。
 宿は古くからのものらしく、建て増しして大きくなったようだ。いくつもある二階の部屋には、しかし、今朝ほどまでつかっていたものらしい寝床がそのままにしてあったりして、おおよそ「旅館」として使用はしていないもかも知れない。何もおいてない床の間つきの八畳間に荷物を置いて、先ずは昼食と出かけた。「真田古墳(真田の抜け穴伝説)」と囲われた井戸のような「遺蹟」がある。歴史に詳しい弟の説明では花崗岩らしい。1メートルほどの地面には緑の草と白い花が空いている。「抜け穴」は2メートルもない。「真田の抜け穴伝説」は、この地の人びとの時代に対する憤懣が、悲運の武将親子の物語に託されて語り伝えられたもののようだ。女人高野の物語よりも真田親子の物語の方が、なぜこの地の人びとの思いを託すのにふさわしかったのだろうと私は、考えるともなく思っていた。
 お昼は武家屋敷のような設えの蕎麦屋さん。畳敷きの和室にテーブルと椅子席を設え、何組もの人たちで満席のような状態。静かな賑わいってところか。細く打った蕎麦は、キリッとしまっている。添え物の緑がかったおろしだいこんも辛みがない。おいしかった。
 すぐ近くの真田屋敷跡「真田庵」には、真田親子の悲運と没後130年ほどに寺院が創建され(「真田庵」として)残っていると由緒由来が書き記されている。だが庭の樹木の間に立てられた支柱に「←MASAYUKI」「YUKIMURA→」「←DAISUKE」と矢印付の英文字がつけられ、それが何を意味するのかわからなかった。
 すぐ脇の延命寺には「真田昌幸墓所」と記された九度山町教育委員会の説明標識も立ててあり、「真田昌幸公四百年忌碑」も立ち、六文銭の付いた鳥居、「真田地主大権現」の墨書といい、墓地の石彫りの六文銭の扉といい、誇らしげであった。5月連休に「真田まつり」が催されたポスターも、入口の格子戸に貼ったままにしてあった。真田一色である。
 慈尊院へ向かう。コウヤマキがそちらこちらに植えられている。栴檀の木がたわわに花をつけ、街角を飾っている。田圃の片隅に何やら屋根庇の付いた掲示板がある。そこには手書きで、「龍光尊の由来」と表題をつけて、1141年、平安時代の後期にこの地に来た仏師が高野山中門の多聞天持国天の二像を彫ったとあり、その出身地が岡山県と記されていて親しみが湧く。でもなんでそれが、遠く離れたこの地に、しかも田圃の隅に、手書きの墨書で設えられているのか。何かありそうだと思った。
 慈尊院は、一段高い2メートルほどの石垣の上に山門が両脇に築地塀を広げるように建っていた。山門の中には、根本大塔と同じ様式の仏塔が建てられ、ひときわ異彩を放っていた。中の御堂には乳房型の布で作った置物が沢山置いてあり、傍らに有吉佐和子の小説『紀ノ川』の一説が紹介され、ここが「女人高野」と呼ばれ、「暗算、授乳、育児を願う民間信仰である」とあった。人気も少なく、静かであった。
 境内の奥に大きな鳥居があり長い石段が上へとつづき、丹生官省符神社と石碑が立つ。上へ上がる。ここが亡くなって後に遺族がお祓いを受け喪が明ける「忌明清祓神社」であることと、ここが空海の創建によると説明書きがある。神仏習合は、密教においても土俗信仰との習合によって根付いてきたと示しているようであった。
 ここから町石道が始まる。これを「ちょういしみち」と読むことを初めて知った。一町が109m、それが高野山金堂まで180町置かれ、高野山が世界遺産に登録されるのを祈念して、改めて町石道の整備を行って、高野山への参道として整備したと、紹介する本にあった。そのスタート地点をちょっと覗いてみた。
 宿に置かれていた「町石道」を紹介する本では、180本の五輪塔を模した町石に一つひとつに彫り込まれた文字を読み取り、創建の時代、途中失われて再建された年代などなど、丁寧に周辺の景観と共に写真撮影し、数百ページの本にしてあった。
 ところが、ここ何年かの台風や大雨と強風によって土砂崩れが発生し、修復が追いつかず、一部通行止めになっている。でも歩いて登りたい私は、もう一本の町石道、南海高野線の紀伊細川駅でおりて、九度山から稜線に沿って登ってくる「町石道」に合流するバイパスを歩くことにした。私に弟が付き添う。カミサンは弟嫁とともに、電車とケーブルで上へ上がり、大門でお昼頃に合流することにした。
 慈尊院からの帰り、「道の駅」によって、翌日の朝食と、今日これから夕食までの宿で過ごす宴会用の飲み物とおつまみを手に入れた。柿の葉寿司や大葉寿司があって、それはそれで楽しみであった。
 こうして、夕方4時過ぎから夕食の6時半まで、ビールと焼酎とお茶で乾杯し、久方ぶりの再会をあれこれお喋りしながら過ごしたのであります。(つづく)