mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

読書という遊び

2024-05-08 08:11:44 | 日記
 人様が出歩く連休に協賛して我慢していたお天道さんも、やっと休み開けの雨模様。そのせいもあってか、最高気温も22℃。歩いていても爽やかな風に吹かれて、ボブディランの歌が聞こえてくるみたい。
 いい季節ですね。たまたま手に取った本『この本を盗む者は』(角川文庫、2023年)の主人公は、高校一年生の女の子。しかも舞台の季節は連休明け。まさに今と同じ。
 いつであったか、この著者、深緑野分の『戦場のコックたち』(東京創元社、2015年)を読んで、第二次大戦中のヨーロッパといい、ミステリー仕立てのおもしろいと展開といい、この作家に興味を持っていました。たぶん新聞広告で文庫版が出たのを知って、図書館に予約したのだと思います。去年の6月に刊行されています。3ヶ月後に図書館が購入したとして、半年待って届けられたというところでしょう。このくらいの間合いの置き方が、いい頃合いですね。
 一読、スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」を思い浮かべました。ファンタジックなアニメをみるようであり、同じくアニメ「魔女の宅急便」の主人公が箒にまたがって「不思議の国のアリス」の世界を遊んでいるようなお話だなと思いました。読み終わってみると、細かいプロットをあとで丁寧に拾ってお噺をうまく調え、小説って、こんな風に自由なんだと思える出来映えです。
 人は言葉の生き物。絶えず、小鳥のようにさえずり、鳴き交わし、自分と世界の関わり合いを身に感じながら生きています。でも本を読むというのは、お喋りとはちょっと違います。言葉が「ことのは」になって、ちらっと頭の隅に起ち上がり、文章というつながりに血が流れ、脈打つようにイメージを創り出していきます。
 急ぎ足で目を通すようなときには「ことのは」もまた、右から左へ素通りしていきます。でも読書は、立ち止まり、行間に感じるなにかが胸中に引き起こすぼんやりとしたイメージに目を凝らす。そのとき本の著者が発した「ことのは」が、体温や重みをもつ感触をともなってじっくりと伝わってわが胸の中に入り、わたしの身に堆積するあれこれと絡み合って、イメージとして着地するのです。
 ああ、これが「言霊」なんだ。そう感じ、思う瞬間。それは、本とワタシとが、言葉を通じて戯れ遊ぶ、無類の境地です。
 そうか、ヒトは「ことのは」を口から発するだけでなく、紙や画面に書きつけることで書き手から引き剥がし、「ことのは」として独立して読者や鑑賞者と直接向き合ってくる。それは、お喋りが(お喋りしている者同士の間では)謂わば瞬間瞬間に消え失せる「ことのは」なのに対して、その互いの関係の時間をいくらでも引き延ばし、つまりは無化して、ワタシと私が本の「ことのは」を介在させて「言霊」をもって対話していることなんだと思わせます。
 お喋りも、ヒトが人と相互承認するコミュニケーションですが、読書という遊びは、私がワタシと相互承認する「単独者」の他者との対話。
 えっ、どういうこと?
 ワタシはだれでも、それまでの人生ですでに、累々たる生命体の歴史を蓄積しています。そのほとんどは無意識の身に刻まれている。日頃の私の振る舞いや言葉は、その大半を意識することなく、無意識の作用によって繰り出されています。
 私が外の世界と接触するごとに感じる違和感や差異に、ワタシの(経てきた)特異性/個別性が意識の表面に浮かび上がってきます。でも日常は忙しなく、それを突き詰めて考えるヒマはありません。ふだん友人と話をしているときなどは殊に、違和感や差異はチラッとかすめるだけで、そう感じた思いをとどめることさえ、滅多にありません。それほど、日々は忙しなく時間が過ぎていきます。
 ところが読書は、時間を自分の都合に合わせて過ごすことができます。一行一行、行間ばかりか、紙背にまで徹して目を配り、その都度わが胸中と自問自答して「言霊」の響きを味わっている。謂わば時間を無化して、遊びに徹する。これほどの無上の遊びはないと思えるほどでした。
 そうだ。一番小さい孫が、ちょうど今年高校に入ったばかりの女の子。誕生祝いに、この本を贈ってやろう。余計な老爺心と、ちらりと澱むのを思い浮かべましたが・・・。
 さて、本屋に行って手に入れて、こう書き出そうか。
《本屋で見つけましたので、あなたの16歳の誕生祝いに送ります。/学校の雰囲気には馴染めましたか。どんな部活に入りましたか。そろそろ教室の空気も落ち着いてくる頃。高校生活をお楽しみ下さい》。