mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ヒトが生きられる陽ざし

2024-05-31 10:33:58 | 日記
 一昨日であったか、お昼のあとソファに座ってTVをつけたら「マディソン郡の橋」というアメリカ映画が始まったばかり。ああ、聞いたことがあるタイトルと思いながら見る。クリント・イーストウッドの監督じゃあないか。それなら何かあるかなと私の心裡の好奇心が蠢く。
 途中、帰宅したカミサンが、珍しく私がTV映画を見ているのを覗いて、「ああ、それ、不倫の話よ」「アカデミー賞をもらってる」と言って台所仕事に、向かった。つまんないからヤメロと言いたかったのか、わたし知ってるって言いたかっただけなのか。そいつはわからない。
 母親の死後、その母親が浮気をした事を知って動揺する、すでに家庭持ちの娘と息子。聞きたくないという息子、なにがあったの、どうして(そんな気配も感じさせなかったのに)、と疑問を持ちつつ、母親の書き遺した記録から、娘が説き明かしていく恰好でストーリーは展開する。
 後に子どもたちは二人とも、ヒトが生きるということに絶対的な核があるわけではなく、それが暮らしの中で培われる「関係」によって現在形に紡がれてくるものであること、でも「ヒトが生きる核」は「なにかがある」と感知する。その子どもの変容が、この映画の監督が伝えたいことだと、そこはかとなく感じられる。言葉にするとそれは、「愛」であったり、「性愛」であったりするが、いやそもそも、それらが何であるのかとも問いかける。ヒトが誰と向き合い、誰との関係で(いまここで関係を)紡いでいるかによって、多面的であり、多様多彩になり、それも移り変わる。
 その移ろいの中に人は生き、しかしその移ろいをどこかに固定し心持ちの安定を得、かつ移ろうことを求める心を引きとどめる「しがらみ」に身の実在の充実感と不自由を感じる。あるときは「愛」を感じさせる関係にもなり、あるときには「しがらみ」として身の動きを封じる働きもする。何ともメンドクサイ関係をヒトはそちこちにつくって世界としてきた。それはある哲学者の言葉を借用すれば、絶対矛盾的自己同一を生きるヒトの習いということにもなろう。
 そんなことを思っていて、ふと、先日(2024-05-15)のこのブログ記事「テツガクって文学なんだ」を思い出した。読み返す。
《世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも》と詠んだ歌を手がかりに、源実朝の心裡を探り、ヒトの「生きる核」に触れようとする哲学論考を扱っている。
 そのライター・永井玲衣は、さらに伊藤桂一の「微風」という詩を介在させて展開している。その詩を、この映画「マディソン郡の橋」が思い起こさせた。長いが、再掲する。

   掌に受ける
   早春の
   陽ざしほどの生きがいでも
   人は生きられる
   素朴な
   微風のように
   私は生きたいと願う
   あなたを失う日がきたとしても
   誰をうらみもすまい
   微風となって渡ってゆける樹木の岸を
   さよなら
   さよなら
   と こっそり泣いて行くだけ

 永井玲衣は、こう反転する。
《むしろ実朝は「綱手」ほどの生きがいでも自分はいきられるんだ、って素朴に思ったんじゃないか》
 読み返したとき、ああ、これだ。これはクリント・イーストウッドの映画に込めた思いを見事に浮き彫りにしていると思った。
 実朝の思いに寄せてしまうと、「愛」などは消えて、小舟の綱手ほどの立場をわたしは得ているに過ぎないと、社会的システムとそこでの立場の齎す「しがらみ」に置かれたこの身を愛おしく哀しいものとみている。「達観」というか「悟脱」というか、生きるという実存の哀切さを見て取っている。
 ふ~~んと映画の物語をわが身の裡に反芻しながら、ひょっとすると、主人公である農場の主婦も、その思いを遺書と共に残し、その浮気の相手も鬼籍に入って後に「陽ざしほどの生きがい」「微風のように」生きる生き方を、示すことができたと映画は展開する。彼岸からはじめて「生きる」ということがどういう意味を持つかを見て取ることができる。そうクリント・イーストウッドが人生を見る基点を提示しているとも思った。
 「不倫の話よ」といってしまえば、それはそれだけに終わる。だが、「愛ってなあに」「性愛ってなあに」「家族ってなあに」「子どもにとって母親の性愛ってなあに」と自問していけば、わが身の裡の響きと相俟って、自答がそう簡単に始末できない意味を含んでいると感じられる。
 「不倫」と呼ぶにしても、自問は展開する。「倫理」は何を護ることなのか。人という個体は「倫理」によって自由になれるのか。いや、倫理と自由を価値的に優劣に於いて考えることはできるのか。
 いやはや、面白いねえ。こういう風にオモシロイといっていられるのは、すでにわが身が、三途の川の川岸に立つほどの齢を重ねているからよ。それは彼岸からの視線を組み込んで融けあいつつあるからかもしれない。ふふふ。