mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

外がいい

2023-08-18 14:34:05 | 日記
 午前中曇り、お昼頃から晴れという天気予報。見沼の自然保護地のボランティアに行くカミサンを送ったついでに、車をそこに置いて、見沼自然公園へ散歩に出る。水と本を一冊持って、木陰で読んでこようと。
 気温は高いが曇りは有難い。花よりは緑が目に染みるが、鷲神社の境内の森に浸っているだけで気持ちが空気に溶け込んでいく。見沼用水東縁の水量が多い。利根川から分けられた水が行田市の用水路を通して分流し、芝川にも、この見沼用水にも流れ込んでいるのか。田圃の早稲は収獲の間際かもしれないが、普通種の稲はこれから実を育てている季節、水が欠かせないのかもしれない。
 野田の鷺山へ立ち寄ってみる。池で釣をしている人が十数人。「注意書き」の看板がある。ひとり竿一本、釣っても持ち帰らないでリリースする、疑似餌や網は使用禁止などとあるなかに、「オカメとトロロは禁止」とあって、はて何だこれはと思った。トロロはとろろ昆布のことか。オカメって何だ?
 自転車に釣り道具らしいのを乗せて歩いて向こうからやってくる人に聞いた。
「オカメってのは麩の小さく丸めたヤツ。トロロはとろろ昆布だね」
「そうですか、水を汚すからですか?」
「いや、そうじゃなくて、魚を傷めるからだね。針が食い込んじゃうんだよ」
 聞いてみるもんだ。麩を小さく丸めたオカメってのは、広辞苑にも載っていない。業界の専門用語ってところか。水を汚すからではなく、針で魚を傷めるから禁止となると、禁止の趣旨ががらりと変わる。釣り堀代わりにこの池を使う構えが魚を軸にしているとなると、あの釣り糸を垂れ得ている人たちと池の保全をしている人たちと魚とは、相身互い、仲間同士のようなものだと思った。
 見沼自然公園に入り、いつもとは違う緑陰の通路を辿って大回りをする。ベンチに腰掛けて新書本を開く。図書館から借りてきた和田秀樹『80歳の壁』(幻冬舎、2022年)。本文より目次を読むだけで、書いていることの全体がつかめる。全体226ページのうち、11ページを目次に割いている。
《「人生百年時代」という言葉が80歳の壁を高くしている》
 という目次が気に掛かる。その本文を開く。「長生きしなければならないという呪縛にかかっている」とあった。そうだね、長生きって言っても、長ければいいわけじゃない。QOL(人生の質)を考えると、いかに元気な状態を続けて生きるかだ。うん? 医者は(基本的に)「健康」ということを考えていないと展開して、ほほう、どうして? と思わせる。
《外に出よう。引きこもると脳は暗くなる》
 ともある。うん、外へ出ようってのは私の好みに合うけど、でも、なんだ? これ。脳が暗くなるってイケナイことなの? 鬱状態になるってこと? この著者は、精神神経学の医者じゃないか。単純に、明るいことばかりをイメージするのがいいって、そんな単純なことをいうとも思えないが・・・。ま、読んでる暇はないから、あとから目を通すとしよう。
 また歩き始める。自然公園のできるだけ距離を歩くように遠回りをして、帰途につく。陽ざしが雲から顔を出し、サクラの木陰が頼りなく道を誘導してくれるようだ。
 こうして今日の曇り空の散歩は1時間くらいで終わった。
 外がいいというワタシの感性はどこで培われたのだろうか。なぜそう感じているのだろうか。脳は、どちらかというと暗い方へ傾いている。それを補正する無意識が働いているのだろうか。とすると、その無意識は、脳が暗くなるのを補正するというよりは、脳が暗くなるのを身が補償し続けるために外へ出る欲求を働かせているのではなかろうか。面白いテーマだが、こういうバランスの取り方をヒトの無意識ってやってるのかもしれない。結構、結構。まだわが身は健康だ。いくつか薬は飲んでいるが、健康年齢にある。
《歩かないと歩けなくなる》
 とも、この著者は口にする。それもワタシの身の習慣だ。外がいい。山がもっとイイ。