mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

胸を借ります(2)ワタシの原点に立つとは?

2023-08-12 08:38:25 | 日記
 タナカさんのメールは続きます。
(2)《沢辺さんの病気も自分自身に起きていることもプーチンやトランプのことも自然のことなのだという捉え方は分かるような気もします。プーチンやトランプの言うことには賛成ではないが、それには、多くの支持者がいる。地政学的、歴史的な背景がある。グロバルサウスの国々やトランプ支持者なども理解しなければならない。現存在を見つめ直し、ここから道筋を考えなおしたい。いま原点に立って、これからの道筋を考えている。「中動態」に立っている。こんなことがあなたの言いたいことなのかと理解しました》


「沢辺さんの病気も自分自身に起きていることもプーチンやトランプのことも自然のことなのだという捉え方」は、ちょっとニュアンスが違います。「なるべくしてなった」こととは思いますが、そんなことは言わずとも分かること。「自然のこと」とは思っていません。
 それぞれの人の過ごしてきた径庭によって培われた感性や感覚や選好や思念の癖が塗り込められていますから、「自然のこと」というよりは。それぞれの人の身の現在が湛えている固有な特性があります。では、人生いろいろといってしまうと、プーチンやトランプ、あるいは彼らに同調する人たちと自分は違うということ尽きて、なぜ彼らがそうしているのか、なぜワタシはそうしないのかを意識化することができません。
 世情ではそれを「分断」と呼んでいます。人生いろいろといって、なぜいろいろになったのかに踏み込まないと、究極的にはヤツは敵だ敵を殺せという行為へと行き着いてしまいます。ウクライナ戦争もそう、ヘイトスピーチもそう、アメリカのトランプ現象はまさしくそう。今の世界の地政学的な様相は、この段階にあります。
 ワタシはこういう様相を呈する世界を好ましく思っていません。もちろんいうまでもなく「グロバルサウスの国々やトランプ支持者なども理解しなければならない」とも思っていません。「しなければならない」というのは、なぜそうしなければならないのか立場が不明です。というか、世界を睥睨する「神のような立場」でなければ、言えない言葉です。ワタシは実際、ただの市井の老爺です。そのワタシが、世界のコトにどういう立場でかかわっているのか。そこをとらえたいというのが、ワタシの関心の出発点です。
 こう言い換えるとわかりやすいかもしれません。なぜワタシはプーチンやトランプの振る舞いに腹を立て、ウクライナの人たちへ同情を寄せ、サワベさんの病状を転送してくれたモリヤマさんに感謝を伝え、その行きがかりで私の「中動態」という言葉に関心を寄せてメールを下さったあなたに、こうして返書を認めているか。それぞれの場におけるワタシがなぜ、そのように感じ、そのような反応をするのかを知りたいと思うからです。
 そう思ってみると、たとえばプーチンやトランプの振る舞いがワタシの感性や感覚、選好や思念に一つひとつ引っかかるのに突き当たります。それを手がかりに、なぜワタシはそれをそう感じるのか、それを嫌い、愚かなことと思うのか。プーチンやトランプやロシア国民やアメリカトランプ派の人たちの振る舞いの底に横たわる感性や感覚、選好や思念に「思い」を向けてみると、ワタシの無意識に蓄積しているそれらに〈思い当たる〉ことがあると気づきます。
 ここで〈思い当たる〉ことというのは、私が直に体験したことばかりではありません。聞いた話や読んだ物語り、映像やちょっと目にした後景、ときには夢に見たようなことまで、何もかもが含まれます。どこで、いつ、何をきっかけにそういう感性や感覚、選好や思念を身につけたかさえ、すっかり忘れて無意識となっていますが、謂わば人類史的文化がワタシに伝え、無意識に沈んでいるあれやこれやが浮かんできます。
 この〈思い当たる〉ことが、世界に対してワタシがもっている「立場」だと思います。わが身の裡に堆積したコトに向き合うときワタシは、「当事者」になる。そう思っています。しかし当事者になってみると、ワタシの感性や感覚、選好や思念の根拠を私はほとんどつかんでいないことがわかります。ですからそこから、ワタシの人類史への旅が始まるというわけです。これはあなたの言葉を借りれば、「いま原点に立って、これからの道筋を考えている」ことになりましょうか。ただ「これからの道筋」を考える程、私に「これから」は残されていません。気分としては〈来し方を眺める〉ようです。
 その「原点」に立つと、ワタシの感性も感覚も選好も思念も相対化されて、しがみつく程の固有性を持っているわけではないとわかります。ワタシというのは、人類史的現在にすぎません。そのごくごく一部がフジタという身を借りて現象しているケチな存在です。そう考えてみると、人の存在を「意志」とか「主体」に重きを置いてイイとかワルイとか価値的にみることは事後的に発生した思念、もともとはイイもワルイもあるがままに受け止めて、畏れ、敬い、なることならよきことに働いてくれと祈るような、自然であった。そう「中動態の世界」は教えています。
 それを、天と人との関係として見たのが、東アジアの自然観です。他方、絶対神が世界をつくった、人もつくった、そうして人が世界を支配せよと神が赦したという物語りが、西欧の自然観であったというわけです。この違った自然観の唯一絶対神派が、西欧の地理的発見にともなって力による支配とともに世界に行き渡り、グローバルスタンダードになった。自然の管理と統治を必要とする西欧的人間主義の考え方は、人の介入が自然の生態系の持っている節理を変えはじめたからに外なりません。
 日本が明治維新以降、西欧に倣って社会をつくってきたように、私の身も、日本の伝統的自然観と西欧的自然観のハイブリッドです。どこをどう分けてみれば、その両者を切り分けられるかもワカリマセン。でも、ワタシという一個の人にまるごとまとめられている事実は、その通りです。とすると、大方は無意識に沈んでいるワタシの自然観を、一つひとつ取り出して意識化した「自然(じねん)」として考えてみよう。その契機をつくった一つが「中動態」であったといえましょうか。
「中動態」は、その原点に立ち返って、現在を考えてみよというメッセージと私は思いました。いまさら世界に何ができるというわけではありません。せめて己が身に堆積する無意識を掘り起こし、「自然(しぜん)」を「自然(じねん)」として再構成すること、それを記しおくくらいが、残された人生の私のお役目なのかなと思っている次第です。(つづく)