mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人と人の関係と社会規範

2023-08-13 15:00:24 | 日記
 ジャン=マリ・ブイス『理不尽な国ニッポン』(鳥取絹子訳、河出書房新社、2020年)は、フランス人がフランス人向けに書いた日本論。ジャン・ブイスは学者なのかな。日本とフランスの大学を行き交って講座を持っている。本書の取材の目配りはジャーナリストのように幅広く行き届いている。文化人類学的な視線をもった「フランス文化論」でもある。本書で言う「理不尽」とは、フランスでは理不尽と受けとられるという意味。著者はしかし、理不尽なニッポンの「現象」が好ましいと感じている。
 たとえば、日本でも最近、同調圧力と呼ばれて評判の悪い集団性のクセ。空気を読む/読まないとか、「場」の論理と呼ばれる共有している空間の醸し出す気風や気配にフランス人は目を留めない。全くの個々人の感性や感覚、選好や思考は端から異なるモノと考えていて、自分への利害がどう及ぶかを軸に個々人が自らの態度を決めるという。
 だから逆に、どんなに有名人の不倫であっても、「だから何?」と問題にしない。俳優の不倫や薬物中毒が(社会的に影響が大きいという理由で)取り沙汰されて、その俳優が出演していた映画や演劇が取りやめになることは「理不尽」そのものというわけである。
 この辺りのセンスが、集団的無意識を受け継いでいるのと意識的に欧米流文化を摂取したのとのハイブリッドになっているワタシには、そうだねという思いと、う~ん、でもそうかなあという思いが入り交じって、一刀両断に切り分けるわけにはいかない感触が残る。「不倫」というのは、まったくのプライバシーだと思う。結婚した者同士の(暗黙の)盟約がどうなるかは、両者の動態的関係がもたらすこと。不倫していることを認め、なおかつそれをつづけたいと公言して悪評を買っている女優の場合も、連れ合いとの日頃の不仲が一向に調整も調停もされず来ていることを公にして社会問題化しているのに、報道するメディアは、あくまでも夫婦関係の逸脱問題としてスキャンダラスに騒ぎ立てているだけである。
 ひとつは夫婦の不仲の問題、もうひとつは「倫理/道徳」の問題である。
 かつて前者は「犬も食わない」とされていたが、家庭内暴力が社会問題とされてからは、単なる「民事」ではなく警察権力も介入するコトとなってきた。暴力があったかどうかもさることながら、夫婦関係における力関係から、離婚を願っても聞き届けてもらえないモンダイを、社会的にどう扱うのか。ひとりの俳優のスキャンダルというよりは、社会的にコレをどう扱い始末するのかという関心が、このスキャンダルを支えているのじゃないか。つまりどこにでも転がっている夫婦不仲の問題をどう考えていったらいいのだあろうかと探求するように取り上げれば、スキャンダルの一般性が浮き彫りになる。
 もうひとつ、「不倫」。これを、前者との関係で取り出すこともできようが、女性の欲望の自律的展開として考えていくと、「倫理」の問題となる。ノーベル賞作家・クッツェーの「モラルの話」を思い出す。結婚生活に何の不満もない主婦がセックスフレンドをつくって楽しむ。これって悪いんだろうかと心の片隅でちょっと思いながら、躊躇わずつづけている。この倫理問題をとりあげるいい社会的きっかけになったと思うが、スキャンダルの次元に押しとどめている。それを、マスメディアが(スクラムを組んで)社会規範を作るのに貢献している日本メディアの理不尽に集約している。
 マスメディアの、例えばTV局が数少なく似たような報道内容になるのは、社会規範形成に大いに役立っている。しかも高校野球とか全国のど自慢とか、紅白歌合戦などなど、共通体験と呼べるような番組を流してつねに同一性意識の再生産をしている。フランスでもしそのような放送が行われたら、間違いなく顰蹙モノとなると指摘して、しかし、穏やかな社会関係をつくりあげるのにニッポンの理不尽の方が遙かに役立っていると思う。
 人と人との関係に底流している「力関係」が年月によって無意識に沈殿し、それがジェンダーの意識になって浮き彫りになる。ここに細分化して分けていけば、究極には個々人の感性や感覚、選好や思考になるであろう。ニッポンは(たぶん)社会的な気風の次元にとどまっていて、さらにその先の個人にまで分節化しなかったのであろうか。
 いや、そう言っては、誤解が生じる。日本が未開のままといっているようにおもうかもしれない。そうではない。どんな社会も変革期にあたって、社会規範や庶民の共同感覚は変容するが、決して斉一に進行するものではない。社会の共同性の変容自体が時と処によってちぐはぐし、またそれらが別々の力の回路で差異を含みながら進展する。それらを何十年か後に総じてみると、個々人が起ち上がり共同性の解体が進んだと、後付けで理路を調え、その理路を集団的無意識と精神分析学で名付けたりしている。フランスのそれとニッポンのそれが異なるのは、国家成立のころから歩んできた径庭が違うからに外ならない。どちらが理不尽でどちらが合理的と名付けるのは、社会がみな、同じように発展するはずという思い込みが前提にあるからだ。
 フランス人が「理不尽」と呼んだからといって、それが「非合理的」というわけではない。フランス人が「合理的」とみなしたからといって、それが「理不尽でない」と言えないのと同じだ。
 では、なにが善し悪しの判断の規準なのか。そんな規準は、ない。本書の著者も、理不尽を攻めているわけでもないし、フランスの現在をとても肯定したくない思いを強く抱いている。つまり彼もまた、居心地の良い社会の在り様をどうしたらつくれるかを思案していると言えようか。
 日本の鏡として読むと、いろいろと刺激的だと好感した。