朝日新聞8/25の「インタビュー」欄の記事、「AIと私たち 本質を理解する」は、何だか私と同じコトを指摘しているように思えて、好感を持って読んだ。インタービュイーは西垣通さん(東大名誉教授、1948年生まれ)。民間企業やスタンフォード大学でAI研究に従事してきた方。AIが人間を追い越す「シンギュラリティ」について「機械が人間のような知性を持つでしょうか」と問い、「そういう日は来ないし、人間と同様のことができる汎用AIも出現しない」ときっぱりと見極めを付けている。
でもそう考えると、ではシンギュラリティってなんだ? ってことになるが、西垣氏はそれに応えてはいない。私は、すでにシンギュラリティは来ていると思っている。AIが人を追い越すというより、AIの登場によって。ヒトがそれまでの人から変わりはじめると思っている。対話型生成AIの、軽々とこなす文章制作や要約は、それまで人が身に付けてきた読解力などの「学力」が、AIを使いこなすことによって学習無用のものになるとしたら、AIを使いこなす能力が人間固有のものになり、それまでのデータ学習なども、全く様相を変えてくる。どう変わるかを、たぶん西垣氏は、直感を育てることとみているように思う。それがこの記事のメインタイトル「本質を理解する」になっているのだと受けとった。
「本質」というのは「ふへん」と同様、全体を見渡して変わらぬ核心を見据えたときにみてとれる、といえば言える。つまり、コトの終わった後で個別の特殊を貫く文脈を紡いだときに読み取れる物語。変な言い方だが、生起したことをボーッと総覧しているときに、ぷかりと水底から浮かびくる気泡のように思い当たること、だ。妙な言い方だが、私はそれを「神の目」と呼んできた。あるいは「遠近法的消失点からの視線」と表現してきた。後付けで見て取ることのできる「物語り」を摑むというのは、つまり「直感」である。西垣氏は(たぶん)ぼちぼち後期高齢者になろうが、この歳になって歩んできた人生の軌跡を総覧したときに「本質を理解する」ことに至ったのであろうと、私はワタシの経験則から見当を付けた。
それに好感を持ったのは、この記事の後半部分。その小見出しはこう付けられている。
「一神教的発想が生んだ科学技術相対化するとき」
アメリカの大学で研究生活を送ったことが(たぶん)こういう小見出しの「直感」に至ったのだろう。インタビューの最後でこう語っている。
《西洋的世界観では、要素の論理的組み合わせとして対象を分析しますが、東洋的世界観では、要素が互いに関連し、共鳴し合うと考えるので、分析だけではなく身体的直感を重んじる。これこそ、AIにとったはとても難しい点であり、AIをうまく活用する際の鍵になる概念だといえるでしょう》
そうそう、そうだよと、八十路のワタシは、私の「直感」の裏付けを得たように感じて、好感を抱いている。これも直感ではあるが。
そんなことを考えていたところへ、1年前(2022-8-25)の、このブログ記事「皮肉な見方が的を射ている」が届けられた。読んでみると、西垣氏同様「直感」が社会的気風に現れていると(作家・マクスウェル・ケネディの言葉に触れて)考えていたことが記されている。
《でも、ひょっとして、このような受け取り方の方が真っ当なのかもしれないと、ちょっとした驚きとともに反芻している。皮肉な見方が的を射ている。社会の多様性というのは、隠れ蓑であれ、市民運動内部の主導権争いであれ、いつの時代も変わらず続いているのであろう闇の政治闘争を、覆い隠す作用をする。そうした些末なあれやこれやを捨象して、バッサリと現象から本質へ直感的に到達する社会的気風の鋭さが、あるのだろうか。としたらそれは、世論調査に現れても選挙結果には表れないのだろうか。》
子細は、1年前の記事を読んで頂きたいが、市井の老爺の「直感」も、なかなか捨てがたいんじゃないか。それがまた、ワタシの探究心の道先を拓いている。その自問自答の尽きなさが、人のクセの最大の特性だからである。
でもそう考えると、ではシンギュラリティってなんだ? ってことになるが、西垣氏はそれに応えてはいない。私は、すでにシンギュラリティは来ていると思っている。AIが人を追い越すというより、AIの登場によって。ヒトがそれまでの人から変わりはじめると思っている。対話型生成AIの、軽々とこなす文章制作や要約は、それまで人が身に付けてきた読解力などの「学力」が、AIを使いこなすことによって学習無用のものになるとしたら、AIを使いこなす能力が人間固有のものになり、それまでのデータ学習なども、全く様相を変えてくる。どう変わるかを、たぶん西垣氏は、直感を育てることとみているように思う。それがこの記事のメインタイトル「本質を理解する」になっているのだと受けとった。
「本質」というのは「ふへん」と同様、全体を見渡して変わらぬ核心を見据えたときにみてとれる、といえば言える。つまり、コトの終わった後で個別の特殊を貫く文脈を紡いだときに読み取れる物語。変な言い方だが、生起したことをボーッと総覧しているときに、ぷかりと水底から浮かびくる気泡のように思い当たること、だ。妙な言い方だが、私はそれを「神の目」と呼んできた。あるいは「遠近法的消失点からの視線」と表現してきた。後付けで見て取ることのできる「物語り」を摑むというのは、つまり「直感」である。西垣氏は(たぶん)ぼちぼち後期高齢者になろうが、この歳になって歩んできた人生の軌跡を総覧したときに「本質を理解する」ことに至ったのであろうと、私はワタシの経験則から見当を付けた。
それに好感を持ったのは、この記事の後半部分。その小見出しはこう付けられている。
「一神教的発想が生んだ科学技術相対化するとき」
アメリカの大学で研究生活を送ったことが(たぶん)こういう小見出しの「直感」に至ったのだろう。インタビューの最後でこう語っている。
《西洋的世界観では、要素の論理的組み合わせとして対象を分析しますが、東洋的世界観では、要素が互いに関連し、共鳴し合うと考えるので、分析だけではなく身体的直感を重んじる。これこそ、AIにとったはとても難しい点であり、AIをうまく活用する際の鍵になる概念だといえるでしょう》
そうそう、そうだよと、八十路のワタシは、私の「直感」の裏付けを得たように感じて、好感を抱いている。これも直感ではあるが。
そんなことを考えていたところへ、1年前(2022-8-25)の、このブログ記事「皮肉な見方が的を射ている」が届けられた。読んでみると、西垣氏同様「直感」が社会的気風に現れていると(作家・マクスウェル・ケネディの言葉に触れて)考えていたことが記されている。
《でも、ひょっとして、このような受け取り方の方が真っ当なのかもしれないと、ちょっとした驚きとともに反芻している。皮肉な見方が的を射ている。社会の多様性というのは、隠れ蓑であれ、市民運動内部の主導権争いであれ、いつの時代も変わらず続いているのであろう闇の政治闘争を、覆い隠す作用をする。そうした些末なあれやこれやを捨象して、バッサリと現象から本質へ直感的に到達する社会的気風の鋭さが、あるのだろうか。としたらそれは、世論調査に現れても選挙結果には表れないのだろうか。》
子細は、1年前の記事を読んで頂きたいが、市井の老爺の「直感」も、なかなか捨てがたいんじゃないか。それがまた、ワタシの探究心の道先を拓いている。その自問自答の尽きなさが、人のクセの最大の特性だからである。