mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人は身体的直感を重んじる

2023-08-26 09:58:45 | 日記
 朝日新聞8/25の「インタビュー」欄の記事、「AIと私たち 本質を理解する」は、何だか私と同じコトを指摘しているように思えて、好感を持って読んだ。インタービュイーは西垣通さん(東大名誉教授、1948年生まれ)。民間企業やスタンフォード大学でAI研究に従事してきた方。AIが人間を追い越す「シンギュラリティ」について「機械が人間のような知性を持つでしょうか」と問い、「そういう日は来ないし、人間と同様のことができる汎用AIも出現しない」ときっぱりと見極めを付けている。
 でもそう考えると、ではシンギュラリティってなんだ? ってことになるが、西垣氏はそれに応えてはいない。私は、すでにシンギュラリティは来ていると思っている。AIが人を追い越すというより、AIの登場によって。ヒトがそれまでの人から変わりはじめると思っている。対話型生成AIの、軽々とこなす文章制作や要約は、それまで人が身に付けてきた読解力などの「学力」が、AIを使いこなすことによって学習無用のものになるとしたら、AIを使いこなす能力が人間固有のものになり、それまでのデータ学習なども、全く様相を変えてくる。どう変わるかを、たぶん西垣氏は、直感を育てることとみているように思う。それがこの記事のメインタイトル「本質を理解する」になっているのだと受けとった。
「本質」というのは「ふへん」と同様、全体を見渡して変わらぬ核心を見据えたときにみてとれる、といえば言える。つまり、コトの終わった後で個別の特殊を貫く文脈を紡いだときに読み取れる物語。変な言い方だが、生起したことをボーッと総覧しているときに、ぷかりと水底から浮かびくる気泡のように思い当たること、だ。妙な言い方だが、私はそれを「神の目」と呼んできた。あるいは「遠近法的消失点からの視線」と表現してきた。後付けで見て取ることのできる「物語り」を摑むというのは、つまり「直感」である。西垣氏は(たぶん)ぼちぼち後期高齢者になろうが、この歳になって歩んできた人生の軌跡を総覧したときに「本質を理解する」ことに至ったのであろうと、私はワタシの経験則から見当を付けた。
 それに好感を持ったのは、この記事の後半部分。その小見出しはこう付けられている。
「一神教的発想が生んだ科学技術相対化するとき」
 アメリカの大学で研究生活を送ったことが(たぶん)こういう小見出しの「直感」に至ったのだろう。インタビューの最後でこう語っている。
《西洋的世界観では、要素の論理的組み合わせとして対象を分析しますが、東洋的世界観では、要素が互いに関連し、共鳴し合うと考えるので、分析だけではなく身体的直感を重んじる。これこそ、AIにとったはとても難しい点であり、AIをうまく活用する際の鍵になる概念だといえるでしょう》
 そうそう、そうだよと、八十路のワタシは、私の「直感」の裏付けを得たように感じて、好感を抱いている。これも直感ではあるが。
 そんなことを考えていたところへ、1年前(2022-8-25)の、このブログ記事「皮肉な見方が的を射ている」が届けられた。読んでみると、西垣氏同様「直感」が社会的気風に現れていると(作家・マクスウェル・ケネディの言葉に触れて)考えていたことが記されている。
《でも、ひょっとして、このような受け取り方の方が真っ当なのかもしれないと、ちょっとした驚きとともに反芻している。皮肉な見方が的を射ている。社会の多様性というのは、隠れ蓑であれ、市民運動内部の主導権争いであれ、いつの時代も変わらず続いているのであろう闇の政治闘争を、覆い隠す作用をする。そうした些末なあれやこれやを捨象して、バッサリと現象から本質へ直感的に到達する社会的気風の鋭さが、あるのだろうか。としたらそれは、世論調査に現れても選挙結果には表れないのだろうか。》
 子細は、1年前の記事を読んで頂きたいが、市井の老爺の「直感」も、なかなか捨てがたいんじゃないか。それがまた、ワタシの探究心の道先を拓いている。その自問自答の尽きなさが、人のクセの最大の特性だからである。

もともとバラバラ、かめへん、かめへん

2023-08-25 06:58:42 | 日記
 先日、72年来の友人マンちゃんの追悼の会をもったことはすでに報告した。そのとき世話役を務めてくれたミドリさんに御礼のメールを送ったところ、女性陣で二次会をして締めくくったとあり、次回以降の世話役が曖昧にされてしまったが、それでいいのかしらと愚痴が付け加えられていた。
 経緯をいうと、こういうことだ。
 追悼の会の後、ミドリさんから今後の集まりについて「代表」を決めてほしい、ついてはフジワラくんにお願いしたいと提案があり、とくに反対もなく承認となった。ところがその後「ミドリさんでいいわよ」と言い出す人がいて、ワイワイやっていたのが、二次会で再燃したらしい。ミドリさんはメールで、こうこぼす。
《次の36会 私が代表をするのでしょうか? なんだか暴力的な方法で戸惑います。皆この会は持続したい、でも代表は引き受けたくない、できることは何でも手伝うからと言う空手形を貰っても熱量はダダ下がりです。/Oさんに至っては、フジワラさんは忙しいから無理無理と声高に叫び、フジワラ君にあなたが代表にならないように頑張ったわよ。って聞いた時この人たち何を考えてるの? お友達だと信じているのに。》
 ありそうなことだと私は思った。
    現役の仕事中、学校という女性も多い職場であったにもかかわらず、男の影に身を潜めて役割を忌避し、責任を背負わない立場に身を置くことをもっぱらにする女性が、何と多かったことか。
 私が中心になる部署を担ったとき、教育委員会の方針転換である提案をしなくてはならなかったことがあった。ひとりの女性スタッフに頼んだところ、素案ならばつくるが立案はそちらでしてほしいという。もちろん部として提案することだから「職員会議への提案」は当然のこと部の提案になる。何を言っているのかよくわからない、と返したところ臍を曲げて、とうとうその年度に提案することができなかったことがあった。提案は次の年度のスタッフによって仕上げることになり、実施には支障がなかったのだが、他の点では闊達な女性の心根の部分に、責任回避の回路がかっちりと嵌め込まれていることを痛感したのであった。モノゴトの筋道が決まっていることに関しては、具体的に一つひとつ役割は果たす。しかし自分から道筋を決め提案し、他の人たちと共に牽引していくということは、できることなら避けて通りたい。女性ならずともそういう心持ちをもっている人がこの列島住民に多いことは、十分に味わってきた。それと同じことが、主婦であったり、民間で仕事を持って生きてきた八十路の闊達な女性たちにも根を張っている。
 ミドリさんは一度決めたことが、そういう私的な場で(暴力的に)引っ繰り返されていいのかということと、自分が「知らないわよ」とそっぽを向いていると次の会が開かれなくなってしまうんじゃないかと心配している。
 そんな運びになっても、あなたが責任を感じることはないよ。フジワラさんが知らぬフリをしたために次回が開けなくなっても、それはそれで仕方がない。それで分解するなら、それが「うちらぁの人生、わいらぁの時代」であったと諦める。放っておけばいいのだ。そう、私は返信を書いた。
 だが民間企業で働いてきたミドリさん自身も、半ばそうした女性の感覚(が根付いていること)にワカルものを感じ、(そうした平均的な日本女性とは違って自律していると)自分が推されることに誇らしさを感じているのかもしれない。あるいは、この集まりに、そう簡単に諦めることができない意味を感じているのだろう。
 モンダイは、どうしてこうなるのだろうということだ。
 主婦として過ごすことの多かった人には、たぶん「きめた」ことに対する重きの置き方がワカラナイのだろう。井戸端会議的な、私的な場でワイワイやって「決定」を引っ繰り返すことに、何の痛痒も感じていない。そこで皆さんの同意を得ていたならば、公的な場面で何の発言をしていなくても、その意が通ると思っている。そういう民主主義感覚である。それはあなたの「提案」ですねと念を押そうものなら、たぶん、いえいえ皆さんの意見ですと取り下げてしまうに違いない。「皆さん」の影に身を隠して責任回避する立場を女性自身が捨てなくてはならない。
 もちろんそれは、女性ひとりの責任ではない。弱い女性は保護してやるのが男の役割と父権主義的に振る舞う男が、そうした優越的立ち位置を捨てなければならない。両者は相補的に育ってきた国民的気性である。
 こういうコトをしているから、いつであったかのオリンピック委員会の会合で、会のトップを務めていた元宰相のように、女性蔑視発言が何の不思議もなく飛び出してしまうのだ。この元宰相は、たぶん今でも、何で自身の発言が不評を買ったのか、わかっていないはずだ。欧米との大きなすれ違いの根柢には、女性自身による「責任回避回路」の克服が達成されなければならないという課題が横たわっている。父権主義と女性の責任回避回路克服、列島住民が直面している当事者としての課題である。
  《扇の要が外れたらどうなるのでしょうね。》
 とミドリさんは心配している。かめへん、かめへん、バラバラになるだけ。もともとばらばらだったんだから、かめへん。

切り口の浅い道徳家

2023-08-24 09:27:31 | 日記
 今朝(8/24)の朝日新聞天声人語を読んで、何だこれは。これじゃあ、犯罪のエスカレートを助長するようなもんだと思った。
 記事は、どこかの大学院生が「爆破予告」のファックスを大量に送って逮捕された事件に言及したもの。事件そのものの記事を読むとインターネットを駆使して、どこぞのファックス送信機能を使って国内の大学や高校、その他に何万通ものファックスを送信したという「愉快犯」を取り上げて、それは犯罪であり、とんでもないことだよと、まるで子どもに教え諭すように警鐘を鳴らしている。
 では、どうしてそれが、「犯罪を助長するような」ものか?
 天声人語の末尾は、こう結ばれている。
《逮捕された大学院生らはコンピューターの技術を学んでいた。その能力を別にいかし、なぜ、もっと楽しいことを見つけられなかったのだろう。残念でならない》
 おいおい、天声人語氏は、この逮捕された人たちと同じ感懐を味わっているのかい?
「残念でならない」と思っているのは、たぶん、この逮捕された人たちだ。コンピュータ技術を使って探索を躱し、見つからないように工夫したつもりであったのに、警察捜査陣の追跡技術によって軽々と突き止められてしまった。「残念(でならない)」と感じているに違いない。
 しかも天声人語氏は、「もっと楽しいことを見つけられなかったのか」と煽っている。そうだよ、大学や高校に爆弾を仕掛けたなんて、子どものいたずらのようなものだ。もっと楽しいことと言うのなら、それがきっかけになって国際的な対立が深まり、戦争でも始まるような「いたずら」の方が面白いじゃないか。どうせやるのなら、そういう大がかりで取り返しのつかないような「いたずら」をしてはどうかと、この記事を読むこともできる。書いた天声人語氏は、そう思わないでもなかったからだろう、「小欄が事件を取り上げること自体が、愉快犯を喜ばせるようなことにならないか」と気遣っている。
 にもかかわらず、どうしてこの記事が、事件を煽るように読み取れるのか。天声人語氏のスタンスが、道徳を説くだけの「正義」に乗っかっていて、それだけ。つまり道徳家がお説教しているだけだからである。どうしてその犯罪が起こったのかに踏み込んでいない。「愉快犯」と呼ぶなら呼んでも構わないが、何がこの人たちにとってなにが「愉快」なのか、なにを「面白い」と思ってこんなことをしたのか。そこまで思いが及んでいない。迷惑なバカが、と思っている気分は伝わってくる。バカなコンピュータ技術の使い方をしたお粗末ないたずらとみなしているからだ。そしてお説教だ。道徳家はエライのだ。
「技術」それ自体は、イイもワルイもない。イイことにも使われるし、ワルイことにも使われる。コンピュータ技術が国際的な犯罪や戦争の具として、サイバー戦争と呼ばれる一つの領域を確立していることをみても、一目瞭然である。「その能力をいかし」て今回の事件も起きている。つまり、事件生起のベースは、逮捕された大学院生と同じ地平に立っている。
 しかも、世の中の「爆弾騒ぎ」が面白いと思ってやった(と考える)のであれば、なぜこの大学院生は、そうした「騒ぎ」が面白いと感じるのか、それで、何の鬱屈が晴らされるのかと思いを致すのが、ジャーナリストのオツトメではないのか。「爆弾騒ぎ」が面白いわけではないと大学院生はいうかもしれない。習い覚え身に付けたコンピュータ技術でどこまで捜査本部の追跡をかわせるか、インターネットを駆使したサイバー空間のサバイバルゲームほど、緊張することはないと、昂奮していたかもしれない。「爆弾騒ぎ」が面白いなら、実際に一つか二つ、それらしい「仕掛け」をしておく方が、リアリティが加わって、単なるお遊びではない緊張感が出て来る。それをしていないのは、まさしくサイバー空間のサバイバルゲームを楽しむ感覚である。
 そして、追跡され、捕まった。「残念でならない」と思っているに違いない。つまり、正義を無意識に背負っている道徳家の言葉は、リアリティをもたない。子どもにであっても、効き目のない口先だけのお説教なのだ。そういう大人たちが一杯の、この世の中なんて、どこかでぶち壊してやりたいと思う若者がいても、不思議ではない。
 先ず、この天声人語氏のような大人の虚ろな言葉を一つひとつ丁寧に取り除くこと。どんな犯罪に出遭っても、ひとつひとつ、そのワケを手繰り寄せ、今の社会が生み出しているヒトの悪いクセだとみて取りかかるスタンスが欠かせない。天下の大ジャーナリストさん。しっかりして下さいよ。

あ、それならできる

2023-08-23 08:33:38 | 日記
 1年前(2022-08-22)の記事「エコロジカルでピュアな希望の源」は、私の希望である。こんなことを書いたこと自体、すっかり忘れていた。健忘症のお陰なのだが、たぶん、これを書いたときにわが身の裡にともった「希望」の灯りは、どこかに染みこんでいると、読み直して思った。ま、繰り返し想起することで染みこませていけってことかもしれませんね。読み返して改めて噛みしめているのは、次の言葉。


でも(ピュアって言ったからといって)著者は決して、モノゴトの純粋な形に目をやって、夾雑物をみていないのではない。/《(人との会話の中で)現代の「不気味さ」について語る。……サルトルの『嘔吐に』……本来隠されていたはずの「存在」そのものが露出する不気味さ。……コレまで常識とされてきた物の見方が崩れていくなか、不気味さに蓋をするのではなく、不気味さを直視していくこと。目眩と酔いの先にこそ、まだみぬ風景が開ける》/と、夾雑物にまみれることを厭わない姿勢を感知しながら、/《……ところがいまや、人間活動を支える環境は決して所与でないことが明らかになってきている。……あらためて自分たちが住む「家」を営んでいくための「思想」、……既存の枠組みが崩れていく酔いと目眩の経験の先に、新たな自己像を描き出していくのだ》/と、わが身と離れずに言葉を紡ぐ心持ちを記している。


 この「不気味さ」から目を逸らさず、目眩と酔いの先に新たな自己像を描き出していく志。これこそがワタシの感じている「中動態の世界」だと思っている。プーチンやトランプのありように《本来隠されていた「存在」そのものが露出する「不気味さ」》が、サルトルの言おうとした「不気味さ」と同じとは思えないが、私はそこに踏み込むことを通して、八十路のワタシが積み込んできた「存在」の「不気味さ」と同じものを見いだし、それを克服した《自分たちが住む「家」を営んでいくための「思想」》を紡ぎ出したいと思う。それこそが、ワタシの人類史に対するオツトメと肝に銘じている。言葉は大袈裟ですが、やることは簡単。静かにわが身の裡を眺め、八十路実践人生批判を言葉に起こしていくことです。
 やることは簡単なのに、容易に取りかかれない。日々出くわすデキゴトの一つひとつにあれやこれや感じることがあって、それを放っておけない。
 どうして?
 放っておくとすぐに消えて、忘れてしまう。1年前に書いた記事さえすっかり忘れているんだもの、それほど信用できないワタシと向き合うってのは、手間暇がかかる。ま、それが八十路の特性だ。バカだなあと、つくづく思う。思うけど、この歳でここまで来て、いまさら引き返すって、どこまで戻っていいかもわからない。そもそもどこから間違えてこうなってしまったかもわからない。間違えたかどうかもワカラナイ。
 悔やんだりするよりは、そうだよお前、それでいいんだ。それがお前の人生さって、受け容れるってこと。そうちょうど、森田真生が「もりたのーえん」に大量発生する昆虫種(害虫)に向ける目のように、「不気味さ」を我がこととして見つめる。「無無明無無明尽」。尽くすことも、ない。それが人生さって肚をくくる。
 あ、それならできる。


浜辺を歩く

2023-08-22 05:37:44 | 日記
 早朝に浜辺を歩く。小さな島々と薄雲に霞む対岸の讃岐富士をみるともなく眺め変わらぬ一日の始まりに心安んじたのは、いつのことだったろうか。打ち寄せられた漂流物に目を止めて面白いと思うようになったのは、もう大人になってからであった。
 いま海辺のない埼玉県に暮らしていて、ワタシの浜辺は週に一、二回通う図書館になった。遠景は、北端の雑誌閲覧場所から南端の児童用図書閲覧場所までずらりと連なる書架。中央に貸出場所があり、インフォメーションをしているデスクもある。
 なぜ浜辺か?
 漂流物がある。日々のものもある。週刊のものもある。昔から変わらぬかのように見える本の並びも、子細に注目してみると、目新しいタイトルが加わっていたり、並びが凸凹して波が打ち寄せていることを感じる。中央部分に近い書架には「今日返却された本」と題した棚も置かれ、寄せた波の感触がまだ残る未整理の本がずらりと並んでいたりもする。
 何を探すというのでもなく、その書架に並ぶ本の背文字をみているだけで、ああこんな作家がいま読まれてるんだ、この評論家を好ましく読む人はどんな人だろう、どんな読み方をしているんだろうと、この図書館に出入りする人の「文化状況」を眺める気分になる。
 雑誌はことに浜辺感がつよい。ふだん目を留めない分野の雑誌を手に取って、その場でしばらく目を通し、ベンチに座って考えるともなく眺め読み、何か胃の腑の入口に突っかかるものを抱えて、胸の内に転がしていることもある。たとえば、雑誌の裏表紙に載っている本のキャッチコピー。
 《言の葉の上を這ひずり回るとも一語さへ蝶に化けぬ今宵は》
 現代歌人シリーズ6・岡井隆『暮れてゆくバッハ』のCMに添えられている。その子細だろうか、うんと小さな文字で次のように記す。
《この本は、一見すると、きはめて形而下的な契機によって成立しているやうに見える。しかし詩歌といふのは、さういふ形而下的な動機を超えて動くものだ。/作者は、それまで長く続けてきたいくつかの仕事を辞めた。そのためもあって、詩や歌をつくる悦びを覚えるやうになった。どうやらその流れが、この本の底のところで、ささやかな響きを立ててゐるやうに作者は思ってゐるのだが、錯覚であらうか(著者あとがきより)》
 おや? 「著者あとがき」というのがちょっと違和感をもたらす文面だな。この本の編集者が、印象を記した惹句に思えたのだが、どうしてだろう。
「形而下的な動機を超えて動く」のは、詩歌だけではない。ありとあることごとが、形而下的な動機にはじまり形而上的な跳躍をしつつ流れ込んでくる。人が何かを感知する、何かをわが身のこととして受け止めてる瞬間に、言の葉という物質がその物質のまんまに送り出され受け渡されているわけではない。言の葉といえども、それの引き起こすイメージがぼんやりと繰り出され、それをまたぼんやりとイメージとして受け止めているからこそ、誤配を生みながらも言の葉が通じていると「錯誤」することができる。もし物質が物質のまんまに、つまり形而下的に送り出されたものでも、それが形而下的のまんまに受け渡されていたら、人のコミュニケーションは猥雑かつ錯雑のまんまで草茫茫夥しくなる。人から人へとわたるときにいくぶんか昇華が働き形而上的な言の葉として「誤解」というふくらみを持ちつつ「ふへん」という宇宙へと拡散してゆく。
「ふへん」というのは、紙幣のようなものだ。ただの紙っ切れが何か価値あるもののように見えているのは、それを受け渡しする関係人が「価値あるもの」と思っているからに外ならない。社会的共有幻想である。でもその幻想は、ただの紙っ切れという形而下的なものを、おカネという形而上的なもの、どこへ持っていっても通用する「ふへん」性をもっているとみているから、「価値ある」といっているだけのことだ。「ふへん」というのは、まさしく「空」である。無人島で大量の紙幣をもっていても、暖を採るのに燃やすくらいしか役に立たない。色即是空である。
 だがその、色即是空、空即是色がコミュニケーションの肝。そう思うから「言の葉の上を這ひずり回る」。しかし「蛹」のまんま。「錯覚であろうか」というのは、実は的確なとらえ方だとおもいつつ、その雑誌のタイトルをみる。『短歌ムック ねむらない樹』(書肆侃々房)とある。
 巻頭エッセイ「枕辺の足」永井玲以が刺激的だ。
《夜が来る。夜が来ると、瞳から目を外す。……目の前の世界が曖昧になる。事物の輪郭は溶け合い、存在の不確かさが告げられる。》
 とはじまる。この筆者のことは知らない。だが、目を外すイメージは、「たんどく」と「ふへん」、形而下と形而上の(関係の)幻想性を脇に置いてわが身のあるがままを一つにしてみようとする成り行きを感じる。人は毎晩死んで朝になって生き返るといったのは柳田國男だったが、瞳から目を外すことによって我に返る人の身の倣いを取り出して新鮮であった。
 今日のワタシの浜辺だ。