mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

共有体験としての「死の肉体性」

2023-08-11 05:56:24 | 日記
 今日からお盆の連休に入る。これが「敗戦記念日」と重なるから、戦争体験の報道も多くなる。ドキュメンタリーやニュースを、別の仕事をしながら耳にしていて、飛び込んできた遣り取りが頭の片隅に残った。
 ひとつ、中国戦線でスパイを刺突せよと命じられて殺してしまった94歳。「いくら命じられたといってもね、殺したのは私ですから・・・」と心裡に抱えて、その罪を背負ってきたことをうかがわせる。
 もうひとつ、刺突を命じられて拒否していじめ抜かれたキリスト者。内村鑑三の無教会派クリスチャンの家庭で育ったことが背景説明されて、「いくら天皇の命令といっても、人を殺せというのを受け容れることはできなかった」という趣旨の、身の反応をつぶやきだしている。
 前者は罪を背負い、後者はいじめ抜かれることで、自らを差し出したと言えようか。でも後者が生きて戦後を迎えたということに、大西巨人の『神聖喜劇』のような場面を思い起こしたのは、理屈を通す一筋の道が(当時の陸軍に)残っていたと思いたいのかと自問することへ繋がった。クリスチャンであることが上官の命令を拒否する「理屈」になったとは考えにくい。ならば、仏教者であっても「殺す勿れ」という戒律を通すことができるはず。そういう理路のチャンネルがなかったと思うのはワタシの限定的な思考体験に過ぎないのか。
 二人の声は、戦争の、兵士に降りかかる究極のモンダイに行き着いている。むろん殺すか殺されるかという場面の「選択」もあろうが、たぶんその場においては、身の反応に任せるしかないと思う。兵士の鍛錬というのは、場面に応じた瞬間的な反応を自動化することにある。躊躇わず敵を殺す。生死を分ける場面に放り込んで、「どうする?」と問うようなことを軍隊はしない。端から人としての倫理や道徳を投げ捨てたところに戦場は成立している。自衛隊って、こういうことをどうテツガクしているのだろう。
 そうだ、もうひとつ、どなたであったか戦場体験者が「安部晋三ってったって、戦場を体験したわけじゃない。そんなヤツが戦争のことをどうこういうなよ」と吐き捨てるようにいったこと。机上論とか、デスクワークということを非難しているのではない。兵士が戦うということを組み込んだテツガク的な臭いすら感じないことを指摘していると思った。これは、防衛論議に触れて発言する人たちが避けて通ることのできない問題領域だ。でも、マスメディアに登場するウクライナ戦争に言及する防衛論議の専門家たちはほぼどなたも、大きな図柄を描いて力関係を喋喋するが、兵士が直に殺し合いをしているという肌身の感覚を論題にはしていない。殺戮もすでにボタンやスウィッチ、迫撃砲の響きの向こうの事象になっている。罪の意識も刺突した者の身に残る相手の肉の感触も消えてしまっているのかもしれない。
 でも本源的に、兵士の身に残る感触として味わうことがなければ、ヒロシマやナガサキの原爆投下同様、ボタンを押した感触が、遙か下の地面では地獄の業火になっていたことと結びつかない。むしろ、アメリカの若い人たちの戦死を少なくしたことに正当性を感じるくらいが関の山だ。ここでも、死者とわが身とを結びつける「感触/死の肉体性」は失われている。
 戦争体験というのは、戦争が人の生死に直に繋がる「罪」の問題でもあるという共有体験が、すでに共有されないところに来ているのかもしれない。
 お盆というのは、死者との出合い。死者を迎え、言葉を交わした思いを甦らせて互いの関係の様々なことを受け継いでいますよと自問自答する儀式であった。でも今は、ただの連休。死者は話のツマ。そっちのけにして、どこでリクリエーションするかに腐心している。そのギャップのどこに、共有される体験としては、何があるのか。
 死者は遠くなりにけり。デジタル時代というのが、死者をどう組み込んだ世界観を作り上げるのか。人類の共有体験としての死の肉体性が、問われているのかもしれない。