mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

奇しくも1年後

2023-08-07 09:01:34 | 日記
 マンちゃんが死んだ。
 ミドリさんから訃報メールが届きました。
《突然ですが、今夜7時頃**守さんがご逝去されました。残念です。取り急ぎお知らせまで》
 午後9時の発信です。たぶん、マンちゃんの連れ合い・キミちゃんとの遣り取りがあって、彼女も知らされたのでしょう。でも私の胸中に、悲しいとか無念という言葉は浮かびませんでした。やあ、よく頑張った。よくぞここまで持ちこたえたと思っています。
 つい二ヶ月前、5月21日の36会seminarを閉じる日が、彼と言葉を交わした最後の日でした。
 よく聞こえない耳を傾け、気力を振り絞るように「ええよ、儂がやるよ」と、私の抛り出す36会seminar後の世話役を引き受けた彼の「義理堅い決意」の声と(seminar後の36会の集まりの名称を)「ティーパーティがええな」と呟いた響きが、彼らしさを象徴しているように、いま私の耳に響いています。
 義理堅いというのは、2013年3月に始まる36会seminarの言い出しっぺが、マンちゃんだったからです。その年の2月までお台場の週一仕事を勤めていた私は、仕事を終えてから「ゆりかもめ」で新橋へ立ち寄り、彼と会ってお喋りするというのが習いになっていました。店番をしていたキミコさんは「ええよ、行ってらっしゃい」とニュー新橋ビルのお店へ送り出してくれます。そこで1、2時間昼食を共にしながらお喋りするのは私にとって、わが身の拠って来たる所以の72年間を、ひとまとめにして鏡に映してみるような、愉しみでした。マンちゃんの読書人としての関心領域の広さ、思いを受け止める深さが、私の言葉に胸を貸すような響きを湛えていました。その私のお台場仕事が、2013年の2月で終わりになると知り、seminarでもやらないかと言い出したのが、マンちゃんだったのです。
 若いころからメンドクサイ理屈っぽいことをいっていた私に、とことん付き合うホスピタリティの高さが、マンちゃんの得意技とする人柄でした。彼は自分のことをちゃらんぽらん、いいかげんと表現していました。だがそれは、物事を受け止める寛容度の大きさを表していました。彼の好きな野球にこと寄せていえば、彼は子どものころ引き受けていたキャッチャーのポジションにぴったり。構える投手に対して、キャッチャーミットをポンポンと叩き両腕を広げて真ん中に投げろと腰を低くする。ああ、そこなら上手く投げられそうだと投手に思わせる。そういう安心感をもたせるセンスが、話しかける言葉をするすると引き出してくる感触を持っていました。
 野球にせよ競馬にせよ、歴史物にせよ、地政学的な問題にせよ、生きている限り関わりの生じるありとあることごとに寄せる彼の関心の在り様は、まるで江戸の町家のご隠居のような風情がありました。世間の世話話に通じている。聞かれればひと言加えるだけの見識をもっている。それでいて、どんな話にでも合わせられる。
 では、八方美人のお人好しかというと、決してそうではない。手厳しいことをピシッと言う。多分そういわれた人はそうはいないと思うが、小学校の一年生から同級生で六年間過ごしたサトーさんは彼に手厳しいことをいわれて、悔しい思いを私に告げたことがあります。私もまた、雪の福島県新野地の秘湯の宿で彼と口げんかになるような遣り取りをしたことがあります。言うべき時はいう、そういう頑固一徹さももっていました。もちろん、親しい間柄でこそでしたから、持ち越すことはありませんでした。
「ティーパーティがええな」というのは、彼が終生もっていたこだわりが籠められています。そのお話をしましょう。
 彼が小学五年生のとき。教師の与えた作文に応えて「政治家になりたい」と書き、担任が絶賛して皆の前で読み上げたのでした。1952年、いまから71年前のことです。朝鮮戦争が戦われているときでした。担任が何を評価して絶賛したのかはワカリマセンが、子どもの視線で這い回る他の子たちに比べて、一段高い知性と現実認識を感じさせたからだと、いま思います。
 当時のマンちゃんは人柄ばかりでなく、野球のルールや大相撲の技など、世間を知る視野の広さ、マンガや読物から科学や宇宙を知る大きさを持っていると感じていました。だから政治家を志望するという彼の現実認識のありようが、当時は、飛び抜けて新鮮なものにみえたのでした。
 実際の彼は政治家への道には進みませんでしたが、法学を学び政治学への関心を深め、終生読書人として、現実政治への関心も絶やしませんでした。
「ティーパーティ」はいうまでもなく「ボストン・ティーパーティー」ボストン茶会事件のことです。seminarを閉じた後の36会の集まりを「36会・茶話会」といっていたのをだれかが《「茶話会」って「ティーパーティ」のことね》といったので、一挙に彼の耳にとまったのでした。
 若いころの彼は「独立革命」のような騒ぎが大好きでした。それを私は、反骨精神と思っていました。「権威」に対する反骨、「権力」に対する反骨、強きを挫き弱きを扶ける丹下左膳の噺も、彼の子どものころの佇まいとして思い出します。「政治家になりたい」というのは、彼が子供心に抱いた弱きを扶けるユメだったのだと、当時の玉野市社会に確乎として広がっていた資本家社会的階級社会を胸中に甦らせて思い出します。
 ちゃらんぽらんでいいかげん大好き、36会もサボロー会と呼んで面白がっていたのも、「反骨精神」という立派なものではなく、市井の民のあらがいという(非力な自分の立ち位置を見切った上での)抵抗の心持ちであったと思います。つまり、「反骨精神」という言葉を用いる知的な「権威」に対しても逆らう気分を崩さなかったと、いま私は理解しています。
   *
 ついつい話がマンちゃんの人柄にいってしまいました。訃報に接し、最初に抱いていたのはマンちゃんとのあれやこれやでした。だが、ミドリさんから続報がありました。
《葬儀は家族葬、香典は受けとらない。次回に予定した36会の集まりを「追悼の会」にしたい》
 そうか、8/20(日)に追悼の会か。そう思ったとき、奇しくも一年前のseminarを実施しようかどうしようか、猛暑とコロナウイルスの感染の広がりとを勘案して、思案していたことを思い出しました。
 奇しくも去年の8/20(土)。講師に予定していたタツコさんはじめ何人もから、あまりの暑さに出かけるのはどんなものかと心配する声が上がっていたのです。その思案をしているところへ、8/5、keiさんからメールが来ました。
《80歳ともなれば、明日は何があるかわかりませんので、お会いできる時に、お目にかかっておきたいと思います。》
 これで肚が決まりました。実施を決定したのです。
 今年も7月に会場がとれず、8/20になっていたのですが、その決断も8/5のミドリさんの知らせ。「奇しくも」とワタシは受け止めて、そういう感じ方をマンちゃんは(たぶん)面白がってくれるだろうと思っていました。
 そうだ、一つ付け加えることがあります。冒頭に「よくぞここまで持ちこたえた」と記したこと。
 マンちゃんは、持病山積の身でした。60代の半ばだったか、御岳山へいったとき。正殿手前の階段の下で歩けなくなり、座り込んでしまったことがあります。血糖値が下がったのでした。その後体重は47kgまで下がり、いろいろな病名を得て何度か手術をしています。でも、毎日の仕事には、よろよろ歩きながら新橋まで出かけ、店番をすることを、つい最近までしていましたから、私は「低空飛行」と呼んでいました。思えば、よく頑張ったものです。そうして享年(数えで)82歳という男の平均寿命に到達したのですから、いや、たいしたものです。
 ま、早晩私たちも彼岸に渡ることになります。マンちゃんが彼岸でキャッチャーミットを構えて、さあ投げろと腰を低くして両手を広げるのが見えるようです。
 ま、ま、せかしなさんな。いずれ再開して、またゆっくり杯を交わしましょうやと呟いています。