mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

群盲象を撫でる

2023-08-17 09:12:19 | 日記
 先月のささらほうさらの会は、思わぬ方が飛び入りして、面白い運びになった。テーユーさん、半世紀来の友人。硬質な知識人。たまたま月刊の「ささらほうさら・無冠」に掲載した「ささらほうさらの源流」を目にして、そこで話題にした「突出した癖の強い思想家」氏(テーユーさんはOTと呼んでいた)に仕事現場で面識があったことから、違和感を率直に披露して、この思想家氏の思想形成の現場を探ろうとするお話をしてくれた。彼の場面の切り取り方と私との見て取り方の違いが文字通り截然として見事であった。
 仕事現場とOTの著作と彼の思想形成の現場としての「ささらほうさらの源流」集団。その構造に思いを寄せて、源流集団(とそこにおけるOT)の混沌に驚いている。源流集団を「(OTの)思想形成のバックヤード」と呼んだのが面白い。そうなのだ。ヒトはわが身が何であるかをとらえるのさえ、他者を鏡にして、その関わりの動態的な関係の移ろいにわが身を映して腑に落としていくメンドクサイ作法を必要とする。バックヤードが混沌であるというのは、ヒトの立ち居振る舞いは感性も感覚も選好も思念も、まるごとに関わり合いのモメントとして投げ出され、それなりに影響を与えているからだ。送り出す方も受けとる方も、あるいはそういう送受信していること自体を意識することなく、言わばヒトの数だけ(あるいはその場で語り出される関係の数だけ)モメントは作用し、しかもそれはブラウン運動とでも言うように自在な方向性を持っているからである。「ささらほうさらの源流」ではそれを二重焦点の楕円運動と表現したが、それさえも、わかりやすく描いたひとつの絵柄に過ぎないと私は思っている。
 A4のペーパー6枚に、きっちりと項を分けて書き落としている一つひとつが刺激的であった。テーユーさんのヘキをうかがわせる部分も散見され、それはまた面白い発見でもあったが、たぶんいつの日にか再びワタシの胸裏に浮かび上がって、わが身を照らす鏡になろうと思うと楽しみでもあった。
 翌日テーユーさんからメールが来た。
***2023-07-14 e-mail
 昨日は有難うございました。皆さんに逢えたり、新しいことを知ったり、楽しかったです。/新発見。⓵異議あり集団は、△ではなく楕円だった。⓶林立するカオスの森だった。③思想家氏は統治的であり権威主義であった(私見では権威主義と世俗主義は同義です)。/驚いたこと(⓵⓶③④略) テーユー
  *
 最後の「驚いたこと」の項目の一つに「着ていたものを人あげる?(身体性がわかっていない。贈与は尊敬。最悪です)」と説明がついていて、テーユーさんのコトのとらえ方のベースを垣間見るようで、思わず読んでいるワタシは居住まいを正してしまいました。それへの返信・御礼のメール。
***2023-07-15、返信mail
 テーユーさま/一昨日はありがとうございました。久々に硬質な言の葉に触れ、昨日は一日あれこれと思いが巡っておりました。あなたのようにパッパッと箇条書きには出来ませんが、また少し心裡で転がして、ささらほうさら無冠に記したいと思います。/思い浮かんだのは「群盲象を撫でる」という俚諺です。「突出したクセのある思想家」氏は、何処で、何処からみているかで見え方が違う。ことごとくみているものを映し出しているというふうに感じました。私は「みえる」という中動態を好みとしていますが、「みえる」には「みる」ものが映し出されているという意味で、能動的であり、それを感知してるかどうかが「知性」なのかなと、あなたの言の葉を受けとりました。清冽な水の流れに触れたように感じています。/統治的権威主義は世俗主義と同じという貴兄のご意見に関して。私は自身が「門前町に身を置く門前の小僧」。その身分を忘れまいと思っています。ワタシの身の裡に潜んでいる無意識が世俗主義の欠片を引きずっています。断片的・混沌的権威主義とでもいいましょうか。アナーキーなフラグマン権威性と名付けましょうか。自然信仰的な、つまり山に懼れを感じ、樹木に畏れを抱き、アニマであるワタシ自身を不思議と感じているこの感触のどこかに「超越的な何か」がある。それに感じている権威こそが、ひょっとすると「魂」というヤツで、それは樹木の根っこのようなもの、見えない。けどそこから吸収したあれやこれやがワタシの今に現象しているという感じを持っています。列島住民がいつしか形成し継承してきた自然信仰と根っこは同じと思いますが、それが市井の民の思想的自律の土台。そこに足をつけているかどうかが、今の時代の市民生活批判、つまりワタシの自問自答に繋がっていると思っています。/よくわからない、断片的・混沌的世俗主義というワケです。そういうわけで、社会的システムに組み込まれて画然としている権威主義とは「統治的」という冠詞をつけて(根っこは同じでしょうが)わずかな違いを残しておきたいと感じています。/いやいや、おしゃべりが止まりませんね。あなたの言の葉はこれほどまでに刺激的だったと思って、御容赦ください。/家に帰って(〒)の封筒を開けて驚きました。こんなに頂戴しては、このあと十年ほども貴兄に送らねばなりません。それほど長生きするとは思えません。身に余るとはこういうことだと、思いました。有難く頂戴致します。/また折を見てお話をお聞かせください。フジタ
  *
「(〒)の封筒」というのはテーユーさんが月刊「ささらほうさらの源流」への送料と思ってカンパを下さったもの。ささらほうさらの会の講師を務めて下さったお礼も差し上げないのに、と思いつつ有難く受けとったのですが、十年分程もあります。私はいま八十路の第一ステップを歩いているのに、このあと十年というと九十路か。そうか、九十路爺(くそじじい)になるまで頑張れよってコトか。テーユーさんは私より一つ年上。ならば彼にも九十路爺まで生きて読んで貰わねばなるまい。そんなことを考えていたら、メールが来た。
***2023-07-15
フジタ様/貴兄のおっしゃる「超越的何か」を空海は言葉にしました。私は空海門下なのに空海の説く所をいまだ十分に理解していません。来年三月、けんかつが終わったら、空海の読み返しをしたいと思っています。/「空海の自然」については少ししゃべれると思います。空海は大地生命派ですから。良かったらまた気分転換によんでください。 テーユー
  *
  いや、うれしい。早速に返信した。
***返信mail、2023/07/16
 テーユーさま/いや、うれしいお話。「空海の自然」、ぜひお願いします。四国88箇所のお遍路も、59番札所まで終わっています。60番札所は石鎚山の中腹。そこから88番札所まで(たぶん)あと十日ほど。今年の秋には歩き終えて、私の81歳を迎えたいと思っています。信仰心のないワタシも、自然信仰の観点から、空海にまつわる風説の「合理性」に思いを致しながら歩いてきました。楽しみです。/コロナ禍がまた勢いを増しているようです。お身体に気をつけてお過ごしください。 フジタ
  *
 モノゴトをきっぱりと見て取っているのに、リスペクトを欠かさず、決して相手を傷つけないように言葉を選んで応対するテーユーさんの所作に、私はまた感動しているのでした。