mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

浜辺を歩く

2023-08-22 05:37:44 | 日記
 早朝に浜辺を歩く。小さな島々と薄雲に霞む対岸の讃岐富士をみるともなく眺め変わらぬ一日の始まりに心安んじたのは、いつのことだったろうか。打ち寄せられた漂流物に目を止めて面白いと思うようになったのは、もう大人になってからであった。
 いま海辺のない埼玉県に暮らしていて、ワタシの浜辺は週に一、二回通う図書館になった。遠景は、北端の雑誌閲覧場所から南端の児童用図書閲覧場所までずらりと連なる書架。中央に貸出場所があり、インフォメーションをしているデスクもある。
 なぜ浜辺か?
 漂流物がある。日々のものもある。週刊のものもある。昔から変わらぬかのように見える本の並びも、子細に注目してみると、目新しいタイトルが加わっていたり、並びが凸凹して波が打ち寄せていることを感じる。中央部分に近い書架には「今日返却された本」と題した棚も置かれ、寄せた波の感触がまだ残る未整理の本がずらりと並んでいたりもする。
 何を探すというのでもなく、その書架に並ぶ本の背文字をみているだけで、ああこんな作家がいま読まれてるんだ、この評論家を好ましく読む人はどんな人だろう、どんな読み方をしているんだろうと、この図書館に出入りする人の「文化状況」を眺める気分になる。
 雑誌はことに浜辺感がつよい。ふだん目を留めない分野の雑誌を手に取って、その場でしばらく目を通し、ベンチに座って考えるともなく眺め読み、何か胃の腑の入口に突っかかるものを抱えて、胸の内に転がしていることもある。たとえば、雑誌の裏表紙に載っている本のキャッチコピー。
 《言の葉の上を這ひずり回るとも一語さへ蝶に化けぬ今宵は》
 現代歌人シリーズ6・岡井隆『暮れてゆくバッハ』のCMに添えられている。その子細だろうか、うんと小さな文字で次のように記す。
《この本は、一見すると、きはめて形而下的な契機によって成立しているやうに見える。しかし詩歌といふのは、さういふ形而下的な動機を超えて動くものだ。/作者は、それまで長く続けてきたいくつかの仕事を辞めた。そのためもあって、詩や歌をつくる悦びを覚えるやうになった。どうやらその流れが、この本の底のところで、ささやかな響きを立ててゐるやうに作者は思ってゐるのだが、錯覚であらうか(著者あとがきより)》
 おや? 「著者あとがき」というのがちょっと違和感をもたらす文面だな。この本の編集者が、印象を記した惹句に思えたのだが、どうしてだろう。
「形而下的な動機を超えて動く」のは、詩歌だけではない。ありとあることごとが、形而下的な動機にはじまり形而上的な跳躍をしつつ流れ込んでくる。人が何かを感知する、何かをわが身のこととして受け止めてる瞬間に、言の葉という物質がその物質のまんまに送り出され受け渡されているわけではない。言の葉といえども、それの引き起こすイメージがぼんやりと繰り出され、それをまたぼんやりとイメージとして受け止めているからこそ、誤配を生みながらも言の葉が通じていると「錯誤」することができる。もし物質が物質のまんまに、つまり形而下的に送り出されたものでも、それが形而下的のまんまに受け渡されていたら、人のコミュニケーションは猥雑かつ錯雑のまんまで草茫茫夥しくなる。人から人へとわたるときにいくぶんか昇華が働き形而上的な言の葉として「誤解」というふくらみを持ちつつ「ふへん」という宇宙へと拡散してゆく。
「ふへん」というのは、紙幣のようなものだ。ただの紙っ切れが何か価値あるもののように見えているのは、それを受け渡しする関係人が「価値あるもの」と思っているからに外ならない。社会的共有幻想である。でもその幻想は、ただの紙っ切れという形而下的なものを、おカネという形而上的なもの、どこへ持っていっても通用する「ふへん」性をもっているとみているから、「価値ある」といっているだけのことだ。「ふへん」というのは、まさしく「空」である。無人島で大量の紙幣をもっていても、暖を採るのに燃やすくらいしか役に立たない。色即是空である。
 だがその、色即是空、空即是色がコミュニケーションの肝。そう思うから「言の葉の上を這ひずり回る」。しかし「蛹」のまんま。「錯覚であろうか」というのは、実は的確なとらえ方だとおもいつつ、その雑誌のタイトルをみる。『短歌ムック ねむらない樹』(書肆侃々房)とある。
 巻頭エッセイ「枕辺の足」永井玲以が刺激的だ。
《夜が来る。夜が来ると、瞳から目を外す。……目の前の世界が曖昧になる。事物の輪郭は溶け合い、存在の不確かさが告げられる。》
 とはじまる。この筆者のことは知らない。だが、目を外すイメージは、「たんどく」と「ふへん」、形而下と形而上の(関係の)幻想性を脇に置いてわが身のあるがままを一つにしてみようとする成り行きを感じる。人は毎晩死んで朝になって生き返るといったのは柳田國男だったが、瞳から目を外すことによって我に返る人の身の倣いを取り出して新鮮であった。
 今日のワタシの浜辺だ。