mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

暑さ寒さも彼岸まで、自然に生きるのも古稀まで、か。

2016-09-23 16:29:44 | 日記
 
 暑さ寒さも彼岸までとは、よく言ったもの。昨日は一日涼しく、外へ出かけるときは、半ズボンでは寒いかなと思い、長ズボンに履き替えた。昨夜は、それまでのタオルケットに一枚夏掛けを増やした。温く、7時間半も熟睡。やっと秋が来たねえ、という感じだ。
 
 だが困ったことに、涼しくなってすっかり水を摂るのを忘れていた。尾籠な話で恐縮だが、今朝は便秘でだいぶ苦しんだ。暑いと汗が出る、喉も乾く。水を摂取しないと熱中症になるとTVの警告もあるから、ふだんよりは摂りすぎるほど水を摂取する。ところが涼しくなると、この、身体が要求する強さが弱まるから、水分摂取を忘れてしまう。つまり、自分の身体が年とともに、自然(じねん)では調節できないようになっているのだ。これ自体がもうすでに、古稀の年代に入っていることを証しているように思える。もう、自然の摂理から外れて、長生きしすぎているんだよ。だから、頭で考えて、手入れをしてやらなければなりませんよ、と。
 
 こういう発見は、じつは、いろいろな場面で何度もしているのだが、気候が良くて調子づくとつい、忘れてしまう。自然の「気候が良い」ということも、もう私たち年寄りには、「よい」だけではすまなくなっているともいえる。「己の欲するところに従ひて矩を超えず」というが、「欲するところ」自体が衰えて、身体の必要とするところを感知することすらできなくなっているのだね。よほど身体の自動調節作用を鍛えておいた人でないと、あちらこちらにどんどん不調和が発生する。いくぶんかでも恢復力があれば、ちょっと躓いた程度で、持ち直すのであろうが、身体の自動調節作用などというものは生活習慣だから、この歳になると「ほぼ体質」と同じになる。それを「鍛える」には何十年とかかる。もう間に合わない。
 
 では、どうしたらいいか。「ほぼ体質」が外科療法的に手当てできることなら、わりと簡単だ。躓いたら、薬を使うこともできよう。「ほぼ体質」を理解してもらって、カミサンに面倒を見てもらうこともできなくはない。「お茶は飲んだ?」「薬を忘れてない?」「はい、果物も食べなさいよ」と。でも……、ウルサイ。となると、目につくところに書き付けておいたり、薬ケースに日ごとに分けておいて食後に手が行くように「習慣づける」。服薬はこうやって、なんとか「生活習慣」にした。だが、お茶と果物は、まだそうなっていない。
 
 いまさら(鍛えるか)、とは思うが、外部的に「用心装置」を整えていると、身の回りが雑然としてくる。「身辺整理が行き届かなくなると、認知症の心配がある」とこれまた世間の放送局がやかましい。これも外部装置といえばいえるが、それに耳を傾けることは「ほぼ体質」にない。余計なことは、やめてくれえ。
 
 そうか、もういい! なるようになれっ! て、わが身をあきらめたところから、終活になるのか。そうだよ、終活の時期が来たんだ。そういえば、古希を過ぎてもう3年になる。古希のうえにも3年て謂うではないか。