mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ジャーナルな気分

2016-09-18 19:59:51 | 日記
 
 ジョージ・オーウェルが、イギリスにおけるスペイン内戦の報道を見て「私は初めて、嘘をつくことが職業である人物に出逢ったが、なんとその人のことを人々はジャーナリストと呼んでいるのだ」と皮肉っていることを知った(細谷雄一『安保論争』ちくま新書、2016年)。
 
 なるほど、ジャーナリストというのは、ものごとの真偽を見極めて報道する立場にある(とみなされている)。だから、自分のつかんだコトの真偽を、つねに見極めようとする目をもたなければならない。だが逆に、自分自身の思い込みによって真偽が左右されていることについては、見えないという「壁」にぶつかる。かといって、自分自身の「信念」というか、これぞと思ったことを放擲して「真実」の追及ということも、インセンティヴにかける。報道記者というのは、それをどう乗り越えているのであろうか。
 
 いま読んでいる小説に、新聞記者の先輩と後輩が交わす、こんな会話がある。長いが引用する。
 
******
 
「関さんはどうしてジャーナルっていうんですか」
……
「真実の多くが、誰かの都合によって隠され、捻じ曲げられているからさ。それらを一枚ずつ引っぺがして真実までたどり着く。そしてそれらを検証して、自分のことばで記事にするのが俺たちの仕事じゃねえか」
「それでしたら、私だってわかってますよ」
「それに他紙と競争して早く伝えるのも俺たちの仕事だ。一日くらい早く伝えたとこでなんの意味があるんだと言う者もいるが、早く書かなければ、メディアはなんでも公式発表を待つ。それこそ権力の思い通りだ。どうでもいいことだけ伝えられて、不都合なことは隠されてしまう。」
……
「私が聞きたいのは違うんですよ。どうして関さんは『ジャーナル』というのですかということです。取材精神のことを言うのなら、ジャーナルではなくジャーナリズムですし、きちんと取材する人間を指しているのならジャーナリストでいいじゃないですか。ジャーナルだと〈日刊紙〉という意味になってしまいますよ」
……
「それはやっぱり、俺たちは新聞記者だからだよ。ジャーナリストのように、時間をかけて、相手の懐に深く入り込んで、すべてを聞きだすことも大事だけど、俺達には締切があって、毎日の紙面をつくらなければいけない。きょうはネタがありませんといって白紙の新聞を出すわけにはいかないからな。〈時間をかけず〉かつ〈正確に〉と相反する要素を求められる」
……
「自分のことをジャーナリストなんて呼ぶのは、なんかこっぱずかしいじゃねえか。俺にはジャーナルで十分だって……」
 
******
 
 本城雅人『ミッドナイト・ジャーナル』(講談社、2016年)の一節。警察詰めの新聞記者が事件に探りを入れ、事件記事を取材して書いていくときに、どうやってウラをとるのか、取材源を明かさないでどのようにして記事を書くのか。それにどのように信ぴょう性をもたせるのか。そんなことを主旋律にして、記者同士の関係が浮かび上がり、新聞を発行する本社と支局の力関係を絡めながら、生起する「事件」を物語は追う。
 
 「なんかこっぱずかしいじゃねえか」というのが、この作家の真骨頂。事件記者という(出来事と犯人と被害者という構図の中では)いつでも正義を体現しているかに見える複数の主人公(新聞記者たち)を、そのような目でとらえながら、しかしそこにインセンティヴを描きとろうという企てである。つまりジャーナリストというのは、いつでも自らを正義の立場に置いて物事を眺めている、利害を超越した客観者であるように見える。それが「こっぱずかしい」というのが、読む私の好感を呼ぶ。
 
 長年ジャーナリストであった私の長兄にも、このような「こっぱずかしい」という感触はあったのであろうか。聞いてみたいが、もうこの世に居ない。彼の最後に出版した本のタイトルが『ジャーナリズムよ』であった。ジャーナリストの世界に呼び掛ける15年分のメッセージが集約されている。はて、こうした自己批評的な視線が込められているかどうか。私が読み取るしかないか。