mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

生きるってそういうこと。死ぬってことも、そういうことよ

2016-09-17 20:58:10 | 日記
 
 2年前の9月14日、「潜在し、あちらこちらに噴き出す疲れ」と題して、このブログに記している。4日前に山に登り、その疲れだろうか、「お酒がまずい」「膝のあたりに違和感を感じる」「本を読んでも、中身が頭に入ってこない」「集中力が続かない」と愚痴をこぼしている。そうして、4日目に、
 
《こうして今日やっと、復したろうか。山に入る以前のように目が覚めた。朝5時。この回復ペースで行くと、週1、2日間の山歩きが精一杯なのだろうか。昨年は4日間の飯豊山歩きをこなした。だが、間違いなく年々下り坂の途上にある。》
 
 と回復宣言をしている。今週私は、水曜日に草津白根山に登った。といっても訳あって、軽いハイキングになった。むろん疲れはなかった、と思っている。ところが今日3日目には、小説を読むくらいしか根気が続かない。それも、1時間と読み続けることができない。まして、2年前に書いたように、「週1,2日間の山歩きが精一杯」どころではない。2年の間にこれだけ衰えているのかという驚きがある。これが山歩きのせいなのか、山の翌日も友人と何時間か呑み遊んだせいもあるのか。暮らし方のすべてが関係しているのであろうが、軽く考える方に身を寄せてはいけないと思う。
 
 2年のあいだの変化は、着実に「身」の衰退を指示している。何とか現状を保とうという「欲望」は持っていない。歳をとるにしたがって緩やかに衰えていくのは、自然であるからだ。少しでも長くこの世に居たいとは思っていない。といって、自ら命を絶ちたいというほど、この世に愛想が尽きているわけでもない。どこまでも自然にしたがうのが、私の務めだと思っているだけだ。
 
 気にしたからといって、事態の進行をどうにかできる/したいわけではないが、「身」に起こるコトの進行を目をそらさずに見続けて、出来るならば記し置きたい。そう思っている。なぜ? どういう意味があるの? という方もいるかもしれない。それは、わからない。ただそうしようと思っただけだ、というほかない。もし書き残すことに意味を見つけようとするのなら、私の子どもや孫たちに向けた、父(祖父)がそこまで正気であったという証か。だから何? っていえば、それもまた、何でもない。生きるってそういうことよ。死ぬってことも、そういうことよ。