mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「壁」を超える――身体に聞け!

2016-09-08 09:03:04 | 日記
 
  台風13号の影響でか、昨早朝はものすごい雨。いかに何でもこんな滝のような雨の中を出かけるのは、毎日が休日の年寄りには、はばかられる。そう思っていたら、8時過ぎには降り止む気配。じゃあ行こう、とカミサンと小ぶりの雨に折り畳み傘をさして映画を見に行った。
 
 『めぐりあう日』(ウニー・ルコント監督、フランス映画、2015年)。原題は「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」だそうだ。この長たらしい原題が、映画の末尾に語られる詩編に由来するとと分かって腑に落ちる。アンドレ・ブルトンの著書から採られたものと分かったのは、チラシの解説を読んでからだ。でも、どうして「めぐりあう日」というタイトルにしたのか。日本版制作者のロマン主義が影響しているというか、日本人の好みがロマン主義にあると見て取ったのではないか、と思った。
 
 ストーリーは、生まれてすぐ養女に出され30年を過ぎて、夫もあり息子もいる女性が産みの親を探し、たしかに「めぐりあう」。だがこの映画の主題は、そういう出逢いのロマンティシズムに置かれていない。舞台はフランス。女性も(夫も)フランス人。ところが産みの親を探すために移り住んだダンケルクの町で友人から、(この子の父親は)アルジェリアの人、それともモロッコの人? と問われる。もちろん「いえ、フランス人よ」と応えるが、(たぶん)そこに産みの親探しの動機が横たわる。血のつながりが(世代を飛んで)具体的に(子どもの)容姿にじかに表れるのは、母親にとっては確かに驚きであろう。「めぐりあう」という(日本語の)言葉の響きがもつロマンとは違う、「真実」を突き当てた驚きをどう受け止めるか。それがルコント監督の主題主要関心事である。
 
 これもチラシで知ったことだが、こう書かれている。
 
《孤児となった9歳の少女が韓国からフランスへ養子として旅立つまでを繊細なタッチで描いた「冬の小鳥」。ウニー・ルコント監督は、自身の子ども時代をもとに書いたこの映画の脚本が、巨匠イ・チャンドンの心を射止め、製作も担当してもらうという幸運な監督デビューを果たす。》
 
 この監督の「自身の子ども時代」というのがどういうものかわからないが、韓国人とかアルジェリア人とかモロッコ人とかアラブ人という、フランス人とは明らかに異なる人種的なモンダイを体で感じてきた違和感が、それをそれとしてことばで指し示さずに、あぶり出されてくる。そうして、ルコント監督は、(たぶん)身体でつながることを提示している、そう私は受け止めた。
 
 「身体でつながる」というのは、日本語でいう「身」のこと。心と体を一体としてとらえる視点である。理学療法士として患者を産みの親と知らずして出逢う。患者は「他人の身体に触るのは気持ち悪くないか」と尋ねる。その「気持ち悪さ」と治療としての作法を、あますところなく映像は映し出す。思春期に差し掛かる息子とのやりとりは、いつも言葉と振る舞いの齟齬をきたす。限りなく包容力のある夫との間に断裂を感じながら、でも拒むことをしないセックスと妊娠。息子に対して児童虐待しているのではないかと疑われたのちの、狂わしいばかりの「身」の振る舞い。理学療法士と患者として「身」をかわすことを通じて培った「かんけい」が、産み落としてすぐに養子に出したいきさつを(娘が)理解し受容するわけを説得的に説明している。産みの親の妣や兄は、16歳の娘が(出稼ぎに来ていた)アラブ人に騙されたといい、当人はそんなことはないいい人だったとつぶやく狭間に、養子に出されたワケが推察される。その産みの親の感懐を、養子に出された娘は自分の息子との「かんけい」において感じとる。寝入る息子のかたわらに身を横たえて「ごめんよ」とつぶやく。そこへかぶさる詩編が「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」と謳う。
 
 フランスは婚外子が5割を占めるようになり、移民が2割になろうとしている。それでもフランスの出生率が高いわけが、ここにしかないと、ルコント監督は歌い上げている。今の日本の現状では、推察することもできない「壁」を超えようとしているのかもしれない。
 
 映画館を出ると、陽ざしが照り付けていた。