mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自己批評性とは、異論を世界に位置づけることである。

2016-09-22 11:04:47 | 日記
 
 昨日引用した橘玲の言葉、《もっとも効果的に相手をダマす方法は、自分のそのウソを信じることだ。》の、お手本のような本を読んだ。細谷雄一『安保論争』(ちくま新書、2016年)。
 
 『安保論争』は、昨年国会で成立した「安保法制」が、どのような国際情勢の下で機能し、日本の防衛に資するかを解き明かそうとしている。著者は、今年45歳になる慶応義塾大学法学部教授。もちろん彼が「ウソ」を書いていると言っているわけではない。自己批評性がない。つまり、自分の考えていることしか目に入っていない。わかりやすく言うと、世界の半分しか見えていないと感じる。
 
 安保法制が国会論議されていた時点の左翼やリベラルの言説の矛盾をとりあげ、ジョージ・オーウェルの、「……嘘をつくことが職業である人物……のことを人々はジャーナリストと呼んでいるのだ」という言葉をかぶせて非難している。オーウェルは、スペイン内乱当時のイギリスの新聞やメディア、知識人が現場を知らないで報道し、社会主義体制を理想的なものとみて(そちらの残虐な出来事を隠して)いる偽善と不誠実に、実際のスペイン取材を通じて怒りをぶちまけたのであった。細谷はオーウェルにかぶせることによって、現在の日本の左翼とリベラルの報道メディアや知識人が「嘘をついている」と印象付けて、「われわれはいま、新しい21世紀の時代に生きている」「1945年の太平洋戦争の時代に止まるのではなく、2016年という現在の時代つまり未来の世界へと戻って来ようではないか」と呼びかける。ポジティヴに先を見て後ろを振り返らない、というわけである。
 
 では、どうして左翼やリベラルのメディアや知識人は、頑なに反対するのかについて細谷は、オーウェルを引用して《「催眠作用」から覚醒せよ》という。オーウェルは「新聞やラジオによる催眠作用」が国民の目を塞いでいると批判している。つまり人々は催眠作用に陥っている=騙されている、とみている。どう騙されているのか。
 
 「(戦争への)激しい怒りや嫌悪の感情の発露である。だが、世界の悲惨の現実には冷淡だ」という一国平和主義への批判。「安倍政権を批判しても、現在われわれが直面する安全保障上の脅威や懸念に対する実効的な代替案を示していない」(*)と、「現実」を見ていないという批判である。左翼・リベラルは、憲法解釈による「集団的自衛権」への参入が「立憲主義」を壊すと非難はするが、2014年以来、それが壊れたか? と問う。「安保法制は戦争への道」というが、戦争は起こったかと問うのも、勇み足と言わねばならない。
 
 つまり細谷は、安保法制に反対する人たちの、「(戦争への)激しい怒りや嫌悪の感情」が何故に(「安保法制の条文も読んでいないのに」)発露するのかを、解析していない。なぜ「1945年の太平洋戦争の時代」にとどまるのか。じつは、「大東亜戦争」について(政府は)「戦争は二度としないという決意表明」しかしていないからである。その「決意表明」の象徴が「憲法前文」であり「憲法九条」なのだ。
 
 しかも政府は、その後、なし崩しに「憲法解釈」を変えて「現実対応」をしてきた。はじめは「自衛権もない」と言っていたのに、安保条約によって事実上米軍の一翼に組み込まれ、「憲法解釈」を変えて自衛隊を創設し、さらに「憲法解釈」を変えることで「集団的自衛権」へと突き進む。つまり、国民全体に対して、政府として責任をもって安全保障に関する「論議を仕掛けること=憲法改正を提案すること」をしてこなかった。最初の「現憲法への改正」以外に、日本政府は、「先の戦争に関する反省」を国民的に行う機会をつくってこなかったのである。東京裁判に関しても(戦犯を合祀をしたのは靖国神社のせいにし、戦没者を追悼するのは当然のこととして)参拝をしている。それが事実上、東京裁判を否定する態度として連合国側から批判を受けているのは、周知のことだ。
 
 このような戦後の安全保障をめぐる日米と国際関係の動きを、じつは、同じちくま新書の加藤典洋著『戦後入門』(2015年)が、丹念に追っている。細谷雄一がそれに目を通していないとは考えられないが、あるいは加藤典洋もリベラル知識人の一人として、片づけられているのであろうか。巻末の「文献案内」ではたくさんの手軽に読める本が紹介されているのに、加藤のこの著書はない。憲法解釈変更に関する反対論の概説書もある。だが、この本に目を通した形跡がないのは、(先の戦争の反省という観点が)おそらく彼の視界に入らないからであろう。
 
 細谷は、
 
 《私は安全保障研究の専門家としては、日本の防衛政策や日米同盟を研究する方々のようにその詳細を深く掘り下げる能力には欠けているが、問題を多面的にとらえるという点では多少なりとも貢献できる部分があるのではないか》
 
 と自賛している。だが、「問題を多面的にとらえる」というのであれば、「激しい怒りや嫌悪の感情の発露」の根源を突き止め、それを批判的に乗り越えてこそ、「多面的にとらえる」に値するのではないか。加藤典洋の著書は、そうした諸意見を一つひとつ丹念に、戦後思想の中に位置づけ、その上で越えなければならない「課題設定」をして、彼自身の冒険的「提起」をしている。それは、いまの世界情勢からすると、いくぶん荒唐無稽に響くと私は受け止めているが、ではそれ以外に「希望」の持てる理念モデルが提示できるかというと、あるように思えない。
 
 それにしても、細谷のこの著書の視線を読んで、ふと気づいたこと。自分の「身」に合わない事柄には「催眠作用」を見てとって退けるというのは、自分は世界を見て取っているという楽天的傲慢が顔を見せている。それは、いまの安倍政権の手法だ。そしてまさに、それは、昨日の橘玲が指摘するように、「自分のそのウソを信じること」につながる。オーウェルが批判する時代のイギリスのジャーナリストと同じである。「(一昨年来の安倍政権の集団的自衛権論は)立憲主義を崩す」という批判も、政治権力が「権力抑制装置」という自己批評性を失うことへの警告である。
 
 「先の戦争」以来、私たちは政府との一体感を大きく失った。つまり、国家と社会に亀裂をきたし、私たち庶民はもっぱら、社会活動の方だけ向いて、つまり経済に目を向けて、生きてきた。そうした根幹の思潮の流れをきちんと位置付けることなく、「安全保障」だけを取り出して勝手に推進してきたのが、現在の政権につながっている。にもかかわらず、「国民の安全保障」を云々するなど、おこがましいと言わねばならない。
 
 (*)追伸:ちなみに、政権が「対案を用意もしないで批判するのはおかしい」と(野党に対してにしろ、批判的知識人に対してであるにせよ)いうのは、お門違いだ。政権をとっているものこそが「提案」をしてこそ「政権」である。野党にしろ、在野の知識人にしろ、むろん「対案」を用意して悪いわけではないが、「対案」を示そうと示すまいと、私たちは「反対する」ことはできる。反対することしかできないのだ。もしそれがロジカルにおかしいとか、無責任というのであれば、野党の「対案」が出されたら、それを「提案」と同等に俎上に上げ、「国民的論議」に付し、もしそれが良いとなれば「政権」の座をすぐにでも譲る用意がなくてはならない。それもなくてただ、反批判のために「対案を用意もしないで」と謗るのは、傲慢というものである。でも、こういう物言いが、細谷氏にわかるだろうか?