mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

不思議・好奇心を原点にする「教育活動」

2016-09-01 08:49:25 | 日記
 
 ジャン・マルク・ドルーアン『昆虫の哲学』(みすず書房、2016年)を読む。いやじつに、ギリシャ哲学の創成期はこうであったかと思うほど、博物学的である。昆虫を軸に生起する不思議への畏敬と探究心が縦横に広がる。そう、自然に対する好奇心が哲学であった時代を彷彿とさせるのだ。
 
 古代からの昆虫に対する観察と発見の驚き、行動と生態への疑問、分類など主要な関心事ではないという生物学者たちの言い分、昆虫の大きさと人間のそれとを比定するときの、彼らの運動能力の高さ、それを想像して巨大化したり、人間が100mも跳躍できるという想像、それを筋力とか体重に換算すると、自重でつぶされてしまうというな計算、ミツバチの巣房の六角形が神の摂理によるものなのか、ミツバチの自然選択という場当たり的な適応本能によるものかという論争が、数学からの六面立方体の複雑精妙さの問題提起と絡まって、面白く展開したこと。
 
 はじめ昆虫の生態の概説書と思って手に取ったが、まったく違った。昆虫をとらえる視線にあらかじめ人間の社会的営みが込められている擬人化――ハタラキアリの奴隷的生涯がどう埋め込まれているか、他種のアリを誘拐してきてハタラキアリに育てる政治戦略――と、それへの批判は、まるで人間世界のそれを論じているようであり、生物学者ばかりか、文学者、哲学者、社会学者などなどを巻き込んで取り交わされてきた様子は、さながら古代からの博物学大全の様相を呈する。
 
 ジャン・マルク・ドルーアンが何をしている人かが、「訳者あとがき」で明かされる。
 
《ドルーアン氏は長年にわたってフランス国立博物館の教授として、研究活動と教育活動に携わってきた》
 
 この博物館は「1635年王立薬草園として創設……フランス革命後の1793年、フランス国立博物館となり、基礎研究、応用研究、科学知識の普及という役割を担うに至った」と説明がつく。なんともう、四百年近い蓄積を持つ。そこにフランスが「世界の文化の中心」を誇るセンスを垣間見る。しかもそこで、「教育活動」をしているという感覚が、本書に満ち満ちている。
 
 博物学というのがもともと、細かく分節化される前の不思議・好奇心で満たされているとしたら、現代の博物学は、分節化され細分化してしまった科学や研究を、不思議・好奇心を基軸にもう一度総合して、どこからでも探究の針を突き刺すという舞台である。しかもそれは、突き刺した方への反批判としても作用することを、本書は明らかにしている。日本にこのような領野が(いまも)あるのかどうか知らないが、タコツボ型に閉塞している「専門分野」の人たちが殻を脱いで、原初の不思議・好奇心を原点として「教育活動」を開始したら、この地平に一歩でも近づけるのではないか。「教育活動」とは子どものころの世界に対する視線を忘却せず、常にそこに立ち返りながら、我が領野の最先端に研究をとらえなおすことだ。そうすることを、私など素人にも分かるように言葉を尽くすことだと、私は考えている。
 
 いや実に、面白かった。刺激的でもある。昆虫のことなど、すっかり忘れて、哲学してしまった。