mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

生活文化の水準と強権的手法の関係

2016-09-12 09:41:11 | 日記
 
  今日(9/12)は信長が比叡山を焼き討ちした日だと、TVが報じている。報道はそれだけだが、 私はふと、フィリピンのドテル手大統領のことを想いうかべた。
 
 フィリピンのドテルテ大統領の強権手法がアメリカや国連の非難を浴び、切り返す彼のことばの野卑さが「フィリピンのトランプ」とマスメディアで話題になっている。子細は知らないが、フィリピン第三の都市・ダバオの検事・市長として麻薬マフィアとの戦いをすすめて、秩序を確立して実績を上げ、それを背景にする支持の高さで大統領に就任して、目下、フィリピン全土に秩序確立を目指している途上だという。麻薬とかかわりがあるとみなされて人たちを見境なく殺害する強権的手法が「国際的」非難を浴びているのだ。
 
 ドテルテは、言葉は野卑だが、トランプとは大違いだ。トランプは秩序を確立することなんか、ほんの少しも考えていない。信長は、己の考える秩序を確立するために、比叡山の僧房を焼き討ちし、僧侶を皆殺しにせよと命じたのであろう。ドテルテはトランプではなく信長に比せられるべきだ。政治支配を確立するために、反対勢力を強権的に排除するというのは、古来からの政治の常套手段である。そもそもアメリカの大統領は、いまでもそれを実行してきているではないか。イラクを見よ、アフガンを見よ、そしてシリアをみよ。さかのぼれば、ドテルテがあげつらうように、アメリカは世界の各所で無差別の殺りくを行ってきた。それを政治的な目的性で眺めてみると、アメリカの支配を確立し貫徹したいがためであった。信長ともドテルテとも変わらない。
 
 むろんオバマ氏にも言い分はあろう。麻薬に関係しているとみなされるだけで殺害してもよいとは、人権に反する、と。このときアメリカは、支配される側の立場に立って、ドテルテをみているのだ。近代法の支配する世界からみていると(私が)言わないのは、現実にアメリカのやっていることは、表向きの法の支配の世界と埒外の世界とを使い分けて、埒外の世界のことには頬被りをしているからだ。パキスタンに不法に侵入してビンラディンを殺害したのは、どう正当化されるのか。アメリカ的な「正当性」はあろう。だったら、フィリピンのドテルテにも、フィリピン的な正当性を認めてやってはどうだ。
 
 私は、ドテルテのやり方が正しいと言っているわけではない。もちろん、彼のやり方が間違っているともいうつもりもない。そういうことばを吐く立場も根拠も私はもっていない。オバマがドテルテのやり方を非難している一直線ぶりがおこがましいと思っているのだ。オバマが大統領として好ましいと思うのは、支配権力者としての立場と支配されるものの立場とを揺れ動いていることだ。彼がそれを熟知しているかどうかは知らないが、支配されるものの立場に立つことをときどき隠さずに、表向きにしてしまうナイーブさに、私は好感を抱く。広島を訪ねた時の折り鶴にも、それが現れている。たぶんこれは、日本的な感性に彼の実存在の一面が見合っているからじゃないかる。アメリカ人には、不評を買うであろう。ナイーブは馬鹿だと。
 
 秩序を確立する過程とは、究極には(麻薬撲滅の)社会的規範の樹立にある。信長の強権的手法以来400余年を経て、中央権力と民衆の関係も安定してきた。いま日本では銃砲類に対して所持しないことを当然とする規範が確立している。アメリカはそれをしていないから、フィリピンじゃないが、警察官が武器をもたない黒人を射殺することが起こっている。人びとのデモや抗議があって初めて、中央政府も地方政府も警察官を起訴したりしている。ならば、フィリピンの90%を超える支持を得ているドテルテが殺害を正当化するのも、それなりの根拠をもっていると考えてやるべきではないのか。
 
 西欧的(近代政治)手法自体でさえ、右に左に揺れ動き、表と裏とで分裂しはじめている。となると、秩序を維持するために、それぞれの社会の持っている文化・社会の次元を考慮して、統治手法が執られていることに配慮しなければならない。それらが国際基準をもって、人権や法的処理や支配権力に対する規制力を発揮するようになることが好ましいとは思う。そこにこそ、国連の意味もある。日本は、それに対して主導的に口を挟むほどの由来をもっていない(と私は思う)。ついていくのが精一杯の様相だが、それでも、出せるだけの金を出して「国際貢献」していることがいつかは、国際基準を広め、定着させていくのに役立つであろうと考えた方がよい。何しろ日本においてすら、信長以来400年余掛けているのだ。世界の広さを考えれば、ミレニアム単位で考えたっておかしくはない。
 
 でも私にとって、今日は長兄の誕生日。生きていれば79歳になる。こうして国際問題を考えていると、長兄はどう思うだろうと考えていることがある。長兄は私の(成長期の)ランドマークであった。私よりも彼の方が格段に世界経験は豊富であったから、見透しとか知恵が働いたであろうに、2年前になくなってしまった。残念だが、自分で考えるしかない。