mukan's blog

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何を親世代から受け取ってきたのか(3) 戦争責任としての憲法前文

2016-05-24 08:00:18 | 日記
 
 混沌の中で育ったから、私たちの世代は道徳や規範をないがしろにしたかというと、そうではない。私の気分からいうと、逆だったように思う。親世代の伝統的規範は、身体にしっかりと刻まれていた。正直に生きよ、嘘をつくな、迷惑をかけるなという伝統的価値――正直、素直、朴訥、純朴が、いつしかそういうものだと身に染みていた。一つ覚えていることがある。小学1年生くらいの時だったと思うが、当時八百屋をやっていた店先のお釣り入れから、10銭だかをくすねて近所のお店でジュースを買って飲んだりしたことがあった。たまたまそうしていたところを母親に見つかり、父親から厳しく折檻されたことがあった。裏庭にむしろを敷いて、そこに座らされ、激しく叩かれたことを覚えている。いま思うと父親は手心を加えていたように感じられるほど、暴力を振るわれたという印象はない。むしろ父親が私に対して関心を示したという記憶の方が強く残っている。もちろん金銭に関する規範と受け止めはしたが、それだけが身体に刻まれたわけではないと感じる。
 
 当時の混沌、悲惨と貧困、窮迫する社会の様子を見ていたのに、どうして「正直、素直、朴訥、純朴」を良しとする伝統的規範が身に備わったのか。考えてみれば不思議であった。今考えると、目の当たりにしている戦争の悲惨という状況よりも、将来に対する希望が(身に)感じられたのではないか。それと同様に、ものごころついてからの「平和と人権と民主主義」という価値軸に、新しい時代の息吹を感じて好感を持ち、自ら受け容れていったと思う。ところが、進行する現実過程は、それを対象化してみることができるようになってみると、裏腹のものであった。
 
 「平和憲法」に凝縮された戦後民主主義の国際政治にかかわる理念は、もちろん「理念」であるから現実過程そのものではないが、将来的な現実過程をイメージする「理念」として働いてきた。「前文」に記された「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ということばは、(占領軍の押し付けであったかどうかにかかわらず)社会の側に身を置く戦争を体験した庶民の切実な思いを体したものであったと言って、間違いない。もう二度と戦争はしない、と。つまり、それこそが「戦争責任」を体した言葉だと感じさせた。新憲法の前文と九条に、戦争を反省する為政者の(将来に向けての)「決意」(という「責任」)を感じとったと、いまさらながら思うのである。
 
 だが、憲法に記された戦力の不保持や戦争の放棄は、占領軍による日本の非軍事化政策によるものであった。それは、徐々に緊迫する当時の冷戦下では、米軍の軍事的保護下において意味を持つものであった。つまり、日本政府は戦争を反省して「戦力不保持と交戦権の放棄」を遵守しようとしている、しかし占領政策の(戦略)変更をしたアメリカが日本の最軍備を押し付けようとしていた。だから当時の吉田首相は、そのギャップを利用して講和を有利に運ぼうと腐心していたのだが、それをぶち壊したのは昭和天皇であったと、最近になって若い政治学者が記している。
 
 吉田外交の基本姿勢が、「昭和天皇がときに吉田やマッカーサーを飛び越してまで、米軍の日本駐留継続の「希望」を(ダレスに)訴えかけたこと」によってぶち壊しになったと、豊下楢彦の研究をもとに述べている(白井聡『永続敗戦論――戦後日本の革新』太田出版、2013年)。
 
 《豊下が外務省および宮内庁による資料公開の不十分さ、秘密主義に苦慮しながらも十分な説得力を持って推論しているのは、当時の外務省が決して無能であったわけでもなく、安保条約が極端に不平等なものにならないようにするための論理を用意していたにもかかわらず、結果として日米安保交渉における吉田外交が――通説に反して――拙劣なものとならざるを得なかった理由である。それはすなわち、ほかならぬ昭和天皇こそが、共産主義勢力の外からの侵入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を切望し、具体的に行動した(ダレスとの接触など)形跡である。》
 
 こうし講和が成り、「片務条約」と謗られることになる安保条約が締結され、米軍の駐留は継続されることになった。これはひとえにアメリカの(戦略的)都合であったが、「主権」は日本国にあることを建前とする近代国民国家の政府としては、自らが選んだ道として政策提起せざるを得なかった。それが、二枚舌である。こんなに平然と嘘をつくことを「建前と本音」と受け止めることによって、ますます私たちは、政府や政治を信用しなくなった。
 
 政府は、「自衛隊であって軍隊ではない」と二枚舌を遣い続けた。それは、自分を偽ることであった。だが庶民である大人たちの受け取り方は、昔同様(お上である)政府ってそういうものよとみていた。「国民主権」とは言え、選挙の時だけの「国民」であり、社会における人民にはおよばぬ世界と思いながらも、それでも昔よりは良くなっていると前向きに感じていたように思う。それを今になって、アメリカに防衛してもらって、経済だけに力を注いだエコノミック・アニマルと呼ばわれては、「こ~んな日本に、誰がし~た~」とふてくされて見たくもなる。
 
 今日(5/24)の朝日新聞に、「砂川判決の呪縛」と題する論説記事がある。日米安保条約を違憲とする一審判決を跳躍上告によって最高裁で破棄したとき、事前に最高裁長官がアメリカ大使などと面談して判決内容を漏らしていたとわかったことをめぐって、砂川裁判のやり直しを求めた原告側の訴えをどう評価するか、やりとりをしている。砂川判決の一審判決は、いわば当時の国民の「戦争責任」を表明するものであった。それを戦後民主主義の根幹指針として受け取るなら、私たちはいまでも、「戦力不保持と交戦権の放棄」を自衛隊の解体を通じて実施しなくてはならない。つまり、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのが、「新憲法」の基本理念から再出発する。それが庶民の感じていた「戦争責任」であった。
 
 いま、海の向こうのアメリカでは、トランプさんという大統領予備選候補が「アメリカは日本を守らない。日本は核武装でも何でもして、自分のことは自分で守れ」という趣旨のことをわめいているという。これは、現実をどう踏まえているかは別として、日本にとっては独立不羈の出発点に立てという天啓である。だがこれは、理念ではなく現実を見よという「状況論的」転換ではない。「現実」には、大東亜戦争の戦争責任を、構造的国家体制として総括すると同時に、将来を見通した「決意」を込めてみてとることが含まれる。そういう大局的視点がなかったことが、大東亜戦争へ状況に追われるようにして突入していった根っこにあるからである。ただ単に「守る」というのだけでは、大東亜戦争の戦前と何ら変わらない。戦後の出発点を想い起し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ことから出発しているところを見つめなければならない。その「戦争の反省」を踏まえてこそ、敗戦によって重しが取れたように感じた「独立不羈」への道が「国民国家のナショナルな決意」として、再編成できようというものである。

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