mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

言葉が神

2024-05-14 06:00:32 | 日記
 妙な夢を見た。わが胸の内にどんどん降り積もる木の葉。
 あるところで、あっ、これは言の葉だと気づく。
 長年にわたって降り積もってきたものが厚みを持ち、すでに下層は分解され、土になっている。
 いつしかそこに蟲が棲み着き、ごそごそと蠢いている。
 上の方に降り積もる言の葉を掻き分けて、虫が一匹ぶ~んと飛び立つ。
 また一匹、ぶ~ん。
 蟲が虫になっているのも、何か自然に思えている。
 土をもじもじといじくって、こそばゆい。えっ、ワタシは土?
 何かが根を降ろし、横へと張り出す。ああ、これ、草かな、木かな。
 息詰まる感触はない。温もりが懐かしい。ああ、ワタシは木の根っこか。
 ポッと地面に顔を出したところで、意識が芽生え、目が覚めた。
   *
 半醒半睡の夢なのだろう。それにしても、言の葉が降り積もるというのは、ちょっとした天の啓示かな。
 そういえば旧約聖書に「始めに言葉ありき」ってあったっけ。あれは、言葉が神ってことかな。その後に紡ぎ出される言葉は神が物語る天地創世の神話。そうだ、大元は肥沃な三日月地帯に生まれたギルガメシュの神話といったっけか。
 神は姿をみせない。神は良きも悪しきも、ともどもにみそなわす。ともどもにあらわれる。軽々と口の端に上る。同時に絶大なちからもみせる。
 ときとところによってかたちを変える。あれは、言の葉が用いられる「かんけい」によって、意味するところが如何様にも変わる。「場」が決め手。
 そうか、神の名を口にするなとは、他人(ひと)の所為にするなということか。
 子どもの頃から、わが身の裡に降り積もる言の葉が、朽ちるとは分解すること。土になったそれは、わが身そのもの。上の方に降り積もるそれは、外から被さったいまだわが身の表面に付いているだけの上着。身に馴染んでいない。
 蟲は獅子心中に蠢くイメージか。虫はそれが言の葉を掻き分けて飛び出すワタシの感触。ほぼ無意識。勝手に上着を掻き分けて飛び立つ。
 ワタシは土? ワタシは根っこ?
 ワタシは生えている。何もないところから、顔を出す。こそばゆい感触は、何処の何がそう感じたのだろう。今はまた、違った感触。感触はとどまらない。
 そうだ、これが、コギトだ。我思う故に我あり。我は言の葉。
 えっ、誰のことのは? ワタシの言の葉。地面に根を張ったワタシの言の葉。地面は字面。言の葉は「場」に現れる。その意味するところは「かんけい」に消える。
 空だ。ワタシは空だ。
 なんだか、何もないという清々しい正解に出喰わしたって感じ。
 言葉が神。
 何だ、ワタシにも信仰心があるじゃないか。

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