今年は、かの高田屋嘉兵衛が、淡路島から函館にやってきて220年という節目の年だそうで、今日の夕刊によると、それを記念しての講演会や、ゆかりの地の巡り歩きといったイベントが予定されているとのこと。
そんなわけでというわけではないけれど、私も先日、市内にある嘉兵衛関連の場所を幾つか回ってきた。
まずは、
護国神社坂の下に立つ、嘉兵衛の銅像。
1958年(昭和33年)、箱館開港100年を記念して、昭和33年に函館出身の彫刻家・梁川剛一氏によって制作された。
今まで気にしたことはなかったのだけど、この銅像の高さは、銅像本体が3.6mで、台座が7.5m、計11.1mなんだとか。
何でわざわざ高さを書いたかというと、これで11mだって言うんだから、ウルトラマンの身長40mってのが、いかに高いかということを思い知らされたから(笑)。
すみませんくだらないことで。でも、このことを知った瞬間、咄嗟にそんな(呑気な)ことを思いついたというのが事実なのです。
銅像の近くのグリーンベルト。
何か書いてますよ。
ここは、嘉兵衛ではなく、弟の金兵衛の邸宅の跡地。
解説文にある1810年当時、高田屋の経営は弟に譲ったものの、嘉兵衛の歴史に残る活躍は、実はこの後の出来事になります。
この場所は、嘉兵衛ゆかりの地とはちょっと違うのだけど、嘉兵衛の活躍を語る上では外せない場所。
日本史を学習された方であれば、「ゴローウニン事件」という事件を聞いたことがあるかと思います。
1811年6月4日、北方領土の国後島で、千島近海を測量中であったロシアの艦船ディアナ号の艦長であったゴローウニン少佐が幕府の役人に捕縛され、根室を経て、箱館~松前と移送されて拘禁されるという事件ですが、写真のこの場所は、そのゴローウニンが拘禁されていた牢獄のあった場所。
この事件は、これ以前の1804年、ロシアの使節レザノフが通商を要求して長崎に来航するも、これを拒絶されたことから、配下の軍人に、樺太、択捉などを襲撃させるという出来事があった中での、日露両国の緊張下で発生した事件とされている。
この翌年の1812年、択捉から箱舘に向かっていた嘉兵衛の乗っていた観世丸という船が、そのディアナ号によってロシア側に拿捕されてカムチャツカへ連行され、ディアナ号の副艦長であったリコルドと起居を共にすることとなったが、嘉兵衛の率直さと正直な態度に魅かれたリコルドは、翌1813年5月に、国後で幕府との交渉に望むこととなった。
その際、ロシア長官の公式謝罪文書があればゴローウニンが釈放されるとの感触を得たリコルドは一旦帰国し、謝罪文を持って再度来日し、箱館で嘉兵衛と再会。この時嘉兵衛は、時の松前奉行の名代として交渉に当たり、交渉の結果、ゴローウニンは釈放され、事件はようやく解決を見た。
上で紹介した嘉兵衛の銅像は、その交渉に臨んだ時の姿をイメージして作られたとされています。
場所は少し離れて、ここは、豪商「高田屋」の本店のあった場所。
1796年に箱館にやって来た高田屋嘉兵衛は、1798年にこの地に支店を設け、弟の金兵衛に支配を託した。
やがて嘉兵衛が淡路島に戻った後も、嘉兵衛の志を継いだ金兵衛は、1824年に箱館支店を本店に昇格させている。
嘉兵衛と高田屋一族ゆかりの場所は他にもあるのだけど、箱館の歴史を語る上では外せない人物なので、もっと調べて、色々回ってみたいと思います。