北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
(C)ナナマガラー All Rights Reserved.

五稜郭跡~2~

2024-08-04 16:11:19 | 函館

 

昨日もそうでしたが、この写真を撮った日も、なかなかのカンカン照りでした。

この日はまだそれほど気温は高くなっていませんでしたが(25℃くらいだったかと)、蒸し暑さは今よりもちょっと弱いかなぐらいのレベルまで上昇していたので、体調に気を遣いながら先を目指しました。

 

 

お堀を跨ぐ「二の橋」を渡って、先へと向かいます。

 

 

 

そこには、「箱館奉行所」の看板が。

先日の「五稜郭跡~1~」で書いたとおり、1864年、現在の「元町公園」から、この地に奉行所が移ってきました。

幕末の話なので、まだ「函館」ではなく「箱館」の表記になっています。

五稜郭をガイドするときには、ここで「箱館」が「函館」に変わった経緯を話すことになろうかと思います。

 

(「箱館」が「函館」に変わった経緯)

 

「箱館」から「函館」へ - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

今日は、頂いたコメントへのアンサー記事を書きたいと思います。(頂いたコメント)「函館は『箱館』と書く時もありますね。箱の字は昔使っていたのでしょうか?」現在の「...

goo blog

 

 

 

 

五稜郭を構成している土塁や石垣について、この解説板に「安山岩」という言葉が見られますが、これは、現在の函館山が、かつては活火山だったことに由来しています。

 

 

ガイド用に使っている「ブラタモリ」書籍版からの抜粋。

函館山が海底火山の噴火によって誕生したという歴史は、皆さん興味深く感じていただけているようです。

タモリさんなら、石垣を一目見ただけで、解説板に書かれている経緯を言い当ててしまうんだろうなと思います。

 

 

このトンネルは藤棚です。

 

 

二年ぶりのご紹介 - 北の風に吹かれて~独り漫遊記~

明日からしばらく曇天模様になるのと、今日は仕事で、ちょいとばかし気が晴れないというか、どうにも合点の行かないこと(少し踏み込んで言うと、自分が不当に責められてい...

goo blog

 

 

 

通り抜けるとそこにはまた大きな石垣が。

これは、この先にある奉行所の目隠してきな役割となっている「見隠し塁」と呼ばれるもので、正門を突破してやって来た敵を、左右どちらに進んだらよいものかと混乱させる狙いもあったとされています。

 

 

実際は、左右どちらからでも奉行所には辿り着けるのですが、観光の定番コースは向かって左側の方です。

その先には何が・・・?

 

 

このような碑があります。

何度か、その時々のテーマに絡めて紹介してきたことがありますが、「武田斐三郎(たけだあやさぶろう)」という人物の功績を称える碑です。

幕末期の箱館において大きな足跡を残している人物ですが、五稜郭においては、フランスから入手した資料をもとに、五稜郭を設計した人物として知られています。

 

1855年6月、フランス軍艦の艦内で多くの病人が発生し、箱館へ入港して療養の許可を求めました。

当時、フランスとの間ではまだ条約が結ばれていませんでしたが、当時の箱館奉行は、人命最優先ということで上陸を許可し、多くの乗組員たちの命が救われました。

その後、この件に恩義を感じたフランス側からの返礼として提供された資料をもとに、五稜郭が設計されることとなったと言われています。

 

 

顕彰碑の顔の部分が、首から下と違って、テカテカと照り輝いています。

これは、この武田斐三郎が「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれるほど、幅広い分野、学問に精通していた人物であったことから、それにあやかって、この碑の頭を撫でると頭が良くなるという、言い伝えというか都市伝説というかという話が広まり、ここを訪れる観光客が、かなりの高確率で、頭(だけでなく顔も)を撫でていくことから、このように照り輝いているものと言われています。

武田斐三郎の箱館における足跡については、これに絞って別な記事を書きたいと思います。

 

 

2010年に復元された「箱館奉行所」。

大政奉還により、江戸幕府から明治新政府に引き継がれましたが、箱館戦争において、榎本武揚を筆頭とする旧幕府軍に占拠され、箱館戦争終結後の1871年に解体されてしまいました。

再建に当たっては、建築当時の写真や図面をもとに建物の寸法が正確に測定され、当時の3分の1という大きさではありながらも、当時の様子がしっかりと再現されています。

 

 

 

 

この一番高い部分は、太鼓を叩いて時を知らせる「太鼓櫓」と呼ばれる部分。

当時は、高い建物はもとよりこの高さに匹敵する高い山などもなかったことから、箱館戦争当時は、ここから、箱館港に入港する明治新政府の軍艦を見渡すことができました。

しかし、このことが落とし穴となって、旧幕府軍の敗退に繋がったとされています。

どういうことかというと、ここから港が見渡せるということは、逆にいうと、港からも、この櫓を見渡すことができたことを意味しています。

先日の「五稜郭跡~1~」で、奉行所から元町から五稜郭へ移転を余儀なくされた理由のうち、「『(ペリー一行が乗っていた黒船からの)大砲が届かない』については、別な記事で関連エピソードを記しますので、覚えておいていただけるとありがたいです」と書きました。

確かに、ペリーが来港した1855年当時は、港から約3.5km離れていた五稜郭まで、大砲が届く心配はなかったのかもしれませんが、その後の大砲技術の進化により、箱館戦争においては、明治新政府の軍艦から放たれた対応が、奉行所に命中してしまったのです。

このことが旧幕府軍の戦意を喪失させ、最終的に敗北を認めて、新政府に降伏するきっかけになったとされています。

 

 

 

建物が再現されていないこの場所も、かつての奉行所全体の跡地です。

 

 

 

1871年に奉行所が解体された後は、1914年に「五稜郭跡」が公園として開放され、現在は、多くの観光客がやって来る函館を代表する観光スポットとなっています。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 30℃近くまで上がった | トップ | ドックとナンバー変更と・・・ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。