<和歌山電鉄>「たま駅長」死ぬ(毎日新聞)
このニュースに関して気になったことが一つある。
今朝の民放某局の朝ワイドでこのニュースが取り上げられた際、この記事のタイトルにもあるように「死ぬ」「死にました」という言い方がされたのだが、何故、人の場合は(例えばこちらのニュースのように)「亡くなる」とか「死去」、あるいは「逝去」という表現を使うのに、このニュースではそうじゃないのだろうと。
あくまでも、あくまでも個人的に思っていることなのだけど、私は人様と接する仕事をしていて、時には亡くなられた方に関することでご遺族とお話しする機会もあるのだが、その際には、「死ぬ」というダイレクトな表現は絶対に使うまいということを自分に課している。
それだけに、公のニュースで、人と動物とでかくも表現が異なっているのに接すると、人と動物でも、命の重さに差などあるはずがないのに、何だか、動物の方が軽んじられているように思えてならない。
多分だけど、メディアにはこの点に関して、何らかの基準があるのだろうと思う。それはそれで理解はする。
だけど、だけど・・・なんだよね、どうしても違和感を拭うことができない。
真相はどうあれ、私が「死ぬ」というダイレクトな表現は決して使わないということを今後も自分に課すことに変わりはないけどね。
このニュースに関して気になったことが一つある。
今朝の民放某局の朝ワイドでこのニュースが取り上げられた際、この記事のタイトルにもあるように「死ぬ」「死にました」という言い方がされたのだが、何故、人の場合は(例えばこちらのニュースのように)「亡くなる」とか「死去」、あるいは「逝去」という表現を使うのに、このニュースではそうじゃないのだろうと。
あくまでも、あくまでも個人的に思っていることなのだけど、私は人様と接する仕事をしていて、時には亡くなられた方に関することでご遺族とお話しする機会もあるのだが、その際には、「死ぬ」というダイレクトな表現は絶対に使うまいということを自分に課している。
それだけに、公のニュースで、人と動物とでかくも表現が異なっているのに接すると、人と動物でも、命の重さに差などあるはずがないのに、何だか、動物の方が軽んじられているように思えてならない。
多分だけど、メディアにはこの点に関して、何らかの基準があるのだろうと思う。それはそれで理解はする。
だけど、だけど・・・なんだよね、どうしても違和感を拭うことができない。
真相はどうあれ、私が「死ぬ」というダイレクトな表現は決して使わないということを今後も自分に課すことに変わりはないけどね。