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北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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花畔神社~2~

2022-07-18 16:14:51 | 石狩・空知地方

 

「花畔(ばんなぐろ)神社」の続き。

数多い記念碑を見た後は、境内をゆっくりと。

 

 

神社ではおなじみの狛犬。

 

 

 

おや、一対ではないようです。

 

 

 

 

 

 

なんとなんと、参道内に四対(八体)もの狛犬がいました。

古代インドの密教で用いられる「梵字」(「阿吽」の「阿」で始まり、「吽」で終わる)の解釈に関係あるのではという説が色々とあるようです。

 

 

本殿はさほど大きくはないですが、住宅街にあるので、お正月の初詣や、各種祈願にはかなりの参拝客が訪れているようです。

 

 

 

明治4年(1871年)とあったので、昨日も触れた、現在の岩手県からの最初の入植に関する、また別な碑なのかと一瞬思ったけど、昭和4年(1929年)に設立された「花畔土巧組合」によるかんがい事業の歴史が刻まれています。

「土巧組合」とは、現在でいう「土地改良区」の前身となる組織で、花畔村では、砂地を水田にして食料増産に貢献し、戦後になって「土地改良区」に組織変更し、昭和46年(1971年)の石狩湾新港整備に関連して、事業に終止符が打たれたとのことです。

 

 

 

こちらは、札幌市内でもよく登場する、開拓判官「岩村通俊」の名前が刻まれています。

「花畔村」の命名者だったんですね。

道内の他の地方でも同じようなことがありましたが、砂地、湿地で一面原野状の土地を農地として開墾し、今日に至る繁栄の礎としたことの功績を称えるものとなっています。

 

 

 

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花畔神社~1~

2022-07-17 16:17:43 | 石狩・空知地方

 

 

札幌を離れて、隣の石狩市へ行ってきました。

平成8年(1996年)9月に、石狩郡石狩町から市に昇格し、平成17年(2005年)には、北側にある「厚田村」と「浜益村」を編入して、現在に至っています。

 

その石狩市は難読地名が多いことで知られているのだけど、まず紹介するこちらの神社。

「花畔」と書いて何と読むでしょう?

素直な音読みで「かはん」ではありません。

 

正解はこちらを御覧ください。

読めませんよね、普通には。

 

 

地名の由来は、アイヌ語で「川下の人の漁場」を意味する「パナ・ウン・クル・ヤソッケ」 に由来するとか、単に「川下の人」を意味する「パナ・ウン・クル」に由来するとかの説があるようですが、「ヤソッケ」があるかないかの違いで、「パナ・ウン・クル」は間違いないということなんでしょうね。

「パナ・ウン・クル」がいう「川下」というのは、石狩川において、旭川市の神居古潭よりも下流という、相当な長い区間のことを指すようで、アイヌの人々の間では、旭川に近い深川、滝川あたりの人々を「パニウングル」と呼んでいたことがあるようです。

それがなぜ、遠く離れた石狩市の地名の由来になっているのか、興味深いところです。

因みに、「ヤソッケ」に関しては、ここよりずっと北の、旧厚田村の管内に「安瀬」と書いて「やそすけ」という地名があります。

 

 

御祭神は五柱と多く、水難除け、海上・交通安全、病気平癒、地域・家内安全などの御利益があるそうです。

 

 

五柱のうち、最初は「金刀比羅之大神」を祀ったのが最初なんですね。

元々は岩手県からの入植でしたか。

 

 

 

境内には沢山の記念碑があります。

 

 

最初の入植とは別に、石川県からやってきた人たちによる開拓の歴史もあるそうです。

 

 

 

 

現在の石狩市は、「石狩湾新港」の発展に伴う海運の町というイメージが強いようですが、水田により発展してきた歴史があるということは知りませんでした。

 

 

 

 

最初の入植に関する碑のようですが、「盛岡県岩手郡」って、逆(「岩手県盛岡郡」)じゃないのって思うかもしれないけど、そこは明治期の話。

現在の北海道にも、開拓使廃止直後の「三県一局時代」には、「札幌県」「函館県」「根室県」という三つの県が存在していたことがありました(明治15年(1882年)2月8日から、同19年(1886年)1月29日まで)

碑に書かれている「盛岡県下陸中国」とは、現在でいえば、岩手県北部の、「雫石町」、「葛巻町」、「岩手町」の辺りだそうです。

 

 

 

また石川県人による開拓の歴史が出てきましたよ。

最初の岩手県からの入植は、召募された人たちによるものだったそうだけど、石川県からも、北海道への開拓移住を考えている人たちを募集した結果、「加賀団体」という団体が入植してきたそうです。

かつて「花畔村」と呼ばれていた地域には、他にも、山口県や宮城県など、多くの地方からの開拓移民が来ていたそうです。

 

 

 

戦争や平和に関する記念碑もあります。

祀られている戦没者の戦没場所は、アリューシャン列島、樺太、中国、ガタルカナル、ニューギニア、テニアン(北マリアナ諸島)、フイリピン、ビルマ(現ミャンマー)、硫黄島、沖縄、シベリア収容所と広範囲に及んでいるそうです。

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当別神社~2~

2022-06-01 20:08:57 | 石狩・空知地方

 

昨日の続き。

神社の境内というのは、とかく記念碑や像などが多かったりするものだけど、当別神社は、一つ一つ追い続けてもキリがないのではと思うくらい沢山ありました。

 

 

「忠魂碑」。

大正時代に、「第七師団」の師団長を務めていた、内野辰次郎という人物の揮毫によるものだそうなので、日露戦争に関するものなのでしょうか。

 

 

その隣にある「生以天心誠碑」。

戦没者の氏名が刻まれています。

 

 

 

 

日露戦役(日露戦争)の凱旋紀念碑もあります。

「記念碑」ではなく「紀年碑」で、その意味はこちらを御覧いただくとして、当別町と日露戦争って、何か特別なことでもあったのかなと思いましたが、そういうことではないようで、開拓のために入植しながらも、戦争という時勢に振り回された人々を偲ぶという趣旨のようです。

 

 

 

これは、伊達邦直が北海道に入植するに当たり、開拓主事に任ぜられた「吾妻謙(あずまけん)」という人物の功績を称える碑。

先日の「伊達記念館・伊達邸別館」の記事で、「伊達邦直は、滅封によって家臣たちが路頭に迷うことを憂いて北海道開拓に志願し、石狩国空知郡、現在の奈井江町辺りの支配を命ぜられますが、そこは内陸で物資の輸送が困難であったことから、開拓使との協議により、日本海に面した、現在の石狩市聚富(しっぷ)と呼ばれる地域の荷揚場を使用することが認められました」と書きましたが、石狩市聚富の荷揚場を使用することが認められるに当たっては、家老であった、この吾妻謙が太政官に申し入れを行ったところ、不行き届きを理由に自宅謹慎を命ぜられたというエピソードがあったそうです。

 

 

 

 

 

これは、「近藤辰雄」という、元当別町長の像。

初代町長で、名誉町民にも認定されている人物だそうです。

 

 

 

所謂「境内社」として、こんな小さな神社がありました。

「聖徳神社」。言うに及ばず聖徳太子が御祭神で、元は町内の別の場所で当別大工組合がお祀りしていたのを、大正末期に境内に移設したものだそうです。

そういえば、釧路にも、同じように、大工さんや左官屋さんなどの職人さんが、聖徳太子を「技能の神」として祀っていた場所がありました(こちら)。

小さいながらも御朱印もあるそうです。

こういう小さな神社の御利益を求めて参拝の旅をする人も多いのかな。

 

 

当別神社。開拓の歴史に関する碑や像の数々を見て歩く、「歴史散歩」を楽しめる場所だと思いました。

 

 

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当別神社~1~

2022-05-31 19:40:34 | 石狩・空知地方

 

 

昨日紹介した「阿蘇公園」に隣接する「当別神社」。

「當別」と表記していますが、「當」は「当」の旧字体です。

他にも「鐺」という字もあるそうで、道東の弟子屈町には「鐺別」という表記の地名があります。

 

 

ここまで触れていませんでしたが、「当別」という地名は、アイヌ語の「ト・ペッ」に由来する「沼から来る川」を意味しており、「沼」とは、現在の町内の水田地帯がかつては沼だったことを指し、「川」とは、町内を流れる「当別川」を指しているとのことです。

昨日の記事でも書きましたが、明治5年(1872年)、伊達邦直は家臣と共に厚田村(現石狩市厚田区)聚富から当別に移り、開拓記念樹の傍らに小社を奉遷し、町の北にある溶岩円頂丘の「阿蘇岩山」(アイヌ語で「柴の多い山」を意味する「アソ・イワ」が由来)から「阿蘇山神社」と名付けました。

現在の「当別神社」には、昭和42年(1967年)に改称されています。

 

 

 

札幌軟石で作られているという狛犬。

抱えているのは鞠だそうで、広島県に多く見られる「尾道式」と呼ばれるタイプだそうです。

現在の広島県とは特にゆかりはないようですが、それもまた興味深いところです。

 

 

 

当別神社の御祭神は、奉遷者である「伊達邦直之命」で、優れた教育者であったことや歌人としても才があったことなどから、学問、文芸に御利益があるとされています。

 

 

 

 

最近、多くの神社で見られるようになった「花手水」。

どういう基準で花を選んでいるのかも気になるところですね。

 

 

平成8年(1996年)、創始100周年を記念する碑があります。

 

 

 

 

他にも幾つかの碑があります。

この「当別町開拓紀功碑」は、大正9年(1920年)の設置で、入植当初から大正期までの開拓の様子を記し、伊達邦直を称える文章が刻まれています。

 

 

 

 

似たような名前の「当別町開拓先駆者碑」。

そのとおり、開拓に当たった人々の氏名と功績が刻まれています。

 

 

 

境内にある「ハルニレ」の木。

はっきりとは書かれていませんが、御神木という位置づけでもあるのかもしれません。

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阿蘇公園

2022-05-30 19:55:32 | 石狩・空知地方

 

当別町の中心部、昨日紹介した「伊達記念館」「伊達邸別館」から目と鼻の先にある「阿蘇公園」という公園。

 

 

明治5年(1872年)、当別に入植した伊達邦直主従が神社を奉還し、町の北にある溶岩円頂丘の「阿蘇岩山」(アイヌ語で「柴の多い山」を意味する「アソ・イワ」が由来)から「阿蘇山神社」と名付け、それがそのまま公園の名前にもなったとのことです。

 

 

「阿蘇岩山」って初めて聞いたけど、正しくは当別町じゃなく石狩市なんですね。

それが何ゆえ当別町にゆかりの名前として残っているのか、それもまた興味深いところですね。

 

 

 

使われているのでしょうかね・・・。

中曽根総理といえば、私が小学生から中学生にかけての頃です。

 

 

 

 

ここは桜の名所でもあるようで、このとき(5月5日)は、御覧のとおり、満開ではないにしても綺麗に咲いていました。

 

 

 

公園内には、他にも幾つか記念碑がありました。

 

 

「坂坦道」という、石川県出身で、9歳で北海道に移住し、「札幌市民芸術賞」の受賞歴もある彫刻家の作品だそうです。

 

 

 

 

 

 

無名、つまり名が残されていない開拓者を顕彰する像だそうです。

 

 

 

同じような趣旨の碑は道内でも幾つかあるそうだけど、今日の発展の陰には、歴史に名を残している人だけじゃなく、こうした名も残らない人の功績もあるということは、忘れてはいけないのでしょうね。

 

 

 

 

推定樹齢350年という歴史の記念樹。

少しばかり傷んでいるようにも見えるけど、これからも大切にされていってほしいですね。

 

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