自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★震災とマスメディア-2-

2011年03月21日 | ⇒メディア時評
 私は大学を卒業してから満50歳になるまで、新聞記者とテレビ局報道のセクションに携わった。津波も経験した。日本海中部地震。1983年(昭和58年)5月26日11時59分に秋田県能代市沖の日本海側で発生した地震で、10㍍を超える津波で国内での死者は104人に上ったが、そのうち100人が津波による犠牲者だった。

      報道目線と被災者目線のギャップをどう埋めたらよいのか

 そのころ、能登半島の輪島市で記者活動をしていた。デスクから電話があり、輪島漁港に行ってみると、足元まで波が来て、危うく逃げ遅れるところだった。1枚だけ撮った、渦に飲み込まれる寸前の漁船の写真は翌日の一面を飾った。2004年にテレビ局を退職し、大学の地域連携コーディネーターという仕事をしている。2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)、翌日26日に被害がもっとも大きかった輪島市門前町に現地入りした。そこで見たある光景がきっかけで、「震災とメディア」をテーマに調査研究を実施することになる。

 震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。前回のコラムで述べた現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者の姿があった。この惨事は全国中継されるが、被災地の人たちは視聴できないのではないか。心象的だったのは、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンのグループがそこにあった=写真=。「でかいのがこないかな」という言葉が聞こえてきた。「でかいの」とは余震のこと。余震で、家が倒壊する瞬間を狙っているのである。周囲では余震におののいて子どもが泣き叫ぶ声も聞こえる。カメラマンのこの身構える姿は被災者の人たちにどう映っただろうか。

 私が前職(テレビ局報道担当)だったら、違和感を感じなかっただろう。むしろ、「倒壊の瞬間を撮ったら、すぐネット上げ(全国放送)だ」とカメラマンや記者に発破をかけていただろう。もともと26日現地を訪れたのは学生ボランティアの派遣が可能かどうかの見極めだったので、被災者の目線だった。報道目線と被災者目線はこれだけ違うのである。もちろん、被災者目線を大切にしたいというカメラマンもいた。共同通信の腕章をしたカメラマンは、半壊となり、割れたガラスが散乱している被災者宅でも、決して靴で上がろうとはしなかった。靴を脱いで、被災者に許可を得て、家屋に上がった。ちょっとした被災者への気遣いで十分なのだ。

 そのようなことを「震災とメディア」の調査報告にまとめた。報告書では以下のような提案もした。「(今回のメディアのありようは)阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた光景だろうと想像する。最後に、『被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で、現場で汗を流したらいい』と若い記者やカメラマンに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである」(「金沢大学能登半島地震学術調査部会平成19年度報告書」より)

⇒21日(祝)朝・金沢の天気  くもり
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