「ジェット戦闘機」という言葉が脳裏に焼き付いたのはこの事故だった。1969年2月8日午前11時59分、金沢市泉2丁目の住宅街に航空自衛隊小松基地の「F104J」戦闘機が墜落し、死者4人、負傷者22人、全焼17戸という大惨事だった=写真・上は1969年2月8日付・北國新聞夕刊=。墜落の原因は落雷で、パイロットは脱出し、無人の戦闘機が市街地を直撃した。翌年入学した高校が墜落現場から1.5㌔離れたところにあったことから、何回か現場を見に行ったことを覚えている。当時は「70年安保粉砕」「自衛隊違憲」が盛り上がっていたころで、社会が騒々しく動いていた。
53年前の墜落事故を思い起こさせる事故がきのう31日に起きた。NHKニュースWeb版(1日付)によると、午後5時30分ごろ、小松基地のF15戦闘機1機が訓練のために離陸したあと、基地から西北西におよそ5㌔離れた日本海上空でレーダーから機影が消えた=写真・下=。この戦闘機は「飛行教導群」と呼ばれる部隊の2人乗りの機体で、パイロット2人が搭乗していた。防衛省や海上保安庁が捜索した結果、消息を絶った周辺の海上でこの戦闘機の外板や救命装備品のそれぞれ一部が見つかった。パイロットはまだ見つかっていない。
記事を読んで考え込んだのは、自衛隊の説明によると、「飛行教導群」は戦闘機部隊を教育する任務に当たっていて、高い技術が求められる航空自衛隊の戦闘機パイロットの中でも精鋭が集められている、ということだ。パイロットの中でもベテラン中のベテランだ。戦闘機から異常を知らせる無線連絡やパイロットが脱出する際に発せられる救難信号は感知されていない。一瞬の出来事だった。事故は単なる操縦ミスなどはなく、予期せぬ落雷か、あるいはそれに相当する何かの異変が起きたのか。
同基地のF15戦闘機は領空侵犯をする可能性がある飛行物体に対してスクランブルをかける任務に当たっている。
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