日本史の教科書で江戸幕府が揺らぐきっかけとなった事件として紹介されているのが「桜田門外の変」(1860)だ。幕府の大老、井伊直弼(いい・なおすけ)が水戸や薩摩の脱藩浪士の襲撃に遭い、暗殺された。その背景として、アメリカ総領事ハリスとの間で日米修好通商条約を勅許を得ずに調印、これに反発した尊王攘夷派の公卿や大名らを弾圧する安政の大獄を断行したことが反感を買ったとされる。強権ぶりが際立つ井伊直弼だが、一方で茶人という素顔もある。今月25日から彦根城博物館(滋賀県彦根市)でテ-マ展『井伊家の茶の湯』が開催されると知ってさっそく赴いた。
現代でもよく使う「一期一会(いちごいちえ)」という言葉を最初に世に広めたのは井伊直弼だ。茶道では、一生に一度の出会いであると心得て、亭主(ホスト)と客(ゲスト)が互いに誠意を尽くすという意味で使われる。直弼は自らの茶の湯の集大成として記した著書『茶道一会集』の冒頭の3行目で「一期一会」を記している。「そもそも茶湯の交会(こうかい)は一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会をするとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我、一世一度の会(え)なり。」。現代語で言えば、これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい、と。
驚くのは、 茶道好きが高じて、武家茶道の石州流の中に一派を確立するまでになっていた。先の『茶道一会集』には心得、そして炭点前を解説した『炭の書』では炭の種類や組み方などが図と文章で記され、墨書に朱書を加えて分かりやすく解説している。つまり、弟子たちに丁寧な解説本を作成しているのだ。これだけではない。自作で楽焼の蓋置(ふたおき)をつくっている。カニやサザエなどモチーフに実に楽しそうに焼き物に取り組んだ様子がうかがえる=写真=。これを見ただけで、直弼の人柄が浮かんでくる。
一期一会は刹那主義ではない。人との出会いを人生の好機として喜ぼうという前向きな精神性でもある。幕府の大老となって、鎖国か開国で国論が二分する中、直弼は幕府主導による開国こそが日本に好機をもたらすと前向きに考えたのだろう。アメリカと日本の国家間の一期一会であると信じ、日米修好通商条約(1858)にこぎつけたのではないか。享年46歳。
会場には、直弼ゆかりのものだけでなく、井伊家伝来の徳川家康から拝領したと伝わる「大名物 宮王肩衝茶入」や、フィリピンのルソン島でつくられたと考えられる「呂宋壺(るそんつぼ)」など名品30点が展示されている。
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