自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆「マスメディアと現代を読み解く」の講義から-4-

2019年07月18日 | ⇒メディア時評

        そもそもマスメディアって何だと学生たちに問いかける。「情報やニュースを人々に伝達する媒体(メディア=media)である新聞・雑誌、ラジオを集合的に示す言葉。1923年初見の広告の業界用語」(オックスフォード英語辞典)。1922年にアメリカでラジオ放送が始まった。マスメディアの報道としての役割が加速したのは1915年、第一次世界大戦中に起きたドイツによるイギリス客船の撃沈事件でアメリカ国民が多数犠牲になり、ニュース・報道への関心が急速に高まった。その後、ニュース・情報を掲載した広告媒体というビジネスモデルがアメリカで確立されることになる。

    ~震災から戦争、そして東京オリンピック、日本の現代史を刻む~

   では、日本でのマスメディアの成り立ちはどうか。原点の一つは「災害情報」にある。江戸時代に普及した瓦版は約4割が安政大地震を伝えたものと言われる。1923年、マグニチュード7.9、日本の災害史上最大級とされた関東大震災を契機に災害報道の速報性がニーズとして高まり、2年後の1925年にラジオが開局する。1953年にテレビ放送が開始され、自然災害を速報性と映像で伝えるテレビの役割へと展開する。現代は、SNS・ソーシャルメディアの普及で、被災地から人々がその状況を直接発信するようになり、災害情報は垂直から水平へと展開するようにもなってきた。

   明治時代は新聞ジャーナリズムの黎明期だった。1869年(明治2年)の新聞印行条例で、発行許可制と事後検閲制のもとで新聞発行を認めることでスタートした。毎日新聞は1872年(明治5年)に創刊、以下、読売新聞、朝日新聞と続く。当時は世の中の事件や社会の大衆ネタを扱う「小新聞」と、政治・政党色の強い「大新聞」に色分けされていたが、毎日や読売、朝日のスタートは小新聞だった。

   そんな中で、福沢諭吉が1882年(明治15年)に創刊した時事新報は、不羈(ふき)独立の精神を掲げたマスメディアだった。独立自尊という言葉の意味にも直結するが、自らの新聞社の経営をしっかりしたものにし、政府権力に依存せず、また市民におもねないことを目指していた。ただ、新聞印行条例により、福沢が論じた「藩閥寡人政府論」や「西洋人の日本疎外論」は発行停止処分を受けた。また、福沢の進歩的な論評はときに読者にも誤解され、「ホラを福沢 ウソを諭吉」などと揶揄された。1936年(昭和11年)、大阪進出が失敗した時事新報は解散することになる。

   太平洋戦争の開戦(1941年)とともに、新聞は同年に公布された新聞事業令によって、国家が新聞社の廃止や解散の権限を握ることになり、すべてのマスメディアは戦争遂行の道具へと転換する。新聞統合も進み、1937年(昭和12年)に全国で1208社あった日刊発行社は55社になった。開戦を最初に国民に知らせたマスメディアはラジオ、敗戦を告げたものラジオだった。あらゆる技術は軍需産業へ転換し、テレビの技術開発は中止に追い込まれた。

   戦後、マスメディアの主流はテレビへとシフトする。1953年(昭和28年)2月にNHK東京テレビジョンが開局、半年後の8月に民放の日本テレビが放送を始めた。とは言え、シャープが発売した日本最初のテレビは14インチで17万5000円、大卒銀行マンの初任給が5600円の時代だった。テレビの普及は進まず、「街頭テレビ」を市民がみんなで見るという時代があった。1959年(昭和34年)、今の上皇夫妻のご成婚をきっかけにテレビが爆発的に売れる。美智子妃殿下のお姿を見たいという「ミッチーブーム」が起きた。

   ご成婚から3年後の1962年にはテレビが1000万台、普及率50%という大台に乗った。もちろん、戦後の高度経済成長が背景にあったのは言うまでもない。1964年の東京オリンピックによって、テレビは飛躍的な技術的な進化を遂げる。カラー放送、衛星中継、スローVTRの導入など。今のテレビのベースになる放送技術がこのころに確立されたと言ってよい。(※写真はNHKのポスター。テレビの黎明期、食い入るように相撲番組を視聴する子供たちの様子)

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