EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

近鉄天理線

2007年08月31日 | 近畿

Kinten58203  近鉄天理線には3DAYチケットを使って近畿圏の私鉄を乗り潰しし始めてから初乗車している。記憶が曖昧だが、2001年頃に乗って、2002年にもう一度乗っている。近鉄には遊レールパスとか3・3・SUNフリーきっぷなどのフリー切符があったが、値段と使い勝手から3DAYチケットが使えるようになってからは近畿圏の近鉄各線は3DAYチケットを使用するようになっている。3DAYチケットは3日間利用でも1日単位で利用できるので、週末に1回使って、次の週末にもう1回という使い方ができる。最近は近畿圏の鉄道を全て乗り潰したので利用する機会が減っているが、撮影などでも有効に使えるので重宝するチケットだ。

 天理線に話を戻すが、天理線が橿原線から分岐する平端は独特な構造の駅で、私が知っている駅の感覚では阪急宝塚線の石橋に近い分岐構造をしている駅だ。石橋は箕面線用の行き止まり式ホームもあるが、これを省略すれば平端になるという感じだ。石橋の場合は行き止まりホームがあるため、ラッシュ時以外は宝塚線と線路がつながっているホームは使用されないが、平端は行き止まりホームがないため終日使用されている。また、平端から先大和西大寺、京都方面への直通運転も終日行われているので、石橋とは違ったイメージがある。

 天理駅は高架のJR天理駅の下に乗り入れる形になっており、ターミナル構造の駅になっている。単線なのに長大編成が停まれる2面4線の構造に留置線をたくさん持つJR天理と比べるとこじんまりした駅だ。全国から天理教の信者を乗せて運転される天理臨があるJRに比して、近鉄の方は臨時団体列車があっても近畿圏内か遠くても名古屋圏内となるためそれほど大規模な臨時列車が運転されるわけではないので、このような差ができるのだろう。平常時の輸送については過疎ダイヤと言っても過言ではないJR桜井線に比して天理線の方は頻繁運転を行い、京都方面へ直通する急行の運転されているので、こちらについてはJRよりも圧倒していると言える。


京阪交野線

2007年08月29日 | 近畿

020428kei2619  京阪交野線に初めて乗ったのは学生時代のことで、その時は京阪本線の枚方市から学研都市線と乗り換えが可能な河内森の間に乗ったことを記憶している。河内森~私市間はしばらく放置して、後に3DAYチケットを使って近畿圏の私鉄を征伐する時に早い時期に乗り潰している。交野線では交野線内で撮影をしたわけではないが、交野線直通の臨時急行として運転されていた私市ハイキングが強く印象に残っている。運転されていた期間はごくわずかで、長続きしなかったと思われるが、それまで交野線直通の運転はなかったので、これが後のおりひめ、ひこぼしにつながったと思えば、交野線にとって臨時急行私市ハイキングの存在は大きかったと言えるだろう。

 交野線は初めて乗った時も、後に乗った時もラッシュ時が終わって時間帯だったため車内は閑散としていて、学研都市線にやられて減っているのか、元々新興住宅地を走るため、昼間は空いているのかはよくわからなかった。学研都市線との競合は基本的には河内森だけで、交野線沿線から河内森~河内磐船の乗継ぎで学研都市線に流れるという図式でJRに利用者が流れているようだ。枚方市まで出て遅い本線の特急や急行に乗るより速いJRで京橋、さらには北新地方面へ出る方がよいという人が多くなったということなのだろう。昔は枚方市には特急は停まらなかったのでなおさらといったところだろう。おまけに本線の急行は異常に混んでいたのでそれに嫌気がさす人も多かったことだろう。

 JRに流れた利用者を取り戻すもしくは取り逃がさないように京阪も当初ラッシュ時に特急を停め、ついでデータイムの特急停車駅の見直し、交野線直通のK特急おりひめの設定などを行い、巻き返しを図ってきているが、対策を講じるのが少し遅かったように思う。淀川対岸の阪急にしても同じことが言えるが、JRに先手を打たれてしばらく様子を見てから私鉄が手を打つという系図になっており、巻き返すには時間が要し過ぎているように思える。交野線の相手はどちらかと言えばJRでも1線級とは言えない学研都市線が相手となっており、まだJRの方にも隙があると思うが、学研都市線は今後もおおさか東線開業や松井山手以遠の7連化などのプロジェクトが控えており、まだまだ発展していく要素が残っている。交野線も打つ手があるなら今のうちに手を打ち、取りこぼしのないようにしておきたいところだろう。


近鉄橿原線

2007年08月28日 | 近畿

061202kinnishinokyo4  近鉄橿原線には学生時代に初めて乗車している。大阪線で大和八木まで行って、大和八木から大和西大寺の間橿原線に乗って、西大寺で京都線に乗り換えて京都まで行っている。暇つぶしに思いつきで乗ってみようと出かけ、初乗りで乗って乗り越せばいいという気で大阪線電車に飛び乗って八木まで行った。その時の無知な私は近鉄でも大回り乗車が可能だという認識を勝手に持っており、京都で精算すればことが済むと思っていた。ところが橿原線内で私鉄では珍しい車内検札があり、京都までの運賃どころか、それ以上の運賃を取られた。乗ったのが鶴橋だったのが、八木経由と言われても近鉄に乗り慣れていない身にはぴんとこず、家に帰って時刻表を見返してからやっと大回り乗車できないことに気づいた。その時の橿原線の印象は結構乗っているという印象で、ロングシートに座ってあまり景色が楽しめないぐらいの乗り具合だったように記憶している。

061202kin220003  大回り不可ということで、その後その反省からケチな私はあまり橿原線には乗らなくなった。再び橿原線に乗ったのはスルッと関西から発売されている3DAYチケットを活用して近畿圏の私鉄を乗り回しをするようになってからだ。このチケットは今でも発売されており、5000円で3日間乗り放題というお得なカードとなっている。自動改札に通せるし、南海や近鉄がスルっとのエリアに入ってから、和歌山や東は青山町までの区間まで利用できるようになりお得感が増してよく利用している。橿原線は京都線や奈良線から大阪線、南大阪線方面へ抜けるのに有効な路線だ。このため、元を取るために乗りまくるという鉄根性を持つ私はよく利用させてもらっている。何回か乗って気づいたのは各線とのフィーダーの役割をするということもあり、西大寺や八木での時間調整がやたら長いということだ。とりわけ八木での時間調整は大阪線との連絡の意味もあるのだろうが、西大寺から橿原神宮前方面へ乗り通す時には停車時分がやたら長く感じる。京都、奈良方面からの利用よりも大阪方からの利用の方が多いのかもしれないが、京都、奈良方面や橿原線沿線から橿原神宮方面への所要時分が長いのは考えものだ。と言っても根本的な解決策はなく、橿原線は各線の時間調整を行う路線という状態は今後も続いていくことだろう。


近鉄道明寺線

2007年08月25日 | 近畿

040505kin6529  近鉄道明寺線は近鉄南大阪線道明寺とJR大和路線柏原を結ぶ鉄道で、私は過去に3度ほど乗ったことがある。学生時代に近鉄側から乗ってJR方面へ抜けるルートで初めて乗って、あっという間に乗り潰しを達成して物足りない路線というイメージを持った。HPを始めてまずは近畿圏の鉄道を乗り潰しならぬ撮り潰しをすべく動いていき、道明寺線にも再度乗車する機会を持った。最初に乗った時は近鉄から乗ったが、2回目はJR側から乗って近鉄南大阪線に抜けている。柏原を出て柏原南口を過ぎて、大和川を渡るところが道明寺線のハイライトと言えるが、ここのシーンを写真に収めることは未だできていない。当初は写真はHPの飾りにあればいいと思っていたので、停車中の写真だけでもあればいいという方針で動いていた。当初は写真よりも記述重視のHPだったが、今はどちらかと写真に力が入っており、記述がおざなりになってきている。基本は記述重視で鉄道に対して好きなことを書くという方針でHPを作っているのだが、写真を並べるのは楽だし、写真撮影も楽しいので、楽な方へ走っている。それでも基本は記述重視と思っているので、そのうちに再興したいと考えてもいるが、如何せん時間がない。

 道明寺線は今後も特に変化ないまま推移していくと思われる。南大阪線やJRとの直通の効果もあまり期待できない…柏原で線路をつなげれば吉野から大阪、新大阪方面への直通列車を走らせられるが…ということで2両ワンマンの電車が末長く運転されることと思われる。


京阪宇治線

2007年08月24日 | 近畿

061009kei100012  京阪宇治線に初めて乗ったのはいつのことだかはっきりしないが、学生時代にJR奈良線との乗継ぎで1回乗った記憶がある。その後も宇治観光など行ったことがない(当然ながら10円玉の平等院も見たことがない)ので、宇治線に乗る時は鉄活動ばかりだ。たいていJR奈良線との組み合わせで京阪沿線を回って、宇治線で宇治へ行って、京阪宇治から少し歩いてJR宇治からJR奈良線に乗るというルートをよく使っている。その後六地蔵まで地下鉄東西線が開業してからは東西線の乗り潰しで1回、宇治線の撮影で1回同駅乗継ぎのルートを利用している。京阪宇治線の六地蔵とJR及び地下鉄の六地蔵は離れており、その道中に山科川が流れており、そこを渡るJR奈良線の電車を撮影できるので、そこで2回ほど撮影をしている。京阪六地蔵のホームも撮影スポットと言え、以前は上下両ホームから宇治方面行き電車を撮影できたが、下りホームのネットが高くなり、現在は上りホームからの撮影が主流となっている。

 宇治急行が走っている時代には乗ったことがないので、線内折り返しか、三条方面直通電車ぐらいしか見たことがないが、今は三条方面直通さえなくなり、線内運転をするだけの平凡な路線になっているのは残念なところだ。中書島でスイッチバックするのが本線直通時のネックとなっており、逆にスルー構造の大阪方面へは編成両数がネックとなり、直通運転できない。近く宇治線は10000系4両編成でワンマン運転を行う予定で、このままいくと将来的には本線との直通がさらに困難になりそうだ。


能勢電鉄妙見線

2007年08月22日 | 近畿

030621nose17528  能勢電妙見線には学生時代に妙見山にバーベキューをしに行った時に乗車している。幼少の頃から阪急宝塚線に乗ると見える“阪急の古い車両が走る鉄道”に乗りたかったが、幼少の頃から小学生、中学生と乗る機会には恵まれずついには大学に入るまで乗ることはなかった。最初に乗った時は上の画像のようなマルーンに塗られた阪急そのものという車両ではなく、能勢電オリジナル塗装になった阪急電車に乗って川西能勢口から妙見口まで往復した。見た目は別の電車だが、乗ってしまえば中は阪急で、走ればまた能勢電スタイルのゆっくりした走りになるという感じだった。川西まで乗った阪急宝塚線もたいがい遅く、豊中近辺の高架化が終わる前だったのでなおさら遅かった印象が残っているが、川西から乗り継いだ能勢電はさらに遅かった。川西能勢口を出ていきなり阪急ではあり得ないカーブをゆっくり曲がり、その後も急曲線を曲がり、勾配を上がりながら妙見山へ向かっていった。山下辺りまではトンネルなどを抜けながら走るものの、まだ住宅地という感じだったが、山下から先は阪急ではまずあり得ない山岳路線の趣きだった。傍系の神鉄ほどではないにしても能勢電も立派な山岳路線なんだなと妙に感心してしまった。とともにこんな山の中を走る阪急電車というイメージが何とも違和感を持たざるを得ない感覚だった。新鮮と言えば新鮮だが、違和感と言えば違和感という感じだ。よくわからない感覚を持ちながらもどうせなら阪急と直通すればいいのにという違う感覚を持ちながら帰途についたのを思い出す。

 私がその頃思い描いた能勢電と阪急宝塚線の直通は、現在の日生エクスプレスのような通勤輸送ではなく、妙見方面へ直通する行楽輸送を目的とした直通だった。川西能勢口でスイッチバックをするので、その時に宝塚線の5100系8両編成を4両編成に分割して4両編成で妙見口まで直通するという妄想だった。5100系では味気ないが、5100系ぐらいしか使える車両がないので、とりあえず5100系を使い、好評であれば、専用車両を造るか、京都線で将来あぶれてくるであろう6300系を短編成化して回すかなど想像をめぐらせた。10年以上前の話だが、その後日生エクスプレスで能勢電と宝塚線の直通は実現した。しかし、私が妄想した妙見方面直通は未だ実現していない。今後もその実現は難しいと思われるが、宝塚線のダイヤはデータイムに関しては余裕があるので、やろうと思えばすぐにでもできるという気はする。さて実現するかどうか…。


大阪モノレール

2007年08月21日 | 近畿

070421osakam26174  大阪モノレールは地元茨木市内を走るため、結構馴染み深い路線だが、乗り潰しを達成したのは全線が開業してから、かなり時間が経ってからのことだった。当初は初乗りで、南茨木から門真市まで開業当初に乗っている。京橋へ出るのにわざわざ阪急で茨木市から南茨木へ行き、モノレール経由で門真市から京阪を使っている。この時はさすがに大阪空港まで乗ることはできずに、南茨木~大阪空港間の乗り潰しはしばらく保留状態だった。南茨木から門真市までの間はその後も何度も利用するようになり、一時期定期利用者だったこともあり、非常に馴染み深い路線だ。当時はまだギネスに乗る距離が長いモノレールというだけで、黒字転換前だったため、定期券の発売もやる気がなく?平日に門真市のみで販売する(千里中央あたりでも販売してたかも?)形をとっていたので、定期を買うためにわざわざ平日の早い時間に帰宅したり、平日休みの日に門真市まで定期を買うために出向いていったりしていた。南茨木でも予約販売などをしていたようだが、今はもっと簡単に定期も入手できるようになっているはずだ。ダイヤの方も昔は当初15分毎、後に12分毎の運転で、朝夕ラッシュ時15分サイクルの阪急や京阪との運転サイクルの不一致で乗り継ぎには時間がかかった苦い思い出がある。

 大阪空港乗り入れは最近でこそ飛行機に乗る時にはモノレールに乗って大阪空港までということが多くなっているが、昔は飛行機自体に乗らなかったということもあり、大阪空港まで行く機会は全くなかった。大阪空港初乗り入れは飛行機に乗るため・・・ではなく、3DAYチケットを利用して神鉄や能勢電に乗って、帰り際に蛍池で降りてモノレールで帰ろうと思い立ち、どうせなら大阪空港で折り返して乗り潰しを達成しようということで、めでたく大阪モノレールの乗り潰しを達成した。門真市方面へ乗っていた時は、利用時間帯が早朝と夜ということもあり、モノレールはガラガラというイメージがあったが、空港方面への利用は多く、初めて大阪空港に乗り入れた時も空港帰りの利用と万博帰りの利用で大変混み合っていた。門真市方面でもたまにラッシュ時に乗ることがあったが、京阪沿線への通勤利用などで混み合っており、昔のいつでも空いているモノレールという印象が徐々に薄れてきていた。定期的にモノレールを利用した期間はあまり長くなかったので、朝晩は本数が少ないのと阪急、京阪との乗継ぎが悪いという印象しか残っていないが、後に朝晩の本数も増発され、モノレールの10分サイクル化、阪急、京阪の10分サイクル拡大などにより、かなり便利になってきており、かつての不便な印象が嘘のようだ。

050227osakakosokukadomashi4  今後も空港輸送を中心に中央環状沿いの衛星都市を結ぶ路線として活躍を続けると思われる。門真市以南や大阪空港以西への延伸計画もあるが、彩都線の動向次第とした方が無難と思われる。彩都線はしばらくは利用者が少ないとみられるので、同線の利用動向が上向いてきたところで、延伸計画を検討した方が経営的にはよいと思う。また、フリークェンシーに関しては10分毎の運転になり、便利になっており、各線との連絡もほぼ良好になったと言えるので、現状維持が望ましい。ただ、大阪空港までの輸送に関しては少々時間がかかり過ぎの感がある。蛍池で宝塚線沿線とのフィーダを行うだけなら何もスピードアップをする必要はないが、千里中央、南茨木、摂津、門真市方面からの利用に関しては現在のスピードでは物足りない。快速運転や区間内でのスピードアップを望みたいところだ。


JR豊肥本線

2007年08月19日 | 九州

020817houhiasoboy15  JR豊肥本線には99年3月の第2次九州遠征で全線乗車し、02年8月の第3次九州遠征で熊本~阿蘇間で乗車している。1回目の乗車はキハ185系による特急あそで、2回目は熊本~肥前大津間815系、肥前大津~阿蘇間キハ200に乗っている。1回目の時は急行えびので肥薩線乗り潰し、熊本で少しブレイクした後、午後の特急あそで大分まで乗っている。コンパクトカメラで撮った写真は残っているが、九州横断特急全盛の時代となり、特急あその写真が貴重となっているので、もう少し小マシな写真を撮っていればなぁ…と後悔している。有名な立野の3段スイッチバックもつつがなく通過して、それ以外は波野村ってオ○ム事件でよく耳にしたなという程度であまり印象に残る景色はなかった。

 2回目の豊肥本線はたまたま両親が阿蘇まで観光で来ていたので、私の鉄旅行とドッキングして阿蘇から大阪までクルマを運転するという家族サービスを伴ったため、熊本から阿蘇まで豊肥線に乗って、阿蘇からは草千里などを観光して運転手として大阪まで帰っている。両親が阿蘇駅に到着するまでの時間を利用して阿蘇駅近辺であそBOYの撮影を試みた。この当時は大阪近郊での駅撮りはそれなりにこなしていたが、フィールドでの撮影はほとんどしてなかったので、異例の撮影となった。この頃はデジ一はまだまだ高嶺の花でコンデジが幅を効かせていた時代に買った富士フイルムのFinePix 4900Zを使用していた。コンデジとしては最高峰に近い種類のカメラでシャッターのタイムラグなどを感じながらも走行写真もそれなりに撮れていた。今でもデジ一は高嶺の花ということで手を出さず、コンデジの最高峰とも言えるパナソニックのFZシリーズ(20→30→50)を愛用している。あそBOYの写真は見ての通りで、日が陰ったこともあり暗い出来の悪い写真で逆光にもなっているので位置取りもよくない最悪の写真となっている。SLの姿が何とか見られるように補正してこのレベルだから場所取りから腕に至るまでロクでもない写真だったと言える。位置取りも未だにいい加減な設定ではあるが、腕の方はさらに輪をかけて一向に上達していない。


JR日南線

2007年08月18日 | 九州

070812nichinan40  JR日南線には99年春に行った第2次九州遠征で乗り潰しを達成している。乗ったのはその1回きりで撮った写真も上の1枚と宮崎を訪れた時に撮ったキハ31系の写真しかない。99年春に乗った時は、大阪南港からフェリーに乗って志布志港へ着いて、バスで志布志駅まで行って、日南線列車に乗っている。志布志はかつて大隅線、志布志線が発着していた鹿児島県東南部の中心駅で、かつては機関区があり構内も広かったようだが、私が訪れた時には既に駅が移転しており、空き地が広がるだけで、ぽつんと1面1線があるさみしい終着駅になっていた。かつての駅跡地には志布志鉄道記念公園があるらしいが、フェリーとの乗継ぎ時間が短く見物している暇はなかった。日南線は本などで海沿いを走る風光明媚な路線というイメージを持っていたが、海沿いを走るのはほんのわずかでほとんど海から少し離れた位置を走っていたので、案外な印象が残っている。生涯好きになれないと思われる読売巨人軍(昔のように憎たらしいほどの強さがないのが残念)がキャンプを張る地でもあり、宮崎は巨人の土地という悪しきイメージもあったが、私が訪れた時にはキャンプなどとおの昔に終わり、プロ野球はオープン戦真っ盛りで、日南線沿線には巨人の巨の字も見当たらなかった。

Jk20  日南線を訪れる機会はしばらくなく、18で日豊本線を巡った時に、宮崎で同線気動車を見たのと、その時宮崎空港線に写真を撮りに行ったので、南宮崎~田吉間でちょい乗りしている。漸く日南線に乗ろうと思ったのが、つい先日のことで、九州遠征のついでに時間があるので、途中油津まで乗って折り返すという強行軍で久々に日南線に乗ることにした。ドリームにちりんで宮崎に降り立ったのは8月12日のこと。前夜は博多へ乗り込んで並んでドリームにちりんの自由席の1席をGETして、ぐっすり眠りについた。当初は小倉から乗るつもりにしていたが、同列車の指定席予約状況を見て、小倉からはやばそうということで、博多まで乗り込み席を確保することに専念した。功を奏して心地よい朝を迎え、颯爽と日南線に乗り込んだ。予想通り早朝からの列車は空いており、油津まで余裕の旅を楽しめた。日南線のハイライトである海岸線を走るポイントは油津以遠となっているため、平地区間に乗るのみであまり面白くはなかったが、居眠りをしながら乗っていた前回の乗車と違い“乗った”という感覚を残して立ち去れたのは収穫だ。残念なのは志布志まで乗れなかったことと、旧志布志駅構内に保存されている車両を見物できなかったこと。また、志布志からバスに乗って、鹿児島方面へ抜けるという技を使えなかったことぐらいだろうか。次回日南線を訪れる機会があるかどうかはわからないが、次回乗る時は終点まで乗りたい。


JR徳島線

2007年08月17日 | 四国

040717tokushima185tsurugisan  JR徳島線には2回ほど乗っている。1回目は第1次四国遠征で、99年2月に乗車している。この時は土讃線の時にも書いているが、夜に腹痛を起こして予定を変更して、高徳線~牟岐線~阿佐海岸と廻って、徳島へ戻って徳島線に乗る予定を高徳線~徳島線とルートを縮小して徳島線に乗車している。徳島からはキハ185系使用の特急あいに乗った。徳島線の特急と言えば剣山だが、この当時剣山の穴を埋めるべく臨時として特急あいが設定されていた。今となっては貴重な乗車だったが、徳島線沿線は朝から雪に見舞われ、道中は雪で足止めを食らうのではないかと心配になるほどの降雪だった。Js21四国でも山間部では雪が降ると聞いていたが、吉野川沿岸の比較的温暖そうな徳島線沿線で雪に遭うとは思ってもみなかった。阿波池田駅はすっかり雪化粧しており、前夜に体調を崩した身には少々きつい寒さだったが、四国で雪を見ることは一生のうちもうないかもしれないと思い、普段ほとんど切らないシャッターを何度も切ったのを思い出す。当然ながら特急あいに乗ったのはこの1回だけだった。

 徳島線には04年の遠征でもう一度乗っているが、この時も徳島から阿波池田まで特急に乗っており、この時はキハ185系特急剣山だった。確か中間車にアンパンマン車両を連結していたように記憶している。


土佐くろしお鉄道中村・宿毛線

2007年08月16日 | 四国

040718nakamuralinetkt8005  土佐くろしお鉄道中村・宿毛線には99年2月の四国遠征で全線制覇している。特急南風で高知から宿毛まで乗り通し、折り返しも南風で窪川へ出て予土線に乗っている。宿毛駅からバスに乗って宇和島方面へ抜けることも模索してみたが、面倒くさそうなので、往復南風利用とした。中村までは国鉄中村線からの転換のため、線形はあまり良くなく、予土線との分岐部がいきなりループ線となっており、マニア的には面白いが、路線としてはきついところがある。高知自動車道は須崎まで開業しているが、須崎以遠への延伸も視野に入っており、中村辺りまでの開業は時間の問題と言える。今のところ何とか特急として成り立っている南風も高速道路開業で高知で段落ちの減車や減便も考えられそうだ。

040718sukumoline2116  中村からの宿毛線は3セクになってからの開業で鉄建公団が造った路線のため高規格路線になっている。高規格と言っても踏切がなく、高架や盛り土が多いということだけで線形が抜群にいいというわけではない。終点の宿毛駅は高架駅で立派な造りの駅だ。運転士の体調不良により列車が車止めを通り越して駅舎の一部を破壊する悲惨な事故があったのは記憶に新しいところだ。この事故では運転士以外に死者を出していないということもあり、あまり大騒ぎになっていなかった。運転士の体調が悪く不測の事態で事故が起こったことは確かだったが、運転士をバックアップするATSについてもっとクローズアップされていたら、福知山線事故も防げた可能性もあるのではないかと私は思っている。

 中村・宿毛線には94年7月18日の遠征でも乗車している。高知から中村まで特急南風に乗り、同列車が中村止まりだったため、中村から普通列車に乗って宿毛まで行っている。宿毛からの折り返しも普通列車に乗り、中村で特急南風に乗り換えて窪川へ戻った。


JR高徳線

2007年08月15日 | 四国

040822kotoku2458uzushio4  JR高徳線は第1回四国乗り潰し旅行と言える99年2月の遠征で全線制覇している。何度か書いているが、高知方面を巡り、宇和島から一気に高松まで特急を乗り継いで戻り、高松で泊まった夜に体調を崩し、翌日の行程を変更している。当初は高徳線で徳島へ出て、徳島から牟岐線~阿佐海岸鉄道と乗り潰して、徳島へ戻り、徳島から徳島線の乗り潰しをするルートを考えていた。夜中に腹痛を起こし、フロントで薬(胃薬しかなかったのでそれを貰ったらなんでか治った)を貰って服用して眠ったため、朝の始動がゆっくりとなったため、予定の行程をこなすことができなかった。高徳線と徳島線を乗り潰すミニルートで済ませることにし、高松からN2000系を使用した特急うずしおに乗って徳島へ向かった。登場当初は最速130km/h運転が売りで、この当時もまだ急行阿波時代から続く停車駅の少ないタイプの列車が存在していたように思う。その後停車駅をどんどん増やしていき、特急というより快速に近い列車になってきている。明石大橋開業後の凋落が顕著となっているのはやはり京阪神からの入り込みが減ったということなのだろう。

040822kotoku1013  高徳線にはこのほか、03年9月6日に琴電の乗り潰しの際に志度から高松まで18きっぷで普通列車に乗っている。また、04年7月17日の第2回四国遠征でも高松から徳島まで特急うずしおに乗り、徳島から牟岐線の乗り潰しをしている。また、同じ04年の8月22日には鳴門線の乗り潰しをするために、高松まで新型マリンライナーの旅を楽しみ、高松から高徳線普通に池谷まで乗っている。途中雨に降られる道中だったが、特急に乗るよりも普通列車でゆっくり沿線を見ながらの旅の方がその路線がよくわかっていいと最近思うようになった。学生時代はとりあえず量や数乗ればいいということで、特急に乗って先を急ぐことが多かった。HPを開いてから心境に変化が現れたと言えば大げさだが、HPの影響は大きい。この時徳島からの帰りには高速バスを利用している。大阪駅まで直行という魅力があり、3時間ほどで着くので便利なのは間違いないが、バスは狭苦しいし、渋滞もあるので時間が不安定な面もある。大阪~徳島間は明石大橋の開業により高速バスの独壇場に近い状態になっているが、ここに鉄道があれば…と鉄道マニアとしてはどうしても夢を見てしまう。鳴門大橋が鉄道も通せる構造になっているだけに、明石大橋が鉄道に対応しなかったのは至極残念である。


北陸鉄道浅野川線

2007年08月14日 | 北陸

070729hokutetsu8813  北陸鉄道浅野川線には07年7月29日に乗車している。富山地鉄遠征を計画し、黒部峡谷鉄道などを乗り潰して2日間を富山ずくしで過ごす計画を立てたが、少し時間が余るということで、どうせなら未乗の北陸鉄道も乗り潰しておこうと思い、金沢からの乗り換えが容易な浅野川線を乗って帰ることにした。北鉄金沢は金沢駅東口の立派な地下街の中にある。地下街と言っても店が連なっているわけではなく公的な地下広場みたいなところだ。広々として開放的ではあるが、その分人が少ないと閑散として感じがする。立派な地下駅に浅野川線は発着しているが、改札は昔ながらの係員が切符を切る手動改札で、最近導入されたICカードの読み取り機があるぐらいで、真新しい地下とアンバランスな駅の構成となっている。利用動向としては郊外電車のため、北鉄金沢と各駅を結ぶという性格はわかるが、各駅の中でも終点の内灘までの利用が圧倒的に多かったのが印象的だ。内灘から先バスに乗り換えて住宅地へ向かう需要が大きいようで、それに対応して北鉄金沢からかつては急行が設定されていたのだと思われる。ただ、路線としては制限がかかる区間が多く、かなりゆっくり走る区間が多いので急行運転をしても所要時分の短縮は高々知れているということなのだろう。それで急行運転をやめて全て普通として各駅の乗車チャンスを増やした形になっている。しかし、内灘からの利用を見る限り、やはり速達電車の設定は必要と思われる。行き違い設備が三ツ屋のみという欠点もありフリークェンシー運転にも限度がある。行き違い設備を増やし、スピードアップと電車の増発(15~20分毎の運転が理想)を行って郊外電車としての役割をはたして欲しいところだ。


JR肥薩線

2007年08月13日 | 九州

040724hisatsu1402125izaburoshinpei  JR肥薩線には3度乗車している。97年春の第1次九州遠征、99年春の第2次九州遠征で、いずれも宮崎から急行えびのに乗り、1回目は人吉で当時アクアエクスプレス用の車両を使用していた急行くまがわに乗り換え熊本まで乗っている。2回目は熊本まで急行えびのを通しで乗っている。急行えびのはキハ58、65系のアコモ改造車が充てられており、アコモ改造車の中にもグリーン車の座席を使用したものと普通車のリクライニングシートの座席を使用したものがあり、1回目の乗車ではグリーン車用の座席の車両に当たりかなり快適に過ごせた。2回目は1回目の頭があったので、当然グリーン車用の座席で来るだろうと思っていたら、普通車用のリクライニングシート車に当たったので落胆したのを思い出す。普通車用でもボックスシートに比べれば断然快適であるのは間違いないが、グリーン車用の座席があまりにもよかったので、その印象が強く残ってしまっていた。但し、どちらの車両も改造車のため窓割りが合わないので、景色が見えにくい位置が出てくるという欠点はあった。

040724hisatsu1402066hayatonokaze2  1回目に乗った急行くまがわはアクアエクスプレス用車両の当初香椎線のリゾート用として造られたジョイフルトレインで、1-2の配置のクロスシートで、2列側の一部シートは座席が窓側に向くようになっており、定期列車用としては異例の車両だった。私のあやふやな記憶では球磨川を望みながらの道中だったはずなので、窓向きになる座席に座って肥薩線の旅路を楽しんでいるはずだ。

 3回目の肥薩線乗車は04年7月24日、25日の九州遠征で、九州新幹線の初乗りのついでに、久しぶりに肥薩線に乗ろうと計画を立てた。鹿児島中央から日豊本線で隼人まで出て、隼人から肥薩線の旅を楽しんでいる。隼人~吉松間は第1次、第2次九州遠征の際にも乗っていない乗り残し区間だったが、02040724hisatsu185kyusyuodantokkyu3 年8月の九州遠征で隼人~吉松~都城のルートで乗り潰しをしている。隼人から吉松までキハ58系普通列車に乗り、吉松で待ち時間中に特急はやとの風の入線などを撮影して、それに連絡する上りしんぺいに乗って3度目の大畑ループ線を楽しんでいる。人吉~吉松間の普通列車で愛称が付く列車は下りがいさぶろう、上りがしんぺいとなっている。この頃はまだいさぶろうしんぺい用の気動車は指定席のみで、自由席にはキハ31系などがぶら下がっていた。上りなのでキハ31系が先頭になっていたので、私は自由席の先頭車に陣取ってかぶりつきを堪能した。途中真幸、矢岳、大畑では長時間停車時分が取られ、ホームに降りて駅を見物できるだけの時間が取られていた。他の定期列車はそこまで時間が取られていないと思われるが、いざぶろう、しんぺいに関しては地元利用を度返しにした観光用のダイヤが組まれている。現在では自由席車も専用車両に置き換わっており、ますます観光色が強くなっていると言える。九州新幹線が全線開業すれば熊本や新八代経由で肥薩線沿線への観光需要も増える見込める。観光列車の素地を整えているという点では現状の肥薩線は将来的にも観光路線で生き残っていくという方向性が見えているので廃止云々の話は今のところ出てくることはないだろう。040724hisatsumasaki8


近鉄名古屋線

2007年08月12日 | 東海

060715kinng21020  近鉄名古屋線には幼少の頃に名古屋から近鉄難波までビスタカーに乗せてもらったことがあり、その時に伊勢中川手前まで乗り潰しを達成している。5歳になるかならんかの時なので、2階建てのビスタカーが珍しいぐらいで、中川の短絡線がどうのこうのなど何も知らずに名阪間2時間強の時間を子供ながらに楽しく過ごしたに違いない。もっとも夕方の列車だったので、窓の外は暗闇で2階建てからの景色を楽しめるというものではなかった。青山トンネルあたりを走っている時に、昔ここで正面衝突があったという話を父に聞かされて、幽霊が出るとビビらされた記憶があるが、後になって確認するとその手の話は父だけでなく逸話として結構残っているらしいということに気づいた。

 物心ついてから名古屋線に乗ったのは学生になってから、しかも卒業を控えた4回生の夏で、兼ねてから近鉄や名鉄の乗り潰しに使いたいと思っていた3・3・SUNフリーきっぷを初めて使い、アーバンライナー初体験(しかもDX車)した時に再度名古屋線乗り潰しをした形になっている。この時は3日のうち2日を利用して、1日目は往復アーバンで贅沢をし、2日目は片道急行を利用したので、その時に伊勢中川へ初乗入も果たしている。名古屋線は大阪線よりも線路条件がよさそうであまり良くないということと、ダイヤパターンが一定ではないこともあって、先方列車の影響を受けやすいという印象を受けた。

 その後はまた乗る機会がなく、しばらく名古屋線から遠ざかっていたが、近鉄の乗り潰しをするために3・3・SUNや近鉄線内のフリーきっぷを利用して、名古屋線の支線の乗り潰しをしに行く度に名古屋線を利用することになった。JR快速みえとの厳しい競合のため、5200系やL/Cカーが優先的に投入されたり、大阪線の急行に比べて名古屋線の急行は速いなど名古屋線の特色が徐々にわかってきて興味深い路線だと認識するようになった。不況や少子化の影響で準急以下の列車は減便、減車などが行われ、以前より衰えてきたとはいえ、華やかな特急やJRとの競合に奮闘する急行に比べてローカル輸送の低迷が顕著になってきている点は残念だ。