EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR予讃線

2007年08月08日 | 四国

060909yosan80003  JR予讃線は当然ながら四国遠征にて全線制覇を果たしている。それより以前に91年夏に四国に遠征した折に高松から観音寺までの乗車をしている。121系と111系が走りまわっていたのを覚えているが、観音寺以西がまだ非電化だったため、気動車も走っており、まだまだ近代化前の四国という感じだった。多度津であすかを見てまだまだおぼこい鉄だった私はそれに大喜びしたのを思い出す。予讃線にはサンライズ瀬戸に初乗りした時にも瀬戸大橋線の延長として乗車しており、高松で讃岐うどんを食べて速攻マリンライナーで折り返したのを思い出す。91年に高松駅を訪れた時にはまだ宇高連絡船時代を思い起こさせる(実際にあ乗ったことはないが)駅だったが、サンライズで訪れた時にはまだ工事中だったとはいえ、駅の位置は現在位置に移設されており、連絡船時代は記憶の彼方に消えていくことになりそうだ。

030906yosan1132  その後、待望の四国遠征を99年2月に行ったが、この時に旧線は乗り残したものの高松~宇和島間の乗り潰しを達成している。宇和島までの乗り潰しは、宇和島まで予土線に乗って、宇和島から特急宇和海、松山で特急いしづちに乗り換えて全線制覇をしている。高松に泊まってその夜に腹痛を起こして一部行程を変更したが、とりあえず翌日の行程をこなして、高松でもう1泊して、次の日に午前中のいしづちで松山入りしている。周遊きっぷ利用だったが、松山行きは自由席が先頭になるため、一番前の席に座り、少し見えにくいが、前面かぶりつきを松山まで楽しんだ。松山では伊予鉄に乗ったり、道後温泉に行ったりして松山観光を楽しんだ。この当時はインターネットはあってもインターネットで宿を予約するというシステムが確立されていなかったこともあり、あまり宿を予約して旅行するということはせず、現地で安いホテルを探して飛び込みで空きを探すということをしていた。高松の宿は事前に電話予約していたが、松山では予約を入れずにガイド本やホテル案内の本などで安いホテルの目星だけ付けて現地に赴いている。駅に近い安いホテルをうまく見つけて泊まり、翌朝道後温泉で一風呂浴びてから、午前中のしおかぜに乗って岡山で新幹線に乗り換えて帰阪している。

040719yosan1853105  続いて四国に遠征したのは04年7月17日~19日で、この時も周遊きっぷを利用し、16日に高松まで移動して高松で一泊して、17日朝から高徳線~牟岐線~阿佐海岸鉄道などの乗り潰しをして、徳島へ戻り、徳島線~土讃線で高知へ入っている。土佐電の乗り潰しなどをして、高知に泊まり、翌18日には土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線、中村・宿毛線に乗り、予土線に乗って宇和島へ出て、宇和島から予讃線に乗って松山へ出ている。19日には伊予鉄の乗り潰しと予讃線で乗り残していた旧線に乗り、四国征伐を成し遂げた。予讃線旧線では185系の格下げ車両が使用されており、そのまま使えばいいサービスになるのにわざわざ固定クロス化するという手間のかかるサービスダウンをしていた。185系は国鉄末期に四国の経営基盤強化のために造られた車両だが、後に登場したキハ2000系と比べるとかなり見劣りし、JR四国も使い勝手に苦慮している。一部は九州へ売り飛ばされ、四国でもアイランド四国2や普通車への改造が行われたりして、本来の特急としての姿よりも改造車の方が目立つ状態になっている。予讃線旧線の利用は少ないので、185系をそのまま使っても罰は当たらないと思うが、特急利用者のことを考えれば普通と差のない特急では示しがつかないので固定化しているのだろう。

 全線制覇は達成したが、撮影に関しては国分でチョイ撮りしただけだったので、本などでよく見る海岸寺付近の撮影地で瀬戸内バックの写真が撮りたくて06年9月10日に18きっぷの余りを利用して遠征した。海岸寺の撮影地へ来た時にはまだ晴れ間もあったが、土讃線の吉野川近辺で撮り歩きをしている時には大雨が降ってきて、おまけに三脚のハンドルを落として、気づかぬまま高松まで戻り、高松の宿舎に入り、上りサンライズ瀬戸の撮影をしに高松駅に入ってから三脚のハンドルを落としたことに気づいた。雨に濡れるわ三脚のハンドルを落とすわで最悪な遠征となった。翌日も朝から雨が降り、まともに撮影できないまま朝のうちに四国を抜け出して、西明石で新幹線の撮影をして帰った。060910yosan285