EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR根室本線

2007年05月31日 | 北海道

050717nemuro283superozora2  JR根室本線には第1次北海道遠征(97年9月)の時にスーパーおおぞら1号~快速ノサップの乗り継ぎで全線制覇している。この時キハ283系初乗りで振り子気動車を初体験したことになるが、前日の白鳥~はまなすから乗りっ放しだったこともあり、根室本線に入る頃には眠りの中という状態だった。キハ283系は座席モケットにたんちょう鶴があしらわれているのが印象的だった。あっという間に釧路…というほどではなかったが、帯広までは速かったし、帯広以東も少しスピードが落ちるものの快適な走りを披露してくれた。釧路でミニ観光をした後、再び根室本線に戻りキハ54系快速ノサップ(はなさきだったかも?)で終点根室へ。未開の地根釧台地を走る景色は雄大で北海道へ来た!!というのをここで実感した感じがした。荒野の大地というイメージが多々あったが、荒野といってもアメリカの西部劇に出てくるような砂漠の荒野ではなく起伏が激しい未開の地という印象が深い。そこに生える植物は本州などで見られる物とは違い、湿気った感じのする植物が多いように思った。終点根室に着いて、駅近くの民宿に荷物を置いて、バスでノサップ岬まで行ったが、ものすごく遠かったのともの凄く時間がかかったのと、さらにもの凄くバスの運賃が高かったのを思い出す。北海道にはその後何度か渡道しているが、北方領土を遠くに望んだのはこの時だけだ。根室で一泊して民宿で一人一匹つく花咲ガニを堪能して、翌朝は列車がないので徒歩で東根室へ行き、最東端の駅で記念撮影して、列車に乗り込んだ。

 第1次遠征ではこの後、道東から網走を経由して、旭川へ行き、旭川から富良野線で富良野に入り、富良野観光をして、根室本線経由で札幌に出て、旭川に戻っている。この時根室本線の滝川~富良野間を制覇したが、この区間はそれ以来乗っていない。

030815nemuro183marimo4  次に根室本線を訪れたのは第2次北海道遠征(2003年8月)で、この時は翌日の行程の都合で札幌行きの夜行に乗るために、夕方に札幌を発って、夜釧路に着いて、夜行特急まりもで折り返すという行程で根室本線を訪れている。夜間の道中だけに景色も見えずあまり面白くなかったが、盆休みの期間だったので沿線で花火大会が行われていて花火を楽しみながらの道中となった。スーパーおおぞらも最初乗った時は速達タイプに集中して投入されていたこともあり、停車駅も厳選されていた印象があったが、03年に乗った時には主要駅以外とも思える駅にも停車していたので以前乗った時のような速さはあまり感じなかった。むしろよく停まるという印象の方が強かったように思う。夜行特急まりもは今や道内唯一の夜行特急となっているが、この頃は利尻やオホーツクも健在で、札幌から旭川方面までの近郊輸送も担う2列車と違い、まりもは札幌と道東を結ぶのが目的で、前記2列車のようなアルバイトはしていないので見た目乗車率は低い。釧路から乗った同列車も余裕で4人分の席を確保して余裕の姿勢で眠れたし、05年8月の遠征の際に札幌から乗った時も思いのほか空いていた。ただ、旭川を過ぎると閑古鳥が鳴く利尻、オホーツクとは違い、一旦乗ると終点まで降りない人が多いという点で夜行特急まりもは季節格下げを免れているのかもしれない。

 第4次北海道遠征(05年7月)では、石勝線夕張支線とともに根室本線で乗り残していた富良野~新得間の乗り潰しを行った。ぽっぽやで有名な幾寅で途中下車といきたいところだったが、いったん下車してしまうと気が遠くなるほどの待ち時間を要するのと、この時の北海道遠征は1日限りだったので、時間の都合で乗っただけとなった。

050717nemuro40765  第5次北海道遠征(05年8月)でも根室本線には乗っており、夜行特急まりもで札幌から臨時延長運転を行うため根室まで乗り通し、その折り返し列車で速攻折り返している。まりも折り返しの列車は普通扱いの乗り得だったが、寝台車は立ち入り禁止の処置が取られていた。根室本線の釧路以東のホーム有効長は短く、長編成(6両だったか?)のまりもは各所ではみ出し停車をしていた。その後釧路で待ち時間を利用して、釧網本線にちょい乗りして釧路湿原まで行ってノロッコ号の撮影をしている。釧路に戻りスーパーおおぞらに乗り換えて、池田までのミニトリップをして、池田から北海道ちほく高原鉄道最後の旅を楽しんだ。

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JR石勝線

2007年05月29日 | 北海道

050717sekisyo183tokachi  JR石勝本線には第1次北海道遠征の際に、2日目に急行はまなすで北海道に上陸して、速効朝一のスーパーおおぞらで釧路まで移動した時に初乗りを果たしている。この頃は夜行列車での寝つきが非常に悪く、翌朝の状態は最悪ということが多かったが、はまなすののびのびカーペットを利用して横になれたことでこの時はそれほど気分は悪くなかった。石勝線の印象は山がちの中をかっ飛ばすという印象だったが、130km/hでガンガン飛ばすという感じではなく、各所に結構制限があったり、ポイント制限や行き違い待ちが多い路線というイメージだった。第1次遠征では石勝線に乗ったのはこの時1度のみで、次に乗ったのは第2次遠征の時だ。この時は夕方のスーパーおおぞらで札幌を発ち、夜に釧路に着いて、その夜のまりもで折り返すというまりもを宿代わりに利用する手を使った。

050717sekisyo401701  第4次遠征では夕張支線に乗るために、札幌からスーパーとかちに乗り、新夕張でキハ40単行に乗り換えて夕張に初乗り入れしている。夕張と言えば破綻という悪い印象を受けるが、訪れた時はまだ破綻の言葉は表面上では聞かれなかった。JR北海道が企画したウォーキングで案外賑わっていた感じさえあったぐらいだ。夕張ではすぐに折り返して新夕張から新得まで普通乗車券のみでスーパーおおぞらに乗って新得から根室本線の未乗区間新得~富良野間を乗り潰しに行った。


JR室蘭本線長万部~苫小牧間

2007年05月28日 | 北海道

041219muroran283superhokuto  JR室蘭本線には1997年夏の第1次北海道遠征で初めて利用し、その後も渡道の際に利用することが多い路線だ。初めて乗った時は急行はまなすで北海道に上陸して、長万部から室蘭本線に入り、千歳線を経由して札幌に入るルートだったが、室蘭本線内では目を覚まさず目覚めたのは千歳線に入ってからだった。第1次北海道遠征は学生時代の夏休みに言ったので、1週間ほど北海道に滞在して、その終盤に函館巡りをする時に札幌からスーパー北斗2号に乗って室蘭本線を制覇している。制覇といっても東室蘭~室蘭間と沼ノ端~岩見沢間は乗っていない。この2区間については第2次遠征でも乗っていない。

041218murorantwilightexpress  第3次遠征でこの2区間と日高本線に乗るために、JALのバースデー割引と18きっぷを利用して初めて冬の北海道を訪れている。この時は新千歳から快速エアポートで札幌まで行き、札幌駅構内のラーメン屋で暖をとって、函館本線普通で岩見沢まで行って、岩見沢~沼ノ端間の室蘭本線を制して、続いて東室蘭まで行って東室蘭~室蘭間を制している。東室蘭には15時頃着いて、15時46分のトワイライトを同駅で撮る段取りをしていたが、冬の北海道は日暮れが早く、16時前では結構薄暗く見事に失敗してしまった。撮って撮れない状況ではなかったが、望遠で撮ったのでブレてしまいボケてしまった。夏ばかり北海道に出向いていたので、冬の北海道の日没時間の早さには驚いてしまった。そのあと室蘭までの初乗りを果たしたが、室蘭駅に着いた時には既に日没の時間となっていた。


JR函館本線函館~小樽間

2007年05月27日 | 北海道

050812hakodate281  函館本線の函館~長万部間は、一番最初に乗ったのは急行はまなすで夜中に通過しただけだった。この時は大阪から白鳥に乗って長躯青森まで通しで乗って、そのまま急行はまなすに乗り継いで北海道に上陸というパターンだった。さらに札幌到着後は1時間ほど空けてスーパーおおぞらで釧路へ。さらに釧路で少しブレイクタイムした後、根室本線を東へ進み根室まで達している。まるで乗りっ放しの2日間となっていた。これは97年の第1次北海道遠征の時のことだが、函館本線にはこの後スーパー北斗2号で札幌から函館まで乗っているので、その時初めて日のあるときに乗っている。さらにその翌日に北斗で札幌へ戻り、その日のトワイライトで帰阪する際にも当然ながら函館本線を通っている。この遠征では函館本線には乗っているものの、優等列車にしか乗っていないので、通称砂原線と呼ばれる別線には乗っていない。

030816hakodatelinehirahu   第2次北海道遠征でも同じくスーパー北斗や北斗で函館本線を通っているものの砂原線には乗っていない。第2次遠征では長万部から先の山線には乗っている。この時に砂原線に乗ればよかったのだが、普通列車の時間が合わなかったので、函館~長万部間はスーパー北斗を利用している。それでも長万部では小1時間ほど待ち時間があり、駅前の有名なカニ飯の駅弁屋でカニ飯と盛りそば弁当を買って待ち時間で食した。どちらの駅弁も駅内ではなく、駅外で売られていたのが面白かった。山線ではキハ40に揺られ長万部を14時ごろ出て、小樽に17時ごろ着くという長時間乗車で若干疲れたが、北海道の原野を行くというにふさわしい路線という印象を受けた。この線路をかつては優等列車が走っていたのだから驚いてしまう。古くはSLニセコが悪戦苦闘して峠越えをしたのだろう。鉄道マニアにはたまらない光景だが、利用者にとっても違った意味で堪らないものだったと思う。室蘭本線に函館~札幌間の直行輸送を譲った山線だが、将来的には新幹線という形で、山線復権が行われる可能性がある。その時在来線の山線自体がどうなるのかはわからないが、沿線には観光資源もあるのだから、新幹線とうまく連携して観光路線として再起して欲しいものだ。

050813hakodatemori 砂原線に乗ったのは05年の第5次北海道遠征の時で、この時は未乗線区の後始末をしたので、江差線などと合わせて函館~森間で行きは藤城線経由、帰りは砂原線経由で砂原線の乗り潰しを達成している。このときに森駅でいかめしを購入しようと思ったが、朝の少し早い時間だったので店が閉まっていて買えずじまいだった。


JR津軽海峡線

2007年05月25日 | 北海道

050718tsugarukaikyoed7912nihonkai  JR津軽海峡線には97年9月1日からの第1次北海道遠征の際に乗り潰しを達成している。以後北海道遠征の際は例外を除いて往復もしくは片道のどちらかは津軽海峡線に乗って渡道している。最初に乗った時は急行はまなすだったので、初めての青函トンネルは夢の中だった。この時はのびのびシートを利用していたが、夢見心地に青函トンネルのロングレールの音を聞いたのを思い出す。青函トンネルを過ぎてから若干目が覚めて北海道に上陸して漁火を見ながら函館まで向かっていたのを思い出す。その後急行はまなすにはもう一度乗っているが、この時は自由席に乗りながらも爆睡しており、漁火どころか何も記憶に残っていない。最近旅慣れしてどこでも眠れるようになったが、その分夜行列車での思い出というのがなくなりつつある。ほとんど記憶の外にある状態になっている。それはそれで寂しいものだ。

 第1回北海道遠征の帰りにも津軽海峡線を通って帰阪しているが、この時ははまなすではなくリッチにトワイライトEXPに乗っている。トワイライトに乗ったのは今のところ後にも先にもこの1回のみとなっている。友人と渡道していたので、B寝台個室ツインを利用したが、日がある時間帯の大半をラウンジカーで過ごした。青函トンネル通過時もラウンジカーで過ごし、JR北海道の車掌による青函トンネルの説明などに耳を傾けながらじっくり青函トンネルの旅を楽しんだ。トワイライトの旅で鉄としての悩みは機関車の交換が運転停車となるため降りて見物できないことだ。青森での機関車交換は後に急行はまなす待ちの時間帯に撮影をしているので、思い残すことはないが、五稜郭での機関車交換はまだ見たことがない。

030813seikanyosiokakaitei2  第2回北海道遠征では初めて東北本線回りで渡道しており、八戸からスーパー白鳥に乗っている。789系の立ち席展望室で青函トンネルへの出入りを楽しんで、北海道上陸時に席についている。この時は帰りは飛行機を使ったので津軽海峡線には乗っていない。第3回北海道遠征も往復飛行機だったので津軽海峡線には乗らなかった。2005年7月の第4次遠征では往復急行はまなすを利用している。この時に先にも書いた青森駅でのトワイライトの撮影などをしている。この時はJR北海道とJR東日本が共同で発売している5日間普通列車乗り放題の切符をわざわざ京橋のツインクルプラザまで出向いて購入している。5日間のうち3日間しか使わなかったが、それでも十分元は取れた。18がない時期には便利な切符だが、西日本エリアでは入手しにくいのが欠点だ。

 第5次北海道遠征は4次と同じ2005年8月にしている。この時は行きはスーパー白鳥、帰りははまなすに乗っている。2005年ははまなすに3回乗ったことになる。スーパー白鳥は2度目だが、この時も後ろ向きかぶりつきをして、この時は浅虫温泉から函館まで立ちっぱなしで移動している。我ながら熱心な限りだ。


JR羽越本線

2007年05月24日 | 東北

051230uetsu701n83  JR羽越本線は97年夏の北海道第1次遠征の際に特急白鳥を乗り通して乗り潰しを達成している。その遠征の帰りもトワイライトに乗っているので1往復したことになる。但し、どちらも暗闇の中の道中となり、しばらく昼間の羽越線に乗ることはなかった。

 久しぶりに羽越本線に乗ったのは、2003年末の東京新潟東北遠征の時で、新潟から白新線経由で新発田へ出て、新発田から羽越本線で坂町まで行って、米坂線の乗り潰しをしている。この区間は直流電化区間だが、村上にデッドセクションがあるため、そこを通過する電車は交直両用電車が必要となる。特急はそれに対応するため485系を使用しているが、普通は高価な交直両用車は贅沢ということか、気動車が走っている。私が乗った列車もキハ110系を使用していた。この時は羽越本線はついでに乗った程度だったが、次の2005年末の遠征時は東北遠征の乗り潰しがメインではあったが、羽越本線にもかなりお世話になっている。

 2005年夏の東北・北海道遠征では帰りに秋田から日本海2号に乗っているが、すっかり日が暮れた後の道中で、なおかつB寝台下段が取れたものの、合席となった年配の旅行グループンのおばちゃんに上段が怖い云々言われて席を交換せざるを得ない事態となったため、秋田から大阪まで上段寝台にこもりっきりの道中となってしまった。夜とは言え景色が全く見えない道中程厳しいものはないと痛感してしまった。

 2005年末遠征では急行きたぐにで新潟まで出向いて、新潟から白新線経由で新発田まで行き、新発田から羽越本線に入って鶴岡まで乗っている。新潟から村上まで115系普通で直通し、村上で羽越本線気動車列車に乗り換えている。この時はちょうど直前に羽越本線でいなほが脱線事故を起こしており、鶴岡~余目間が不通となっていた。目的は余目から陸羽西線の乗り潰しをすることだったので、不通区間は代替バスに乗って余目まで行った。雪と鶴岡駅の折り返し線不足などから列車は1時間以上遅れて、代替バスも列車よりもかなり時間がかかり、陸羽西線で予定していた列車には乗れなかった。こんな時期に予定を立てたのが悪かったのだが、改めて列車が通常通り走るありがたさが身にしみた。この後、陸羽西線~陸羽東線と渡り歩いて、北上に宿泊して、翌朝北上線の乗り潰しをして、横手から奥羽本線を北上して秋田へ至っている。秋田から再び羽越本線に乗って、今度は南下していき、羽後本荘から由利高原鉄道の乗り潰しをしている。同鉄道乗り潰しの後も羽後本荘~秋田間で羽越本線ローカル列車の旅を楽しんでいる。かつての羽越本線は50系客車列車の天下だったようだが、今は見る影もなく701系が大きな顔をして走りまわっている。沿線は海沿いを走るところでは防風対策が各所に見られ、脱線事故が起きてもおかしくはない環境のところを走っているのがよくわかった。


JR白新線

2007年05月23日 | 甲信越

Jre87  ここも97年の渡道の際に特急白鳥で素通りになるが、乗り潰している。新潟で駅弁を入手してほっと一息というところに、新幹線からの乗り換え客が大量に乗りこんできて驚いたものだ。白鳥は京阪神~北陸、北陸~東京連絡、東京~羽越、秋田~青森など区間利用があり、また当時はワイド周遊券を利用した学生などが北海道連絡で利用するという多種多様な旅客を乗せて運転していた。弁当とどっと乗り込んできた旅客に気を奪われていたため白新線内はあまり景色を見た記憶がない。北海道からの帰りはトワイライトを利用したので白新線は通っていないので、しばらくは記憶にございません路線となっていた。

Jre64  それ以後特に乗る予定もなかったが、仕事で急遽新発田へ出張することになり、偶然にも白新線を使う機会を持った。01年の話だが、当時は会社があまり飛行機利用に理解がなく、新潟までなら鉄道でも行けるという認識だったので、鉄な私にとっては福音な仕事だった。新幹線を乗り継いでいくルートで申請して、前の晩にサンライズののびのびシートで東京入りして、朝少し京急の撮影してから新幹線で新潟へ向かうという何とも気楽な出張をこなしている。仕事が早く終わったので、日帰りでの出張となったが、冬場で雪が積もっており、何もせずに真っすぐ帰ったのを思い出す。その時新潟~新発田間で白新線を利用している。行きはいなほ、帰りは写真のE127系に乗っている。E127系にはこの時初めて乗っており、東北の701系もそれまでは見るだけだったので、この手の車両はこの時に初めて乗っている。

 次に白新線に乗ったのは2003年の年末に東京へ遠征して、そのままムーンライトえちごに乗って新潟まで行って、越後線・飯山線などの乗り潰しをして新潟で一泊して、翌朝米坂線に乗るために白新線で新発田まで出ている。冬場の早朝のため真っ暗の中をE127系で移動したのを思い出す。

 その次に乗ったのは2005年年末の東北遠征の時に、急行きたぐにで新潟まで出て新潟から白新線経由で北上した時に115系で雪の中を走っている。この時はちょうど羽越本線で脱線事故があった時で白新線はそんなにダイヤは乱れていなかったが、羽越本線はかなりダイヤが乱れており、余目から陸羽西線~陸羽東線を乗り継いで仙台まで行ったが、かなり時間がかかった。白新線は今後も羽越方面へのバイパス路線として、また新潟都市近郊輸送の一端を担う路線として活躍していくだろう。


JR北陸本線

2007年05月22日 | 北陸

Hakutyo12  JR北陸本線の乗り潰しは97年夏の北海道遠征時に達成している。この時はいまや貴重な体験をしたと自慢できそうな485系ボンネット白鳥で大阪~青森間を乗り通し、青森から急行はまなすに乗って渡道している。白鳥にはその後、2001年の正月に廃止前の惜別乗車として大阪~福井間に乗車している。大阪~青森間を通して乗ったのは後にも先にも97年夏の北海道遠征の時のみだ。485系ボンネット車は乗っても一般の485系と何ら変わりはないので、ボンネット車に乗ったかどうかはあまり問題ではないが、北海道連絡として由緒あるボンネット車を使用する485系白鳥に乗れたことは後になってよかったと思える。白鳥に乗った時は当然ながら湖西線経由のため、米原~近江塩津間は乗っていないことになる。しかし、同区間はこれより前に国鉄謝恩フリーきっぷで急行きたぐにに乗った時に乗っているので、その時にすでに北陸本線は乗り潰してはいる。但し夜行だったので、米原~近江塩津間の景色は見ていない。近江塩津~直江津間は白鳥乗車時に景色を堪能しているので、この区間は白鳥によって完全に乗り潰したといっても過言ではない。北海道ワイド周遊券で渡道したので白鳥は自由席に乗った。長丁場でモハはやかましいのでクハに乗ったあたり、私は生粋のマニアではないと我ながら思う。本当のマニアなら485系のモータの唸りを聞きながら長丁場を楽しむのではないかと思う。食堂車がない白鳥車内では途中北陸本線沿線の名物駅弁を楽しむことができるが、何を食べたかまでは覚えていないます寿司だったようにも思うが、敦賀の鯛の寿司だったようにも思う…この辺りは記憶が曖昧だ。白鳥は東日本管内では車販が乗り込まないという話を聞いていたので、新潟での停車時間の間に連れが弁当を買いに行ったのを思い出す。これがなければ本当に兵糧攻めに遭うところだったと羽越・奥羽線の道中で改めて何も食べ物のない車内で新潟で弁当が買えたことを感謝したものだ。青森駅に着いて食べた駅そばがなんとうまかったことか…。

Hokuriku10  北陸本線にはその後学生時代でも何度か乗っており、越美北線に遠征した時には行きは小浜線経由で乗っていないが、帰りは福井から普通を乗り継ぎ大阪へ戻り、新大阪から今はなき新宮夜行に乗って、新宮へ行き新宮からキハ85系南紀に乗って松阪まで行って名松線の乗り潰しをしている。また、大阪から福井までサンダーバードに乗り、福井から普通を乗り継いで延々と新潟まで行って、新潟からムーンライトえちごで上京するという技?も使っている。この時は薄暗い夕暮れ過ぎの419系の車内で富山のますの寿司を食べたのを思い出す。98年の信州ワイドを使った信州乗り潰しの時にはサンダーバードとはくたかを乗り継いで直江津まで乗っている。サンダーバードの人気もすごいが、本数がサンダーバードより若干少ないせいか、あるいは東京志向が高いのかはくたか人気も凄いことに驚いた。ビジネス利用が多いと聞いていたが、実際には夏休みだったこともありレジャー客も結構いたように思う。

Notokitaguni  社会人になってからは正月出歩く癖がつき、JR西日本の年末年始フリーきっぷを活用して北陸への旅をフルに楽しんだものだ。ゆく年くる年を急行能登の車内で2年ほど続けて味わったりしている。能登で直江津まで行って、折り返しきたぐにで大阪へ向いて戻るという夜行乗り継ぎで、フリーきっぷを有効に使って移動距離を稼いでいた。

 ホームページを始めて写真を撮るようになって、さらに写真の質も少し求めるようになって撮影地に出向くようになった。かつては北陸本線の新疋田などへ行く気はさらさらなかったが、一度雪の日に訪れていい画が撮れてからは非常に気に入り、最初はホームから撮っていたのがカーブにも進出するようになり、2006年には新疋田詣でを何度かしている。同じく南今庄も気に入っているし、1度しか行っていないが、丸岡近辺もいい画が撮れるところでもう一度行ってみたいところだ。485系が健在のうちに、北陸詣でを何度かしておきたいところだ。060205hokuriku683sh3_1


JR日豊本線宮崎~鹿児島間

2007年05月20日 | 九州

020816nippou485kirisima3  日豊本線この区間の乗り潰しは宮崎~都城間が1997年春の九州遠征、都城~鹿児島間が2001年夏に達成している。97年遠征時には急行えびのに乗り、都城から吉都線を経由して熊本へ至るルートを選定し、途中人吉で急行くまがわに乗り換えている。99年にも第2次九州遠征をしているが、この時も急行えびので同じルートを乗っており、この時は熊本まで乗り通している。01年遠征で漸く都城~鹿児島間の乗り潰しを達成したが、この時はドリームつばめで鹿児島入りして、特急きりしまに乗って、隼人から肥薩線に入り、吉松で吉都線に乗り換えて都城まで出て、そこから折り返し西鹿児島(現鹿児島中央)まで特急きりしまに乗るという手間のかかった乗り潰しルートを敢行している。

020816nippou475g36  その後05年8月27日、28日に遠征した時に、日豊本線~鹿児島本線の普通列車で九州を1周しており、その時に夕方前の宮崎~鹿児島中央間に乗っている。この時乗ったのは475系普通列車で堂々6両編成だった。九州の475系も07年3月18日の改正で運用を離脱してしまったので、この時乗った475系が私にとって九州で最後の475系乗車となった。日豊本線の475系で思い出すのはグリーン車改造のクハ455-600だ。窓割りからして明らかにグリーン車からの改造とわかる車両で、予備知識もなく見た時の新鮮さは今でも忘れられない…大げさですけど。


JR佐世保線

2007年05月19日 | 九州

040725sasebo783cm23midori2  JR佐世保線に乗ったのは97年春の九州遠征の後半に大村線で佐世保まで出て佐世保から当時赤い485系で運転されていた特急みどりで肥前山口まで乗り通している。生憎の雨で佐世保から肥前山口まで乗って肥前山口から長崎本線で長崎へ引き返したのを思い出す。雨が降っているため景色もよく見えずというかあまりじっくりと景色を楽しむという感じではなかった。この時早岐でハウステンボスと連結作業を行ったはずだが、この頃降りて見物するというような趣味は趣味はなかった。

040725sasebo817v20  佐世保線にはその後第4次九州遠征(2003年12月20日、21日)で、筑肥線、唐津線などの乗り潰しをして、松浦鉄道で伊万里から有田へ出て、有田から佐世保線に乗っている。この時は18きっぷだったので817系で肥前山口、鳥栖方面へ向かっている。その後は2005年7月24日、25日の第5次九州遠征で大村線で佐世保に出た後に佐世保から佐賀まで817系普通に乗っている。夕方前の時間帯だったが、この時間帯は811系も佐世保線に乗り入れているらしく、途中駅で811系と交換したのが目に新しかった。

 佐世保線は今後武雄温泉~長崎間で建設される長崎新幹線との関係が深まるものと思われる。同新幹線ではフリーゲージトレインの導入が検討されており、新鳥栖から九州新幹線に乗り入れるという話もあるので、佐世保線にもフリーゲージトレインが走る可能性はある。将来的にはまた乗りに行かなければならない…という手間と楽しみがある路線だ。逆に言えばそれまでは783系みどり・ハウステンボスが走るのでしばらく行く必要はないともいえる。


JR大村線

2007年05月18日 | 九州

040725oomura2005  JR大村線には1997年春の九州遠征時の後半に乗っている。長崎観光を終えて帰りの夜行(あかつき)まで時間があるので大村線と佐世保線にでも乗ろうかと思って諫早まで何で行ったのか忘れたが、諫早から大村線の快速シーサイドライナーに乗り込んだのを思い出す。キハ200で座って行けた記憶があるが、記憶違いかもしれないが、先行の列車も大村線列車に乗って座れなかったので諫早で降りて後続の列車に乗ったのかもしれない。大村線の印象は海沿いを走る路線というのが強く残っている。キハ200には大村線乗車前に篠栗線で体験済だったが、赤い快速に比べて青い快速は遅いという印象以外は特に変わったところはなかった。もちろん外装は赤から青に変わり雰囲気はまったく違ったものになったという印象はある。

061216omura66112  大村線にはその後第5次九州遠征(2005年7月24日~25日)で、7月25日に長崎方面の乗り直しをした時に、長崎から佐世保まで快速シーサイドライナーに乗っている。この時は全面かぶりつきをするつもりだったので、長崎から立って行ったが、長崎からでも立ち客が出て、諫早からさらに乗ってくるという状態で結構混雑していた。長崎~佐世保間の直通利用も少なくないが、長崎、諫早から大村線内への利用も結構多いようだ。今後長崎新幹線が開業するとそれと佐世保方面へのフィーダー輸送も担うことになりそうだから大村線は今後発展していく可能性がある。現在は非電化路線だが、効率を考えれば長崎本線旧線とともに電化して長崎本線、佐世保線とともに817系などの電車を運行するようにすれば効率が良くなるのではなかろうか?


JR長崎本線

2007年05月17日 | 九州

061216nagasaki783cm52  JR長崎本線には1997年春の九州遠征の際に鳥栖~長崎間のうち、喜々津~浦上間の旧線を除く全線を乗り潰している。最初に乗ったのはドリームつばめで博多に入り、折り返し朝一のかもめで長崎へ向かった時にとりあえず新線の完乗を果たしている。この時は長崎で宿を探すために朝一で長崎へ入り、宿を見つけてさらに折り返しかもめに乗って博多へ出て、博多から快速で小倉へ移動して、モノレールで小倉競馬場まで行っている。折り返しの際は485系赤いかもめに乗っている。赤いかもめに乗ったのはこれが最初で最後になった。この当時はまだ783系かもめが主流で、肥前山口以西はカーブがきついのでゆっくり走らざるを得なかった。その後競馬場帰りに夕方の博多発のかもめに乗ったが、自由席は立ち客満載の状態で博多を出た。私も乗り継ぎに余裕がなく席にありつけず立ったまま佐賀まで行った。佐賀で空いて席にありつけたが、長崎まで行く人も多くかもめ人気を実感したものだ。

031220nagasaki817v25  この第1次遠征の帰りに長崎から寝台特急あかつきに乗っている。この時は長崎本線を2往復もしているが、そのうちの片道1回はこのあかつきでの道中となった。ソロ初体験を果たしたが、上段がよかったのに下段しかとれずあまりいい景色ではなかったのを思い出す。また、付属のオーディオも若者向きの音楽はなく、手持ちのMDやCDが挿入できるオーディオシステムならいいのになと思ったものだ。この頃グリーン車などでも航空機を意識してかオーディオや液晶テレビを付ける車両が多かったが、多様化したニーズに応えることができなかったのか、どの車両も中途半端なサービスとなり、今ではほとんど姿を消している。

 次に長崎を訪れたのは第2次九州遠征で、この時もまだ783系かもめが主体で、485系赤いかもめも走っていたかもしれないが、私は乗っていない。第3次九州遠征時には885系が既に登場しており、長崎まで885系白いかもめで往復している。この時はグリーン豪遊券だったので行きはグリーン、帰りは試しに自由に乗っている。凝った造りの車両だが、全面展望に関しては783系に比べて後退している感がある。

040725nagasaki885sm4  長崎本線を乗り歩いた…というほどでもないが、普通列車で乗り歩いたのは第5次九州遠征のときだ。九州新幹線の初乗りと肥薩線の乗り直しなどを行い、熊本に泊まり、翌朝三角線の乗り潰しをして、あとはひたすら北上して鳥栖からは長崎本線をひたすら西へ向かい、長崎で速効折り返して大村線~佐世保線と経由して、佐賀からかもめに乗って博多へ戻るという鉄100%の旅をしている。博多からはムーンライト九州で帰阪して、翌朝平日の京阪本線の撮影に出かけているのだから狂人だ。

 次に長崎を訪れたのは2006年末の12月16日、17日だ。この時は18きっぷを利用して島原鉄道と松浦鉄道の乗り潰しをしている。長崎本線には普通列車で鳥栖から諫早まで乗り、島原鉄道乗り潰し後に諫早から旧線経由で長崎へ出ている。夜だったので景色は望めなかったが、旧線も長崎市の061217nagasakied76697 住宅地を走っており、本数、利用とも案外多い。大村線と共通運用の気動車で運転される非電化路線だが、将来的には電化してもおかしくない路線と言える。長崎で一泊して翌日は松浦鉄道乗り潰しの前に、長崎本線であかつきの撮影に挑んだ…が天候が悪く当初予定していた小長井近辺での撮影を断念して現川での半端な撮影に終わってしまった。現川であかつきが特急を待避するであろうという予想はしていたが、対向列車との行き違い待ちも含めて20分程度停まるとまでは思いも寄らず撮影は見事に失敗して入線時の画が撮れなかった。さくら亡き後長崎本線唯一のブルトレとなったあかつきだが、終着駅を前に特急待避だけでなく普通列車との行き違いのため長時間停車を強いられるとは朽ち果てたものだ。廃止間際の列車を思わせるダイヤとはこのようなダイヤなのかと思わせる。長崎本線自体将来的には肥前山口~長崎間は新幹線に置き換わってしまうので、在来線特急は実質廃止となる予定だ。寝台特急あかつきはそれ以前に廃止となる可能性が高いが、もう少し何とかならんのかとファンとしては思ってしまう。


JR日豊本線大分~宮崎間

2007年05月13日 | 九州

050827nippo713lk904  日豊本線のこの区間の乗り潰しは1997年春の九州遠征で乗ったドリームにちりんにて達成している。この第1次九州遠征ではそれ以外には日豊本線大分~宮崎間には乗っていない。乗り潰し趣味の人の中には眠っている間に通り過ぎるのをよしとしない人もいるが、当時の私はそんなことお構いなしで、乗ればそれで乗ったという感じだった。今は多少認識は違うが、より早く乗り潰しを達成するのであれば、景色もへったくれもなしに乗れるだけ乗ればいいと思う。

 この区間に陽があるうちに乗ったのは第2次九州遠征の時で、この時はフェリーで志布志へ入り、日南線を乗り潰して日豊本線を普通電車で北上している。確か18きっぷを利用しているはずだが、延岡以北も普通に乗ったかどうかは記憶にない。延岡~大分間は本数的に普通に乗るより特急に乗った方が楽だが、学生時代のことだから、普通列車の時間に合わせて移動しているに違いない。この時宗太郎越えを経験したわけだが、何に乗ったか記憶していないということはおそらく道中のほとんどが睡眠時間だったに違いない。この遠征の時にはさらに2日後のドリームにちりんで同区間を通過している。

050827nippo783cm32  この後は日豊本線に乗っても大分までで、大分以南とはしばらくご無沙汰だった。第8次九州遠征で、日豊本線を南下して、帰りは鹿児島中央から鹿児島本線~肥薩オレンジ鉄道を北上するルートで、久しぶりの日豊本線を堪能している。この時は18きっぷ利用だったが、大分~延岡間は列車本数の都合で特急を利用している。どうせならということで先頭のグリーン車のトップキャビンを指定して前面展望を楽しみながら宗太郎越えなどを楽しんだ。延岡からは717系のサンシャインに乗って宮崎空港まで行っている。この時延岡で高千穂鉄道を見て、いずれ乗りに来ねばと思って写真を撮ったのを思い出す。この後台風の影響で高千穂鉄道が再起不能になろうとはその時には思いもしなかった。高千穂鉄道が部分復活する可能性もあり、その時にはまた日豊本線を使って乗り潰しに行くことになるが、それまではしばらく日豊本線には用事はなさそうだ。


JR吉都線

2007年05月12日 | 九州

020816kitto40  JR吉都線の乗り潰しは1997年春の九州遠征にて、急行えびのに宮崎~人吉間に乗車した時に達成している。この頃はまだ九州でも急行が健在で、吉都線にはえびの、肥薩線にはえびの、くまがわが走っていた。私は宮崎までドリームにちりんに乗り、朝一の急行えびので宮崎から吉都線を経由して熊本まで至るルートを辿っている。急行えびのはキハ58系のアコモ改造車でグリーン車で使用されていた座席を転用していたので非常に快適だったのを覚えている。Jk25 これでもかというぐらいリクライニングするシートは快適だったが、改造車のサガで、窓割りは全く合っていないのは残念なところだった。その後急行えびのには第2次遠征でも乗っているが、このとき乗った車両は最初に乗った車両ほどのシートを使用していなかった。車両によってアコモ改造の度合が違うようだ。

Yosimatu1  吉都線にはその後乗る機会もなかったが、2002年に肥薩線の乗り潰しの際に再度訪問している。この時はすでに急行えびのはなく、キハ40単行気動車で吉松から都城まで乗っている。平野から山へ上っていく吉都線だが、車窓は肥薩線に比べて単調でどちらかというと面白みに欠ける路線ではある。肥薩・吉都ルートは博多や熊本から宮崎に抜ける短絡ルートになるが、並行して走る九州道や宮崎道に敵う代物ではない。肥薩線は観光列車を走らせて観光客を呼び込んでいるが、吉都線でも何らかの施策を展開しないと廃止という話が出てきてもおかしくはない。


JR久大本線

2007年05月10日 | 九州

060806kyudai716  JR久大本線には第1次九州遠征の際に別府から特急ゆふに乗り、久留米まで全線乗り通して終点の博多まで乗っている。特急ゆふはキハ185系を使用しており、かぶりつき好きの私は一番前の席を確保して久大本線かぶりつきの旅を楽しんだ。但し、別府で温泉に浸かった後だったので途中睡魔が襲い大半は眠っていたように思う。

 久大本線にはその後第2次九州遠征の際にゆふいんの森に初乗車して、こちらも博多から別府まで乗っている。この2回の遠征では由布岳の存在もあまり認知していなかったので、豊肥本線などに比べて面白みに欠ける路線というイメージがあった。

 その後は久大本線からしばらく遠ざかっていたが、05年1月2日の北九州遠征の際に日田彦山線乗り潰しをした後に夜明から久留米までローカル列車の旅を楽しんでいる。久留米近郊は結構住宅が立ち並んでいるので、電化するなり駅を増やすなりして都市近郊輸送を担った方がよいように思う。高速道路が発達した今では観光輸送だけではそのうち成り立たなくなる可能性があるので違った方面でも生き残り策を考えなければなあらない。

 次の遠征は06年8月6日の九州遠征で、この時は熊本方面へ遠征して、帰りに久大本線~日豊本線で撮影をして帰るという日程で遠征している。久留米からゆふいんの森に乗り、由布院で降りて、さっそく由布院駅付近で撮影を行い、由布院からローカル列車で大分まで出ている。由布岳をバックにした画を撮ってようやく久大本線らしい画が手に入って満足して帰宅している。