EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR仙石線

2007年07月31日 | 東北

070722senseki205m18  仙石線には03年12月末の東北遠征で乗車している。この年は暖冬で、山形ですら雪がなく、仙台にも当然ながら雪はなかった。寒いのは寒いが思ったほど寒くなかったが、仙石線沿線は暖流が流れているところなので、東北でも比較的温暖で雪はあまり降らないと思われる。私が乗った時には首都圏から205系の転属が始まった時期で、JR東日本としては異例とも思える2WAYシートが導入されたりして、JR東日本も変わったものだと驚いたものだ。私が乗ったのは103系で2WAYシート車は後の列車で使用されていたので、石巻で1本見送って帰りに乗ることにして103系かぶりつきの旅を楽しんだ。私が乗ったのは快速うみかぜで、仙台出発時点ではかぶりつきどころか、首都圏を彷彿させる大混雑だった。本塩釜を出るころには混雑も収まってきていたが、帰省ラッシュと相まってついに石巻まで席にありつくことはできなかった。夕方の乗車だったため、日暮れが早い東北ではすぐに外が暗くなり、面白くない道中を過ごした。石巻では折り返し2WAYシート車を待って、今度は仙台まで普通の旅となった。仙台を通り越してあおば通までの乗り潰しをして宿舎に入った。地理に不案内なのに思い切ってあおば通で地上に出てしまい、見事に夜の仙台の街で道に迷い、結局ぱっと目につく仙台駅に戻って、そこから地図に従って宿へ向かった。

070722senseki2052way  2度目の仙石線も日が暮れてからの乗車となった。04年の東北遠征で太平洋側のローカル線各線を乗り潰して、石巻線の小牛田~女川間を乗り潰してから石巻まで戻り、石巻から仙台まで仙石線に乗った。日が暮れてからの乗車のため、不足がちな睡眠時間を補う場となっていたため、特に記憶には残っていない。この時はもうほとんどが205系に置き換わっていて、私が乗った電車も2WAYシートではない205系だった。

 3度目の仙石線は山形鉄道、福島交通乗り潰しにリンクして、新しく開業した仙台空港鉄道の乗り潰しも兼ねて仙台地区の鉄道を再訪問する計画を立て、明るい時間帯に仙石線に乗ることにした。乗るだけでは芸がないので、仙石線らしい写真を撮って帰ろうということで、ネットなどで撮影地を検索して陸前大塚付近で撮影を試みることにした。駅自体が海に隣接しており、十分仙石線らしさが出るところだった。せっかくだから陸前富山~陸前大塚間の有名撮影地も訪問しようと予定を変更して陸前大塚から歩いて陸前富山方面へ向いて歩いた…これが間違いで仙石線に並行して走る国道を歩いても防波堤が邪魔で撮りにくいところだったり、あまりいい撮影地が見つからなかった。国道から離れたところに撮れそうなところがあったように思うが、国道からは入ることができず、結局陸前富山まで30分以上歩いて半端な写真を撮って終わりという結果になってしまった。リベンジに高城町で降りて、高城川橋梁で撮影をして何とか満足して、松島駅から東北本線で帰路に着いた。

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JR東北本線(福島~仙台間)

2007年07月30日 | 東北

070721tohoku719h1  JR東北本線福島~仙台間には3回ほど乗っている。東北遠征の際は、たいてい東北新幹線を使うか、日本海側経由を使うため、真っ向から東北本線に乗ることは少ない。とりわけ福島~仙台間は東北新幹線と諸に被るため乗車機会にはなかなか恵まれなかった。04年夏に南東北、西東北へ遠征した時に、急行きたぐにで新潟へ出て、新潟から磐越西線の乗り潰しをして郡山へ出て、一旦磐越東線~水郡線などを経て、再び郡山まで戻り、郡山から東北本線を北上したのが、福島~仙台間の初乗りである。この時は701系を延々と乗り継いで仙台をスルーして盛岡まで北上している。私は初乗り路線にはかぶりつきをするのが基本なので、ほとんど立ちっ放しで東北本線のほとんどを制覇した。この時の帰りに阿武隈急行などに乗って福島まで出て、福島から今度は東北本線を南下して東北本線を完全制覇している。

 福島~仙台間には仙台シティラビットという快速が土休日に運転されているが、この列車を仙台や福島で見ることはあっても乗る機会には恵まれなかった。漸く乗る機会が訪れたのが、先日訪れた山形・福島・仙台遠征の時で、7月22日に山形から福島まで山形線ローカル列車で出て、福島から仙台まで快速仙台シティラビットに乗っている。同列車は719系のイメージが強く、かつては455系などが使用されているのを見たことがあったが、私が乗ったのは701系使用列車であった。仙台地区で701系快速は初めて見たが、ヘッドマークが付けられないのか、LEDの快速表示のみのため素気ない列車だった。快速としての走りはまずまずの印象だが、如何せん701系の走りは103系のそれに近く、最高速度で走るとモーターの唸りが物凄く、会話もままならない状況になる。701系は普通中心の運用として、快速にはJR東日本御自慢の?E721系を投入してほしいものだ。


JR山形新幹線

2007年07月26日 | 東北

070722yamagatas400  山形新幹線には04年の正月にJR東日本の正月パスを利用して東北地区各線などの乗り潰しをした時に初めて乗っている。仙台に宿泊して、朝一の仙台始発のこまちで秋田まで行き、秋田から折り返し快速電車で新庄まで戻った。グリーン車も乗れるタイプのフリー切符だったが、切符の入手が年末に東京入りしてからだったので、新庄からのつばさは指定しか取れなかったので普通車指定席で東京まで乗り通した。G車でないのが残念と言えばそれまでだが、窓側の指定を確保できただけでも感謝しなければならない。自由席だったら新庄での短い乗り継ぎ時間を考えればたぶん座れていなかっただろう。車内は山形からかなり混雑して満席状態だったので身動きも取れず、ずっと車窓を眺めているだけだった。動いたとしてもフリースペースなどないので、トイレに立つ程度なので、ずっと座っていたとしても仕方ない。そういった意味ではかぶりつき好きにとっては新幹線の旅はつまらないところもある。在来線を130㎞/h前後の速度で飛ばして、米沢からの峠越えではさすがの“新幹線”も速度を落として峠を下って行く。急坂を下っていくため抑速していかなければならないのだろうが、新幹線としては如何にも物足りない走りだった。新幹線との結合部の福島は通り過ぎただけで、MAXとの連結なども見ずじまいだった。

070722ouu719y8  山形新幹線にはそれ以来乗っていないが、板谷峠越えは普通電車でじっくり見てみたいという思いがあったので、機会があればもう一度訪れようという思いはあった。その機会はしばらくなかったが、個人的に目標としている乗り潰しが佳境に入り、JRはすべて制覇し、私鉄も残りわずかということで、山形鉄道や福島交通の乗り潰しを計画し、そこに板谷峠を越えるルートを組み込んで乗りに行ったのが07年7月21日、22日の南東北遠征だ。福島交通からの乗継ぎ時間が少なかったことと食料の調達に時間を要したこともあって山形線電車には発車数分前に乗り込むことになり、何とか席にありつけたという感じだった。車内は18きっぱーと思われる旅行者風や鉄風の人が多く、数少ない電車だけに山へ入る前の庭坂までの地元利用者も結構いた。庭坂までは新幹線との合流部以外は特に見るべきものはなかったが、庭坂からの山岳区間は改めて険しく、厳しい線路条件だと再認識した。次の電車がないため米沢まで乗り通し、乗り継いで赤湯から山形鉄道の乗り潰しに向かったが、何か消化不良を感じ、山形に泊まった翌070722ouutoge 朝、仙山線で仙台入りする予定を変更してもう一度朝一の山形線電車に乗り、途中峠駅で途中下車して、1時間後の次の電車で福島まで行くというルートに変更した。峠駅で降りたのは前日に峠の力餅の立ち売りをしていたのが印象に残っていたからだ。降りてみて失敗したと思ったのは全く撮影には向かない100%トンネル内の駅で、駅の出入り口もカーブしているため、明かり区間を行く撮影ができないということだ。後で確認したところ撮影には板谷の方が向いているということがわかり少し後悔している。とりあえず全く人がいないホームに一人降り立ち、719系下り普通、上りつばさ、下りつばさの3本の列車を苦肉の策で流し撮りしたりして峠駅を堪能した。次の上り普通が来る前に山の中から民宿の送迎と思われる車が2台ほど現われ、お客を降ろしていった。それとともにいつの間にやら峠の力餅の売り子のおばちゃん(前日車内から見たのはおっちゃんだったように思うが…)も現れた。電車とのマッチングを何とか撮ろうと到着した電車とおばちゃんが入った写真を撮ったが…。峠駅へ行かれる方は山形か福島に泊まって朝一の電車で同駅で降りて小1時間ほど楽しむのがベストだと思います。くれぐれも2番目の電車に乗って降りないように…ハイキングや登山好きの方なら次の電車が来るまで山を駆け巡るにはいい時間になりましょうが。電車の本数が極端に少ないので、気を付けるべし。

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山形鉄道

2007年07月25日 | 東北

070721yamagatafyr883  07年7月21日午前中に福島交通を雨の中乗り潰し、福島発12時54分の山形線普通電車で赤湯へと向かう。山形線には新幹線で一度乗車していたが、普通列車で乗るのは初めてだ。板谷や峠など興味深そうな駅があったが、時間と次の電車がないので下車を断念して米沢まで乗り通す。米沢までは719系だったが、米沢で701系に乗り換えて赤湯へ。どちらの標準軌仕様の車両でよく飛ばすが、車内などは何ら狭軌の車両と変わらない。赤湯からは山形鉄道で荒砥までの乗り潰しとなる。待ち時間に駅構内で山形新幹線つばさの撮影を行い時間を潰す。天気が良ければ山形鉄道乗り潰し後に赤湯近辺の田園地帯に繰り出して撮影をしようかと思っていたが、生憎の天気のため撮影は断念して早々に山形の宿に引きこもることにした。

070721yamagatafarato  山形鉄道は単行気動車での運転で、車内は小さな子供連れのお母さんの姿が目立ったが、赤湯出発時点ではかなり空いていた。混みだしてきたのは宮内を出たあたりからで、下校の高校生が大挙して乗り込んできた。今泉では米坂線との連絡がないためか、思ったほど乗り降りはなく、宮内からの高校生をなんぼか降ろす程度であった。南長井でまた高校生が大挙して乗ってきて、長井で案外乗り降りがなく、そのまま降りていく一方で終点の荒砥に到着した。荒砥は立派な駅舎があり、委託と思われるおっちゃんが集札業務とか駅に併設された資料館の管理をしているようだった。駅には紅花の植木があちこちにあり、黄色や紅色?の紅花が鮮やかに咲いていた。

070721yamagatafyr8832  荒砥からは芸もなくそのまま赤湯まで折り返し山形鉄道に乗った。荒砥からの乗車は少なかったが、長井から大量に乗ってきて、南長井から下り同様高校生が大量に乗りこんできた。今泉では米沢線上りと連絡していたこともあり、高校生の下車が目立った。宮内でも下り同様の乗降があり、終点赤湯では山形線乗り換えは少なく、赤湯下車が多かった。赤湯では山形新幹線上下列車を見送って、普通電車で山形まで行き、山形では即効宿に引きこもり、前日からの疲れを癒して次の日に備えた。


福島交通

2007年07月23日 | 東北

070721fukushima7105  昔話が続いてきたが、ここらで最新の乗り潰しを書いてみようかと思う。まずは乗りたてほやほやの福島交通から…。7月21日、22日に南東北の乗り残した私鉄の乗り潰しへ向かうべく仙台空港鉄道が開業した3月頃から計画を入念に立て、博打とも思えるANAの旅割予約を2か月前に済ませて遠征を実行した。2か月前に当日が雨が降るとは思ってもみなかったので、当然ながら雨天決行。旅割のキャンセル料は恐ろしく高いので、花よりも実を取り、乗り潰しに専念するということで撮影は半ば断念しての強行軍となった。しかも、悪いことに計画では大阪から急行きたぐにに乗り、新潟から白新線~羽越線~米坂線と乗り継いで今泉に出て、山形鉄道を潰してから福島へ向かって福島交通を攻める行程を組んでいたが、1週間前に発生した中越沖地震により信越線が不通となり、当然ながら急行きたぐにも長期運休ということで計画が白紙に戻った。通常なら旅行を取りやめるところだが、旅割の件もあったので、ルートを変更して実行することに…うまい具合にサイバーステーションを当たってみるとサンライズ出雲の指定に空きが出ていたので、速効チケットをGETして、東京回りで旅程を組んで南東北征伐へと出陣した。

070721tokaido285  20日深夜に大阪駅に着き、日付が変わった21日の0時34分のサンライズ出雲に乗車。週末だけに満席だったが、個室の入り具合は今一つだったよう。指定券だけで乗れるのびのび座席と個室とは言え、暴利と言える寝台料金がかかる個室寝台では人気の差が出て当然と言えよう。横になれるというメリットだけを追求すればのびのび座席はかなり使える代物と言える。但し、枕がないという欠点はあるので、この席を利用される方は枕を準備するか、枕代わりの物を持参しなければならない。

 東京到着後は新幹線で福島へ070721tohokuse4p3 飛ぶ。18を使用するつもりで、東京から在来線を乗り継ぐことも考えていたが、サンライズが10分程度遅れたことと、福島での余裕時間を考えて清水の舞台から飛び降りて新幹線に乗った。18も福島~山形間で一部途中下車して使用するだけなので如何にも勿体無いが、私鉄乗り潰し優先なので仕方ない。福島まで乗ったMAXやまびこは指定席こそ満席だったが、自由席はほんまに指定満席か?というような乗り具合だった。リクライニングしない3-3シートは好きになれないが東海道山陽からは消えてしまった2階建ての眺望は捨て難いものがある。

 福島までは何とか空模様も持ってくれていてドン曇りという感じだったが、福島に着いて、少し山形新幹線の撮影などをしていると雨が降り出し、本命の福島交通に乗る頃には土砂降りになっていた。雨に降られては撮影もままならないが、とりあえず屋外での撮影は無理なので駅撮りだけで我慢して、飯坂温泉までのミニトリップを楽しんだ。終点が温泉地だけに観光客が多いのかと思っていたら、以外にも地元の利用者が大半を占めており、予想以上によく乗っていた。利用者層も高校生やお年寄りだけでなく、幅広い利用者層が見られ、県庁所在地福島近郊の足として役割を担っている印象があった。こういった利用者の動向をみるとくりはら田園鉄道や近々廃止になる三木鉄道などのようにJR線でも都市から離れた近郊の駅から発着しているという路線よりも、福島交通のように県庁所在地級の都市に中心役を構えて郊外へ路線を延ばしている路線は強いなと思う。各都市にはモータリゼーションなどから廃止に追い込まれた私鉄路線も多いが、農村部を走るJRの赤字ローカル線と比べれば利用者も多かっただろうし、立て直す余地もなんぼかあったと思われる。福島交通も安穏とはしていられないだろうが、利用者を維持していく素地は十分にあると思われる。福島市民と一体となった鉄道として末長く活躍をつづけてほしいものだ。

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阪神西大阪線

2007年07月22日 | 近畿

050604hanshinnishiosaka7837  阪神西大阪線に初めて乗ったのは学生時代に暇潰しに阪神本線をぶらぶらしていて、そのついでに尼崎から西九条まで乗った時だ。西大阪線と言えば難波延伸計画が昔からあり、私が学生の頃は川島令三本の中だけの話に思えたが、今では立派に工事が進んでおり、09年春には開業予定となっている。私が初めて訪れた時には西九条の途中で途切れた高架が痛々しく目に映ったが、今では環状線を越えたところから難波方面への工事が進んでおり、もうすぐ環状線をオーバークロスする線路も架けられるものと思われる。全く持って隔世の感がある。西大阪線は今でも阪神では古参の7801形が使われているが、これも近々1000系に置き換えられていくものと思われる。7801形が西大阪線から撤退した後、共通運用となっている武庫川線ではどうなるのか見ものであるが、運用が分離されると見るのが妥当なところだろう。西大阪線は今の4両編成から、すべての電車が6両編成以上になり、近鉄の快急や急行運用では10両編成も見られるのだから武庫川線とは一線を引かれるものと思われる。もっとも裏技で1000系付属編成を武庫川線で間合い運用するということは考えられなくはない。


阪急千里線

2007年07月21日 | 近畿

050621hky73052  阪急千里線は淡路~天神橋筋六丁目間は子供のころから天王寺動物園へ行くルートとしてなじみがありよく利用していたが、淡路以北の北千里方面についてはしばらく乗ることはなかった。北千里まで初めて乗ったのは高校になってからだ。学校行事で北千里に集合という鉄としては誠に好都合な行事があって、その時に千里線乗り潰しを達成している。それ以後は以前と同じく天六方面へは何度も乗っているが、北千里方面はほとんど乗らずという日々が続いた。久しぶりに淡路以北で乗ったのはモノレールとの乗り継ぎで山田から淡路まで乗った時で、この時はホームページ用の写真が欲しくてわざわざ千里線に出向いている。その後も05年春に千里線のホームページ強化のために北千里まで往復しているが、それ以外はほとんど乗ることはない。撮影にしても、千里線沿線で撮影することは稀で、たいてい淡路で済ませることが多い。淡路近辺は今後高架化される予定なので、ここで記録するのも貴重な資料になっていくだろうが、もう少し千里線沿線での撮影にも励んでおきたいところだ。


JR東西線

2007年07月20日 | 近畿

02gaken20715  JR東西線は1997年3月に開業した。開業時に私は九州へ旅行していたので、九州から帰って何日か前の新聞を見て(新聞ではなく旧聞か?)東西線開業を実感した次第だ。そういうことで東西線は開業時には乗りに行くどころか、開業フィーバーを伝えるテレビニュースさえ見ていなかった。学生時代は開業直後の鉄道に乗りに行くという趣味はなく、開業後しばらくして落ち着いてから乗りに行くというスタンスだったので、東西線もそのような形で、開業後しばらくしてから乗りに行った。乗りに行ったといっても大半が地下線のため、地下鉄に乗りに行ったという感覚だった。207系ばかりが走り、開業前にあれやこれやと考えたダイヤも東西線内は全て各駅停車というマニア的にはあまり面白く結果もあり、学生時代は就職活動のついでなどで乗る以外はあまり縁がなかった。

 HPを作るようになって、デジカメでバカバカと馬鹿写真を大量増産するようになってからは東西線も何度か訪れ、夜間に運転される珍しい奈良行き快速を撮るために、遅い時間まで張り込みをしたり、区快や早朝に走る木津行き普通など物凄くマニアックな電車の撮影に出向いたり(アホみたいに早起きして撮るのが207系普通木津行きとは…マニアでもなかなかできることではないはず)、面白みに欠ける路線を何とか面白く楽しもうというわけのわからん努力をして数は少ないものの何度か足を運んでいる。

 東西線自体は開業からあまり変化なく推移してきているが、外環状線開業により運転系統が開業以来激変することが予想され、今後の動向が注目される路線の一つとなっている。東西線の東の相方学研都市線の松井山手~木津間では7連化の計画があり、開業以来207系しか走っていない東西線に321系が乗り入れてくる可能性が高くなり、さらに223系も東西線乗り入れ対応を仄めかす2パンタ仕様の車両が登場しており、近い将来東西線の車両もバラエティに富んだ布陣となる可能性がある。


JR関西空港線

2007年07月19日 | 近畿

051127kansaikuko2234  JR関西空港線に初めて乗ったのは95年に南海の初乗りの帰りにりんくうタウンから関空快速に乗っている。南海本線のところでも書いたが、学生時代で裕福な暮らしをしていなかった(今もあまり変わっていない)ので、ケチって関空まで足を延ばさず、りんくうタウンで折り返すという始末だった。関西空港線を乗り潰したのは、96年秋に使用した鉄道の日記念のフリーきっぷを使用した時だ。18での関空入りも検討していたが、関空のために18を使うのもアホらしいので、関空乗り入れにちょうどよいフリーきっぷがあったので、それを使って関空乗り入れを果たしている。当然ながら関空特急はるかには乗ることができないので、関空快速での関空入りとなった。帰りは奮発してラピートに乗っているが、はるかにはしばらく乗ることはなかった。

Haruka8  関空自体も海外旅行をするでもなく、しばらく遠ざかっていた。再度訪れたのは、JR西日本の年末年始のフリー切符を利用して西日本各地を乗り回した2001年の正月の時だ。この時はHPを始めて間もない頃で、まだデジカメも持たず、コンパクトカメラで適当に撮影していた出だしの頃だった。行く年来る年を能登の車内で迎えて、直江津できたぐにに乗り換えて引き返すという荒業を使い、京都まで戻り、京都から関空特急はるかに乗って関空まで乗り入れている。当然ながら関空を利用するのではなく、鉄のみで訪れている。伊丹からは何度も飛行機に乗っているが、関空から飛行機に乗ったことは未だにない。だから関空は鉄活動で訪れたことがあるだけだ。関空到着後は折り返しのはるかで速攻新大阪まで戻り、大阪へ出て白鳥で最後の旅を福井まで楽しんでいる。翌年も年末年始のフリー切符を利用しているが、この時は新大阪~京都間ではるかに乗っただけで関空にまでは乗り入れていない。新大阪駅ではるかに乗り込む際、関西空港には行きませんと車掌に引き留められ少々恥ずかしい思いをして京都まではるかに乗車したのを思い出す。マニアがマニアたる行動をするのに恥ずかしいもへったくれもないが、私は結構人の目を気にしながら鉄活動をしている。


南海本線

2007年07月18日 | 近畿

051127nankai50506  南海本線には学生時代に授業の関係などで時間が空いた時に何度か乗って、難波~和歌山市間を乗り潰している。学生になる前は南海は全く一度も乗ったことがなかった。南海と言えば私が物心ついた時には既に弱小球団だった南海ホークスかこうや号の印象ぐらいしかなかった。じゃりんこちえにも登場する大阪の下町の電車に乗ったのは華やかに関空が開港してから1年経った95年のことだった。初めて乗った時は関空まで行く料金をケチって手前のりんくうタウンで降りて、帰りはJRの関空快速に乗って帰った記憶がある。確か9000系空港急行に乗ったが、南下するに連れて段々利用者がいなくなっていくのには驚いた。普段乗っている阪急やJR京都線などは都市間輸送を担っているため、両方向へ利用の流れがあるが、南海や近鉄は片側が和歌山や奈良という都市であっても、京都や神戸ほどの規模ではないし、さらにそれらから外れると大阪方面への片輸送が顕著になることを実感した。阪急宝塚線などでも同様のことが言えるが、印象としては南海の方が片輸送の印象が強いように思えた。関空開港後1年経って、輸送が思ったほど振るわなかったという情報を頭に入れて乗っていたところもあるだろうが、それ以後南海が不振を続けていき、現在のような減量ダイヤに陥るとは思ってもみなかった。

051127nankai1003  南海の看板と言えば高野線のこうや号という印象があり、子供の頃に一度だけこうや号を見せてもらうということで難波駅に連れられたことがある。この時は冬場で車両点検のため運休しているということでこうや号を見られなかった。それ以後南海とは何の関わりもなしに過ごしていったが、関空が開港して南海の主役は高野線のこうや号から本線のラピートへと移っていた。従来の鉄道のデザインの殻を打ち破る斬新なデザインで登場したラピートだが、空港景気が過ぎると閑古鳥が鳴くようになっていた。そんなラピートに初めて乗ったのは、96年秋に鉄道の日記念の乗り放題切符をJR西日本が初めて発売した時に、近畿圏の乗り回しにそれを購入して、関空へ初乗入れした時の折り返しに、JRから離れてせっかくだからと大盤振る舞いで南海のラピートに乗って難波まで戻った時だ。当時のラピートは今のように主要駅停車タイプではなく、関空から難波までノンストップのラピートαだった。当時はαとβが交互にそれぞれ60分毎に運転されていたが、今はその面影もなく、αは実質的に消滅した形になっている。ラピートαは難波~関西空港間を29分で走っており、短いトリップだったが、あの時は奮発してデラックスシートに乗って、ドリンクサービスを受けて小さな贅沢をしている。学生時代はアルバイトで稼いだ小銭で小さな贅沢を味わって満足していたことが多い。今では逆にそんな小さな贅沢さえせず、見た目ケチケチな鉄活動をして満足している。鉄活動の内容の濃さとしては昔は薄口で今は濃口の活動をしている。どちらがいいのか何とも言えないが、鉄という観点からは今の方がはるかに充実した活動をしていると言える。

051127nankai100102_1  ラピートに乗ったのはその1度きりで、あとは3DAYチケットを使って南海各線の乗り潰しをした時に和歌山港から特急サザンの指定に乗ったことがあるぐらいで、それ以外で南海の座席指定券が必要な特急には乗っていない。子供の頃憧れだった特急こうや号にも乗っていないので、次は特急こうやに乗ってみたいと思う。また、ラピートはまだ登場から10年ほどしか経っていないが、サザンに関してはそろそろ新型への置き換えも期待したいところだ。1000系の足回りにラピート級の車体を載せた新車を阪和特急再興のために投入して欲しいものだ。

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JR羽衣支線

2007年07月16日 | 近畿

031206hagoromohigashihagoromo  阪和線羽衣支線には学生時代とHPを開いてから撮影目的で乗った2回の乗車がある。学生時代は暇な時ぷらぷらっと電車に乗って出かけることがよくあったが、その際についでに乗り潰しということで、羽衣支線は乗っている。阪和線と南海本線の両方を楽しむ方法としては和歌山まで行って、紀勢支線に乗って両線に乗るというのがベタだが、お金がない時はそれも出来ないので、安上がりな羽衣ルートを使うことにしたのが羽衣支線乗り潰しの理由と言える。同じような理由で空港線などにも乗っているが、関西空港までは料金が跳ね上がる為敷居が高く、関西空港に乗り入れたのはJRのフリー切符を利用した時だけだった。たいていはりんくうタウン折り返しが常套手段だった。そんなことで羽衣支線の乗り潰しは達成したが、JR発足後クモハ123が走っていた羽衣支線も私が乗った時には103系に置き換わっており、何の楽しみもない路線と化していた。2度目も同様で、印象としては1駅ながら阪和線と南海本線のフィーダーの役割を担っているのか案外人が乗っているという感じがする。和田岬線のように通勤路線でもないので、地域に密着した本当の意味での下駄電的な役割をする路線なのかもしれない。


JR宝塚線・福知山線

2007年07月15日 | 近畿

051225takaraduka221b12  JR福知山線を全線制覇したのはあまり記憶が定かではないが、18きっぷで福知山線~山陰本線~嵯峨野線と大阪~京都へ1周した時と思われる。それ以前にJR宝塚線は大阪~宝塚間で阪急との乗り比べで何度か乗っている。といってもJR発足後数年経ってJR宝塚線がかなり発展してからの話だから、福知山線と呼ばれていた時代に客車列車が走っていた時には全く乗っていない。小学校の頃、武庫川に釣りに行ったときに道場付近で電化後の福知山線を見たことがあるが、この時はまだ黄色い非冷房の113系が2連で走り回っており、207系や321系、221系が走り回る現状には程遠い感じだった。

01takaraduka1031  JR宝塚線に初めて乗った時にはまだ丹波路快速はなく、快速は117系だった。また、朝夕には福知山の113系が乗り入れ、快速も福知山まで終日直通している時代であった。JR宝塚線は阪急に比べて速いという噂だったが、速いのは所要時分だけで、走り自体はそんなに速くもなかったというのが第一印象だ。とりわけ尼崎を出てからは制限が厳しい印象を受けており、福知山線事故が起きた時になんであんなところで120km/h以上も出すのか…と唖然としたものだ。117系が走っていた時代は阪急より速いとはいっても車両サービス面でまだまだという印象だったが、東西線が開業して207系が01takaraduka117c52 走り始め、さらに221系が玉突き転配で入ってきて丹波路快速として走り始めてくる頃から阪急と遜色ない車両が走り始めた印象がある。本線と直通する普通が321系になり、JR宝塚線の通勤電車は朝夕に走る113系を除きJR型車両に統一された。113系の方も宮原に新製の223系が配置されているので早晩置き換えられる予定だ。国鉄末期に近い時点まで客車列車が走っていた路線がいまやJR型の新しい電車ばかりが走るJR西日本最先端の路線となったのには驚かされる。並行して走る阪急の影響力と発展を遂げた三田地区への輸送力向上がそれを後押ししたのだろう。今後は近距離のみならず中長距離輸送にも力を入れてもらい特急北近畿の183系の置き換えが目下の課題となろう。

060212fukuchiyama113n3  福知山線の新三田以北へはそれほど回数は乗っていないが、北近畿方面への鉄活動や山陰への抜け道として何度か利用しており、加古川線とのリンクなどで数回は利用している。当初は快速が福知山まで直通していたので117系に大阪から通しで乗るということが多かったが、丹波路快速設定時に篠山口で運転系統が分断されてしまい、朝夕の時間帯を除いて福知山方面へ普通で行くには篠山口で乗り換えが必要となってしまった。篠山口までは221系で快適に移動できるが、篠山口以遠は113系改造の鉄仮面みたいなおかしな面をした113系3800番台2両編成に乗ることになり、篠山口まで座れていても、ここから先は座れないという事態も多くなっている。JR西日本はローカル線とアーバンネットワーク各線との格差が大きいが、ローカル線でも自治体が金を出すところにはいいクルマが入っている。福知山線沿線から資金を出してもらうのは厚かましいが、JR宝塚線での儲けを少し配分して福知山線篠山口以北にも125系並みの新車を入れて欲しいものだ。最もそれよりも先に183系置き換えが急務というところもあるので難しいところだ。

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JR播但線

2007年07月12日 | 近畿

041011bantanteramae3  JR播但線は学生時代に比較的近所を走っているのでいつでも乗れるという感覚で同じ播磨地区を走る姫新線や加古川線同様しばらく放置した状態だった。98年夏の中国地方遠征の際に、ムーンライト九州を利用したが、京都から岡山まで1枚使わざるを得ないということで、ムーンライト乗車前に姫路から播但線~山陰本線と渡り歩いてムーンライト九州の始発駅京都に戻るルートで播但線の乗り潰しをした。私が乗った時には播但線名物だったレッドトレインの姿はすでになく、姫路~寺前間は電化されて103系が走るようになっていた。寺前以北は気動車が走っていたが、キハ47改造の妙な顔の単行気動車が走っており、車内は小奇麗にはなっていたものの、運転本数などとともに寺前以南と寺前以北での格差が感じられた。

070210bantan18147kani  その後播但線は姫路で103系の姿を見るぐらいで乗ることはなかったが、04年10月11日には再び鉄道の日記念切符を利用して乗っている。おもに沿線の撮影が目的であったが、下車して撮影地にて撮影ということはしていない。沿線での撮影はクルマを利用して餘部まで撮影に行った07年2月10日に行っている。この撮り鉄以外でも何度か播但線と並行して走る播但道を走ってはいるが、播但道も得てして空いている。国道312号線は9号線との合流付近などで混み合っているが、交通量はそれほど多くない。播但線も含めて人口の割に交通手段が多すぎる印象がある。淘汰されていくのは鉄道の方になるかもしれないが、神戸と北近畿の中心豊岡とを結ぶ短絡ルートとして活用していくには電化及び線路の改良などによる高速化が必要と思われる。


近鉄けいはんな線

2007年07月11日 | 近畿

060422keihanna7104  近鉄けいはんな線は生駒~学研奈良登美ヶ丘間開業後1カ月後に乗り潰ししている。同線の前身とも言える近鉄東大阪線には学生時代に乗り潰ししており、大阪市交中央線と合わせて乗っている。近鉄奈良線で生駒へ出て、生駒から東大阪線に乗り、中央線を抜けて堺筋本町へ出て堺筋線経由で茨木市まで帰るルートやその逆ルートで何度か乗っている。いつ乗っても昼間は空いているという印象で、最近こそ徐々に利用者が増えてきている印象はあるものの、近鉄奈良線と比べるとやはりあまり乗っていない印象だ。近鉄奈良線のバイパスルートとして開業し、けいはんな学研都市への足として機能し始めては来ているが、如何せん通勤以外では乗り入れ先の中央線がビジネス街を貫いているだけの路線のため、魅力に乏しいところもあり、大阪のミナミへ乗り入れる奈良線に比べると見劣りする印象がある。学研都市の計画も中途半端で開発が延々遅遅として進まないが、けいはんな線もそれに合わせるかのように学研奈良登美ヶ丘までの延伸はしたものの、それ以遠への延伸の計画は今のところ白紙状態だし、生駒以西での急行運転なども計画として挙がることはあっても実現する方向にはなかなか動かないし、こちらも延々遅遅として利用者が増えていかない状況にある。景気は回復してきたものの関西の景気回復は遅れており、阪神大震災以降東京との経済格差が広がるばかりの現状では京阪奈学研都市の発展もなかなか期待できる状況にはない。同士討ちにはなるが、近鉄奈良線のガス抜きとして、生駒以東で奈良線と相互に直通できる集電システムの開発などを行い、何とかけいはんな線の起爆剤となるようしていかないと莫大な建設費をかけて路線を造った意味がなくなるのではなかろうか?


JR山陰本線(米子~出雲市間)

2007年07月08日 | 山陰

040828sakai511188izumo2  JR山陰本線米子~出雲市間は98年夏に宍道~米子間を制し、残りの宍道~出雲市間は01年末の遠征で制覇している。98年夏は木次線からの直通列車で松江まで行き、松江からキハ58系快速とっとりライナーに乗り、倉吉まで直通している。倉吉からはスーパーはくとの初乗りで帰阪した。この当時はまだ山陰西部も山陰中部も高速化前で、キハ58やキハ181が我が物顔で山陰本線を闊歩していた時代だ。01年末はJR西日本の年末年始のフリーきっぷを利用し、30日夜のだいせんで篠山口まで別途料金を支払って乗車し、日付が変わった篠山口からフリーきっぷを使用して、米子まで乗り、米子からスーパーおきで江津までの乗り残し区間を潰して、江津から折り返しスーパーくにびきに乗って米子まで戻っている。この時は米子にて今はなき寝台特急出雲との並び写真が撮れている。スーパーくにびきも後にスーパーまつかぜに統合されてなくなっているので今となっては貴重な画だ。この後、倉吉まで快速とっとりライナーに乗り、キハ58の走りを堪能して、倉吉からはやはりここでもスーパーはくとに乗っている。

030726saninyonago4  その後山陰には何度か通っているが、03年7月26~28日の遠征では山陰ディスティネーションの企画フリー切符を利用して、境線の乗り直しと一畑電鉄の乗り潰しをしている。このときは山陰西部は高速化後で、キハ187系、キハ126系が米子(キハ187系は鳥取まで)まで顔を出していた。山陰中部は高速化前夜で特急こそキハ187系が中心となっていたが、快速とっとりライナーはキハ58系が使用されていた。山陰中部の車両は塗装が国鉄色になっており、山陰本線はまさに国鉄天国であった。山陰中部の高速化により、キハ58はキハ126などに置き換わったが、キハ47はまだまだ健在だ。

040828sanin47126  04年8月28日には秋のダイヤ改正で廃止になる急行だいせんの惜別乗車と木次線乗り直し、芸備線備後落合~新見間の乗り潰しを目的に再度山陰本線中部を訪れている。この時は松江でサンライズ出雲、宍道で出雲を撮影している。出雲は引き過ぎてDD51が一部欠けてしまったが、いいお天気の中出雲を撮影できたのは今となってはよかったと言える。この時は山陰本線高速化がすべて完了していたので、米子から倉吉までいったん引き返してキハ126系快速とっとりライナーを初体験している。キハ47系列が残るとはいえ、キハ181系さらにキハ58系が消えた山陰は既に国鉄色が薄れた地域となっている。

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