大宮での夜行3連発を終えて、ここで一旦ブレイクダウンするつもりだったが、雲行きが怪しいこともあり行程を前倒しすることにした。中央線へ抜けるのに臨時快速に乗るつもりだったが、そこまで待てないので、埼京線~武蔵野線経由で西国分寺へ出て、そこから中央本線を乗り継いで甲府へ。甲府から身延線に乗るルートで帰阪する。このルートを選んだのは中央本線、身延線ともに以前乗った時に雨に降られたことがあったからだが、今回もその時以上の雨に降られ、身延線の途中の道中までは土砂降り状態で、途中電車が止まったらどうしようかと言うぐらいの降りだった。身延線で乗った列車は313系2連で車内は快適だったが、ダイヤは途中身延で長時間停車があるなどあまり楽なダイヤではなかった。18旅行の醍醐味と言えばそれまでだが、予定行程よりも2時間近く早く出ても1時間詰められる形で富士へ到着すると言う有様で、行程を前倒しした意味があまりなかった。富士から先は18で東海道を下る予定だったが、所用が出来たため静岡から京都まで新幹線でワープすることにした。
04年8月7日の夜に松本に着いて、松本駅前のホテルに1泊して、朝から大糸線乗り潰しに挑んだ。この頃はまだ私鉄に手を出すことは少なかったので、松本電鉄は時間の都合などでスルーしている。松本から乗った大糸線電車は東北で見飽きるほど走っている701系スタイルのE127系だった。座らず前面かぶりつきで終点まで乗ったので、快適もへったくれもないが、701系と違い、一部にクロスシートを配置している点は観光路線である大糸線ならではの仕様と言ったところだろうか。大糸線の道中は非常にのんびりしており、景色もいいが、ここの路線は北アルプスの山々に雪が残る春の季節が一番見どころのある季節なのかもしれない。暑い夏に高原の空気を吸いながら、たまにE351系やE257系の特急とすれ違い、189系仕様のムーンライト信州の回送などを見ながら終点の南小谷まで乗り通した。南小谷では対面側にキハ52系が鎮座していた。JR西日本ご自慢?の旧型気動車はちょうど国鉄色に塗り替えられた時期で、国鉄ファンにはたまらない車両の一つとなっていた。完全に通勤型の様相のE127系との並びを撮って、そそくさとキハ52系に乗り換える。車内はそこそこ混雑しており、鉄っちゃんだけではなく、登山家というようないでたちの人も多かった。前日に大雨が降ったのか、沿線を流れる姫川はかなり水が濁っており、水量もかなり多かった。大糸線は同川の氾濫により一時期廃止も危ぶまれたことがあったが、沿線の景色を見る限り、今後も川の氾濫との闘いはまだまだ続くものと思われる。
JR飯田線は学生時代から乗り潰ししようしようと思いながらなかなか乗れなかったいや乗らなかった路線である。どう考えても時刻表を見ると1日がかりの乗り潰しとなるため、車内での退屈や効率の悪さなどがネックになって学生時代から敬遠してきた。乗り潰しに本腰を入れるようになって、いよいよ飯田線狩りに出なければならないようになって、04年夏に乗り潰し計画を立てた。早朝茨木を出て、限界いっぱいで豊橋に着くスジでも10時前後になるので、それ以降の豊橋発の飯田線電車でうまく終点の岡谷(辰野)まで辿り着けるスジを探って、日暮れ前に一旦岡谷に着いて、中央線旧線を通って塩尻、さらには宿を取っていた松本へと至るルートで乗り潰すことにした。翌日は大糸線を北上して北陸に抜けるルートを辿っているので差し詰め中日本縦断ルートを辿る旅と言ったところだ。
18シーズンで激込みの新快速で豊橋入りして、豊橋で待ち時間があったので、きし麺を食べて、飯田線ホームに入って名鉄電車をついで撮りしながら列車を待ち、天竜峡行きの119系に乗り込む。途中まで先頭でかぶりつきを楽しんでいたが、どこの駅からかは失念したが、運転席後部が荷物室となるため、立ち入り禁止となった。かつての荷物電車、新しいところでは223系0番台が行っていたような部分荷物室を目の当たりにした感じだった。珍しいものが見られたもののかぶりつきは途中で終わり、あとは座席について普通に景色を楽しむ(普通の旅行はそんなもんですけど)ことになった。この後天竜峡で1回乗り換えがあり、373系特急伊那路がやってきたりして、飯田線の旅を楽しみながら北上していったが、飯田を過ぎて、長野県に入ってから雲行きが怪しくなり、途中で雷雨と落雷による停電のため、どこだったか忘れたが途中の小さな駅で抑止を食らった。1時間以上抑止を食らった記憶があるが、これにより日暮れまでに岡谷に着くという行程は脆くも崩れ去り、岡谷に着いた時にちょうど日暮れになったところだった。岡谷から一旦戻る中央線旧線の旅は暗闇の道中となり、その日の目的地の松本に着いたのはどっぷり日が暮れて、駅構内の店も閉まるような時間だったのを思い出す。
03年12月31日に仙台で一泊して、04年1月1日はJR東日本の正月パスで東日本の新幹線の旅を楽しんだ。前日には山形でマフラーを忘れる失態を犯しているが、駅員さんのご厚意により着払い宅急便で自宅へ送って頂けることになり、安心して正月パスの旅を楽しむことができた。実は山形新幹線に乗って山形を通ることになっていたのだが、山形はスルーする行程だったので、山形で忘れ物を受け取る時間がなかったので、駅員さんのご厚意に甘えた次第だ。今思い返せば詰まらぬ乗り潰しのために駅員さんに迷惑をかけて恥ずかしい限りだ。この場を借りてもう一度お礼を言いたい。“山形駅の駅員さんその節はありがとうございました!”
04年1月1日は東北新幹線こまちを皮切りに、秋田新幹線~奥羽本線~山形新幹線と乗り継いで東京へ戻ってきた。朝から仙台の牛タン弁当を食して体力を付けて臨んだが、東京へ着いた頃には車内が混雑していたこともあり少々疲れていた。回数限定でグリーン車も乗れる切符だったが、つばさはグリーンが満席だったので、指定で新庄から東京まで乗り通したが、如何せん在来線規格の新幹線だけにシートピッチが狭く、車内が混雑しているため動き回ることもできず、疲れる道中だった。東京で息つく間もなく、続いて乗車したのが今日の本題である長野新幹線あさまだった。こちらはグリーン車をGETできたので悠々と長野まで過ごすことができた。元旦というのにグリーン車も利用者が結構いたのには驚いた。明らかに鉄人らしき人間は見かけなかったが、正月パスの利用者も多かったのかもしれない。西日本でも正月にはフリー切符が発売されて何回か利用しているが、東日本は正月以外でもフリー切符の類の切符を販売している。西日本では期間限定以外フリー切符の定期的な販売はない。西日本や他のJRでも周遊きっぷに変わるようなフリー切符の登場を期待したい。E2系は03年夏の北海道遠征の時に一度乗車しているが、グリーン車は初乗車だった。さすがに重厚感のあるシートでゆったりくつろげたが、同じようなシートでもっと廉価で乗れる列車が新大阪~博多間に走っているのを思い出すと通常料金で乗るには物足りないなと思う。九州ではワンドリンクサービスがあるが、各社ともグリーン車ではワンドリンクサービスぐらいは欲しいものだ。長野まではあっという間に着いたが、峠越えらしきものはあったもののトンネルばかりで少々退屈な道中だった。鉄っちゃんとしては長野までの道中はやはりあれがなければ…と思う。
弥彦線の乗り潰しをそそくさと終えて、東三条から再び信越本線を西へ向かい長岡へ。長岡から上越線に乗り換えて一路飯山線と接続する越後川口へ。しかし、ここで抑止がかかる。ここまで来て既に見飽きた感があった115系だったが、ここへ来て当該列車に不具合発生とは…。運転士さんが必死にあっちこっち動き回り車両の点検を行い、何分遅れになったか忘れたが、とりあえず発車できるようになった。飯山線との接続はそれなりに時間に余裕があったものの、長岡発車時点では既にアウトに近い時間だったのは覚えている。車内放送に耳を傾けながら、越後川口での飯山線との連絡があることを確認してほっと一息つく。越後川口では115系ばかり見てきたのでなんとなく新鮮に映ったキハ110系が到着を待っていてくれた。私が乗った列車は展望車両として千曲川側の座席が窓側に向いた車両が連結されており、雪深い道中をその“ロングシート?”に座りながら楽しんだ。雪が降ったりやんだりの道中で、只見線と並ぶ豪雪地帯路線の景色はさすがに白一色だった。途中戸狩野沢温泉駅で乗り換えを挟み、引き続き長野を目指して雪の中を走った。途中スキー客などで車内は一杯になり、少々遅れが生じていたので、長野まで行かず、豊野で降りて信越本線に乗り換えて、長躯新潟まで戻った。新潟に着いたのは20時過ぎ。宿に入ってぐったりしたのは言うまでもない。思い返せば乗り潰しも楽ではないなと改めて思う。[E:weep]
JR越後線の乗り潰しを終えて、柏崎から豪華デラックス快速のくびき野に乗って東三条へ。485系に18きっぷで乗れるとは一昔前には感動ものだったが、前夜に485系ムーンライトえちごに乗っているだけに色が変わったのと車内がグレードアップ車なのでセミハイデッカになってちょっぴり豪華になっただけで、“感動”という言葉にまでは至らなかった。長岡を境に旅客が入れ替わり、新幹線がある長岡~新潟間での利用の方が多かった。新幹線の恩恵がない駅での乗降が多く、東三条も燕三条が近いものの、乗降がかなり多かった。東三条からは弥彦線塗装?の115系ワンマン列車で吉田へ。越後線同様弥彦線も吉田での系統分離が多いようだ。ここで乗り換えて同じ115系ワンマン電車で弥彦行きに乗って終点の弥彦へ。終点の弥彦は弥彦神社の本殿を模した駅舎があり、観光気分を盛り立てる駅だった。年末とあって初詣の準備がされており、ゆったりとした時間の流れの中にも新年を迎えるにあたっての慌ただしさも垣間見られた。私の旅にはほとんど観光という言葉が見当たらない味気ない旅だが、ご多分にもれず弥彦神社を訪れることもなく、折り返し電車で東三条へと戻った。乗り潰しというより乗りつくしの旅なので、余裕時分など全くない。この辺りは最近反省して、少しは観光や沿線を見て回るようにしているが、相変わらず質より量の旅をすることが多い。私鉄乗り潰しが終われば、乗り潰し鉄道は国内にはなくなる(海外にはうんざりするほどあるが…宝くじでも当たれば海外乗り潰しを考えようかな[E:happy02])ので、ゆっくりした旅を楽しみたいものだ。
武蔵野線乗り潰しの続きになるが、西船橋から京葉線に入り、海浜幕張や新木場で撮影して、初乗りのりんかい線に乗って大崎へ抜けて、しばらく都内で時間を潰して、ムーンライトえちごに乗って次の乗り潰しのターゲットである新潟へ向かった。ムーンライトえちごは165系時代に何度か乗っているが、グリーン車の座席を再利用したシートは非常に快適だった。夜行なので窓割りが合わないのはどっちでも良かったし、リクライニングの角度が深いのは何より嬉しかった。それから置き換わった485系ムーンライトえちごに乗ったのはこの時が初めてで今のところ最初で最後の乗車になっているが、普通の485系のシートを使用しているため、以前の165系ムーンライトえちごに比して見劣りした。あまりゆったり眠れぬまま新潟に着いて、まだ夜も明けきらぬ中越後線の乗り潰しにかかった。701系もどきのE127系に乗車した。早朝の一番寒い時間に乗ったので、車内は寒々としているかと思ったが、暖房がよく効いて心地よい車内だった。この辺りはさすが雪国を走る電車だけに首都圏よりも車内は暖かい感じがした。この年末に遠征した九州で寒い思いをしたので、E127系の車内の暖かさが身にしみた。ロングシートでローカル線の旅としては味気ない旅路ではあったが、モータを唸らせながら走る道中は関西の103系のようで、なんだか懐かしい感じがした。吉田で115系に乗り換えて、今度は正真正銘の国鉄車による旅となった。年末の朝方の利用だけに乗客は少なく、のんびりした道中だった。信越本線に比べて海側を走るので、もっと海が見える路線なのかと思っていたが、意外にも海は見えなかった。一部暗がりでの道中もあったので、もう一度全線明るい時に乗りたいものだ。
JR上越新幹線の乗り潰し達成は2001年12月20日に達成している。仕事で新発田方面へ出張するのに新幹線を利用することになった。会社の規定だったか何かで陸の交通機関が使えるところは極力そちらを使う?というような有難い規定があり、そのため新幹線の乗継ぎで、新潟方面に行くことになり、その際に乗り潰しが達成できたのである。それより前にも一度だけ上越新幹線に乗ったことがあり、その時は高崎から上野までの乗車で、これは信越本線の時に書いた国鉄の謝恩フリーきっぷを利用して乗車している。200系に乗ったものの、謝恩フリーきっぷ効果か?あるいはその当時上越新幹線の運転本数が少なかったのかよくわからないが、あふれるほどの混雑で、高崎から上野までずっとデッキで立っていたのを覚えている。01年の乗車は往復とも座っての道中だったが、行きはマックス、帰りは200系でともに座席のピッチが狭く、東京から乗る東海道新幹線との違いをまざまざと感じさせられ、上越新幹線の道中は疲れるという印象しか残っていない。もっとも東京~新潟間に乗ってさらに東海道にも乗るという人は少ないだろうから、東京~新潟間の乗車だけなら現状の詰め込み式でも十分なのかもしれない。東京圏では通勤需要があるため、多くの人が座れるようにということで勢い座席数を増やしてシートピッチを縮めざるを得ないのだろうが、何とか工夫をして東海道新幹線並みの快適性を保って欲しいところだ。
02年秋には鉄道と並んでもう一つの趣味である競馬のために、新潟競馬場まで足を運ぶという非常に金がかかる旅行をしている。9月の3連休を利用して、東京までサンライズに乗って、1日東京で私鉄の乗り歩きをして、東京にて1泊して翌日新潟へ向かっている。行きの上越新幹線は指定が満席だったので、奮発してグリーンを利用した。高いだけのことはあるが、マックスの自由席が3列シートで非リクライニングだからそれを回避して高い金を支払っただけのことでもある。マックスの2階席は眺望もよいが、上越新幹線の防音壁は非常に背が高くて、マックスの2階席の眺望をも阻むぐらいの高さがあり、景色を堪能するということはできなかった。印象に残っているのは車内販売のお姉さんが美人だったことぐらいだろうか(笑)。帰りの車内販売のお姉さんも美人だったように記憶している。東海道が悪いとは言わないが、上越の方は“新潟美人”のお姉さんが“お弁当に御茶、ビールにおつまみ”を販売してくれるのだろう。
上越新幹線にはその後、06年の元旦に正月パスを利用して、ガーラ湯沢への支線乗り潰しのため、越後湯沢まで往復ともマックスを利用している。評判が悪いマックスの自由席も空いていれば快適なもので、座席が倒れないのは頂けないが、短距離利用であれば許容範囲と言える。
JR小海線には学生時代に1回乗車している。95年夏に碓氷峠を越えて小諸まで行き、小諸から小淵沢まで乗り通している。この1回きりでしばらく小海線から遠ざかっていたが、乗るだけで写真が一枚もないということ、世界初のハイブリット気動車デビューということもあり、再度訪れる計画を立て、07年9月9日に2回目の乗り潰し?をした。上田駅前の上田交通系のビジネスホテル(\4900-上田は全般的にビジネスホテルが安い印象)に泊まり、朝一番しなの鉄道で小諸へ移動。前日も乗っているので、あまり感慨はないが、日曜日なのに朝から高校生の姿が目立った。ハイブリット気動車は7月にデビューしていたので、鉄道ジャーナルなどにも取り上げられ、目先の運用が記されていたので、私が計画した行程でうまく乗れるのではないかと期待していたが、臨時ダイヤを組んでいる関係からか、想定して いたより1本後の列車で運用されていた。今回は乗るより撮りを優先して、とりあえず先行するキハ110系気動車の普通列車で小淵沢まで移動し、小淵沢近辺でハイブリット気動車の撮影をすることにした。小淵沢~甲斐小泉間の大築堤まで行きたかったが、列車から見る限りかなり駅から遠そうだったので、断念して小淵沢駅近くの陸橋付近から撮影することにした。八ヶ岳バックなどの写真は撮れなかったが、とりあえず乗れなかった分ハイブリット気動車を往復撮影して、急いで駅へ引き返し、中央東線~中央西線経由で帰阪の途に就いた。今回の計画では当初は野辺山で降りて、日本一高い駅の撮影をすることを考えていたが、小淵沢での撮影に変更してしまった。車内から日本一高い駅の看板?を見るだけに終わってしまった。また機会があれば野辺山を訪問して、日本一高い駅と日本一高い箇所(有名な踏切付近)へ行ってみたいものだ。
しなの鉄道には国鉄信越本線、JR信越本線時代に何度か乗っているが、しなの鉄道としては実はまだ完全に乗り潰しはできていない。乗車したのは07年9月1日、2日の北関東、信州遠征で、軽井沢~上田間と上田~小諸間だけで、上田~篠ノ井間は転換後まで乗車できていない。横軽なき後、しなの鉄道としての目玉は特に見当たらない地味な路線だが、沿線人口は比較的多そうなので、努力次第では黒字経営できそうな基盤はあるとみている。特急列車が走らなくなり、さみしい限りではあるが、軽井沢周辺は観光客でにぎわっており、新幹線のおこぼれを何とか頂いて並行在来線問題はこうやって解消するという手本を示してほしいところです。
横軽には代替のJRバスが走っており、バスを介しての横軽越えを今でも体験できる。07年9月1日に上信電鉄乗り潰し(不完全だが)を終えて、久しぶりに高崎から信越本線に乗り横川へ。懐かしのと言っては怒られるかもしれないが、峠の釜めしで有名なおぎのやの看板を見て懐かしさに浸り(峠の釜めしはシイタケ嫌いの私にはちょっと…)、碓氷峠鉄道文化むらを小1時間ほど見学して、バスで横軽越えをして、軽井沢からしなの鉄道に乗った。横川では鉄道とバスの乗り換えは比較的スムーズだが、軽井沢は少々歩かされる。鉄道の代替として運行されているバスなんだから鉄道との乗り継ぎをもっと便利にして欲しいものだ。この時は軽井沢から上田までしなの鉄道に乗っているが、車体塗装こそオリジナルではあったものの、JRからのお下がりの115系だった。翌朝小諸で169系も姿も見られ、JR東日本から消え去った急行車が未だに見られるという点では鉄道ファンには貴重な路線と言える。
信州の私鉄で乗り残していた上田交通攻略は何度か企画を立てては、企画倒れに終わり、長野電鉄や松本電鉄乗り潰しの際にも乗れずに残っていたが、漸く07年9月1日に乗り潰すことができた。午前中に埼玉新交通、上信電鉄に乗って、午後から横軽をバス転換後初めて在来線で越えて、軽井沢からしなの鉄道で上田に着いた時には夕暮れ間近の時間になっていた。9月とはいえ、東日本は西日本より日の入りが早いので、明るいうちに乗り潰そうと上田で、ちゃっちゃとそばを食して乗り潰しに取りかかった。思いのほか立派な高架駅の上田駅には元東急7000系2両編成が停車していた。これだけを見ると東急の支線のようだが、駅を出ると千曲川を渡り風景は一変する。東急沿線では見られない田園風景が展開され、信州の山々が見られる景色はまず東急にはない車窓である。終点別所温泉までの距離は案外長く、30分程度のトリップとなる。別所温泉手前のところにかつて上田交通の代名詞だった丸窓電車が置かれている。野ざらしの状態のため、今後車両の腐食が進まぬか心配されるところだが、今のところは比較的状態はよさそうだ。本線復帰などは無理だろうが、もう少しいい状況で展示してほしいものだ。今のままでは廃車留置という感じがして、非常に勿体ない気がする。
JR中央東線を制覇したのは97年夏の信州遠征の時だ。それ以前に95年夏の小海線乗車時に小淵沢~甲府間には乗っている。97年夏の信州遠征の時はムーンライトえちごで新宿に入り、早朝に中央快速線を走る普通に乗り、延々と高尾まで201系普通の旅を苦しみながら?楽しみ?、高尾から山岳仕様の115系スカ色に乗って、塩尻まで行っている。その後はワイド周遊券の範囲内で信州の鉄道を満喫した。写真などを見ると富士山や中央アルプスなどが見えて景色がいいイメージがある中央東線だが、実際乗ってみるとそんなに景色がいいという感じではなかった。
次に中央東線に乗ったのは、04年正月にJR東日本の正月パスで、東京から長野新幹線に乗り長野まで行って、長野から383系しなので松本へ。松本から初乗りとなるE257系のグリーン車で新宿まで乗っている。E257系はイメージとしては安物という印象があるが、グリーン車はさすがに居住性は高かった。八王子までは快適に走るものの、中央快速線が走る八王子以東ではノロノロ運転を行い、特急料金を払う価値なしという感じの走りっぷりだった。
その後中央東線に乗ったのは、05年10月10日に信州方面へ遠征した際に塩尻から甲府まで鈍行の旅を楽しんでいる。この時は115系長野色に乗った記憶がある。そのほかでは近々ではあるが、07年3月31日に富士急行乗りつぶしのために、東京から大月まで途中撮影をしながら乗っている。この時は東京近郊でE233系の撮影をして、鳥沢~猿橋間の有名撮影地にて中央東線列車の撮影をしてから大月まで乗り込んでいる。大月や富士急行沿線からも朝夕ラッシュ時には特別快速の乗り入れがあるが、あんなところからロングシートに揺られ、中央快速線内では立ち客が覆いかぶさってくるような混雑に遭いながら通勤する人もいるのかと思うとぞっとする。
ここも97年の渡道の際に特急白鳥で素通りになるが、乗り潰している。新潟で駅弁を入手してほっと一息というところに、新幹線からの乗り換え客が大量に乗りこんできて驚いたものだ。白鳥は京阪神~北陸、北陸~東京連絡、東京~羽越、秋田~青森など区間利用があり、また当時はワイド周遊券を利用した学生などが北海道連絡で利用するという多種多様な旅客を乗せて運転していた。弁当とどっと乗り込んできた旅客に気を奪われていたため白新線内はあまり景色を見た記憶がない。北海道からの帰りはトワイライトを利用したので白新線は通っていないので、しばらくは記憶にございません路線となっていた。
それ以後特に乗る予定もなかったが、仕事で急遽新発田へ出張することになり、偶然にも白新線を使う機会を持った。01年の話だが、当時は会社があまり飛行機利用に理解がなく、新潟までなら鉄道でも行けるという認識だったので、鉄な私にとっては福音な仕事だった。新幹線を乗り継いでいくルートで申請して、前の晩にサンライズののびのびシートで東京入りして、朝少し京急の撮影してから新幹線で新潟へ向かうという何とも気楽な出張をこなしている。仕事が早く終わったので、日帰りでの出張となったが、冬場で雪が積もっており、何もせずに真っすぐ帰ったのを思い出す。その時新潟~新発田間で白新線を利用している。行きはいなほ、帰りは写真のE127系に乗っている。E127系にはこの時初めて乗っており、東北の701系もそれまでは見るだけだったので、この手の車両はこの時に初めて乗っている。
次に白新線に乗ったのは2003年の年末に東京へ遠征して、そのままムーンライトえちごに乗って新潟まで行って、越後線・飯山線などの乗り潰しをして新潟で一泊して、翌朝米坂線に乗るために白新線で新発田まで出ている。冬場の早朝のため真っ暗の中をE127系で移動したのを思い出す。
その次に乗ったのは2005年年末の東北遠征の時に、急行きたぐにで新潟まで出て新潟から白新線経由で北上した時に115系で雪の中を走っている。この時はちょうど羽越本線で脱線事故があった時で白新線はそんなにダイヤは乱れていなかったが、羽越本線はかなりダイヤが乱れており、余目から陸羽西線~陸羽東線を乗り継いで仙台まで行ったが、かなり時間がかかった。白新線は今後も羽越方面へのバイパス路線として、また新潟都市近郊輸送の一端を担う路線として活躍していくだろう。
上越線には1995年夏の学生時代の鉄道系サークルの合宿で初めて乗っている。上りムーンライト(その当時えちごは付かなかった)で素通りしただけだが、同じ年に18きっぷで東京へ出て、新宿から下りムーンライトで新潟へ行き、新潟から折り返して乗っているので、その時に日のあるうちにループ線などを見ている。この頃のムーンライト(えちご)は165系改造車でグリーン車で廃用となったシートを165系に載せていたので、居住性は今の485系のそれよりも遥かに良かった。ムーンライトえちごもながら同様18シーズンには指定のとり難い列車だが、ながらと違って即日完売とならないのは、新潟から先の便が悪いせいもあるだろう。
上越線にはその後ほとんど乗っていない。学生時代はその後はムーンライト(えちご)に1度乗った以外は乗っていない。上越線に再度乗ったのは、これまたムーンライトえちごでこの時は新潟方面への乗り潰しを行うため、485系化された後のムーンライトえちごに乗っている。ムーンライト時代からそうだが、ムーンライトえちごは新宿から出ているせいか、泥酔客などが大宮までなど短距離で間違ってあるいは故意に乗ってくることが多く、旅行者と鉄以外にあまり行儀のいい客が乗ってくるのがたまに傷だ。また、485系ムーンライトえちごは先述したとおり、165系ムーンライト仕様車の座席よりも悪くなっている。ごくごく標準的な座席だが、リクライニング角度が浅く、足元が狭く、夜行向きの車両とは言えない。快速だから安かろう悪かろうでも仕方ないが、地方などでグレードの高い快速を走らせているJR東日本にしては頂けない車両になっている。
上越線にはその後、飯山線に乗るために長岡から越後川口まで2003年12月30日に乗車している。この時は車両トラブルにより長岡の発車が遅れて、越後川口で飯山線が接続待ちしてくれていたのを思い出す。このためゆっくり上越線を見物というような状況ではなかった。次に乗ったのはごく最近で2005年9月10日に急行きたぐにで直江津まで行き、直江津から北越急行の初乗りをして、越後湯沢まで行って、越後湯沢から上越国境を久しぶりに越えている。水上までは激空きの普通電車でループ線などをじっくり楽しめたが、水上からの107系電車は駅ごとに客を増やしていき、高崎に着く頃には超~満員になっていた。何か行事ごとでも重なっていたのかもしれないが、日曜の朝のいい時間に高崎に着く電車にしては短すぎたのかもしれない。コストダウンもいいが、こんなことでは地方ではみなクルマに逃げられてしまうので、何とかしなければならない。
水上以南は高崎近郊路線として成り立ちそうな感じがする上越線だが、水上以北とりわけ水上~越後湯沢間に関しては時代が時代なら3セク化云々よりも横軽のように廃止の可能性もあったのではないかと思われる路線だ。東京方面から新潟及び日本海縦貫線へ抜ける貨物の通り道であることなどから、今後も廃止という目はないと思われるが、新幹線でさえ列車密度が低いところだから、場合によっては貨物列車をFGT化して、高崎~長岡、新潟間で新幹線貨物を運転することも検討すれば面白いかもしれない。そうなれば上越線水上~越後湯沢間はそれこそ存在意義が問われ、廃止の可能性も出てくるだろう・・・そんなことは今のところあり得ない話だ。
長野到着後はまず立ち食いで長野名物?なめこそばを食して、地下の長電長野駅へと向かう。以前長野に来た時にちょい乗りしたことがあったので長電は初めてではない。薄暗い地下駅のイメージがあったが、今もそのままだった。勿体無いと思いながら2日間有効のフリー切符を窓口で購入して早速ホームへ。乗車予定の普通電車はまだ入線してなかったが、真ん中の2番線?に早速お目当ての1000系ゆけむりが停まっていた。少々長い折り返し待ちのようだが、写真を撮っている一般人も多く長電移籍もまずは成功といったところなのだろう。ゆけむりはとりあえず撮影乗車はお預けということで普通電車で柳原へ。ここで千曲川にかかる有名な鉄道と道路共用の鉄橋付近で撮影。その画が上の1000系ゆけむりだ。小田急ではまず見られない光景だ。
この後も撮影行脚を続け、須坂、桜沢で途中下車しながら撮影を行った。撮影の最終は信濃竹原~夜間瀬間の橋梁での撮影。上下のゆけむりを撮って日没を迎え、撮影活動はTHEEND。信濃竹原から終点湯田中まで乗り、湯田中で駅前銭湯で一風呂浴びる。銭湯で十分温もり、再び長電で須坂へ。須坂から乗り潰しのため屋代線で屋代へ。どっぷり日が暮れたが、撮影優先で動いたので仕方ない。夜遅いといっても19時頃だったが、屋代線の利用者は異常に少なかった。正月三箇日だからかもしれないが、それを加味しても少ない。屋代からしなの鉄道で折り返すことも考えたが、フリー切符が勿体無いので、長電で折り返し、須坂で折り返して長野へ戻る。
長電に別れを告げ、JRに戻ってみどりの窓口で直江津から京都までの乗車券を購入する。長野で北陸線の切符を購入したのが無理があったのか、窓口のお姉ちゃんは少々手間取ったが、なんとか切符を入手して、直江津まで18を使って最終電車で移動した。