EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR宇部線

2007年06月30日 | 山陽

050731ube1234105u2   JR宇部線は98年夏の中国地方遠征の際に制覇している。この時は小郡で一泊して、早朝から宇部線に乗って、宇部新川まで行き、宇部新川から小野田線に乗ってクモハ42に乗っている。クモハの後に、雀田から宇部新川まで戻り、宇部線で宇部まで出ている。この時は時間の都合で宇部線を選択したため、小野田線の雀田~小野田間は乗り残している。その後宇部から山陽本線で厚狭へ行き、厚狭から美祢線で長門市まで行って、長門市から山陰本線を北上して行き、江津から三江線に乗って三次で一泊というルートを辿っている。だから宇部線に乗ったのはこの早朝のクモハに乗るための1度だけだ。

 宇部線に乗る機会はその後はなく、クモハを再度訪れた時にも宇部線には乗らず、小野田線経由で雀田に入り、小野田へ戻るルートを辿っているため、宇部線のお世話になることはなかった。久々に乗ったのは05年7月31日の山口・北九州遠征の際で、この時はクモハ42から置き換わったクモハ123が走る本山支線に乗るために、以前同様新山口(小郡から改称)駅前のビジネスホテルに泊まり、朝一の宇部線に乗って、クモハ123に乗りに行くと言うことをしている。以前乗った時と同様結局は本山支線目当てで宇部線についでに乗っているという感じである。この時は朝から大雨が降っており、激しく雷が鳴り響き、一時はどうなるかと思うほどの悪天候だった。悪天候は宇部線内の道中ずっと続き、本山支線でも激しくはないが雨は降っていた。その後小野田線経由で小野田へ出て、はやぶさ・富士の撮影を試みたが、この時は小降りになっており、ブルトレ撮影は何とか成功している。このように宇部線には乗るには乗っているが、乗車機会2度とも本山支線のついで乗りとなっている。次回訪れる時は専用貨物などを撮影して、宇部線を訪問するという目的で乗りたいものだ。


JR小野田線

2007年06月28日 | 山陽

020720onoda428  JR小野田線に初めて乗ったのは98年夏の中国地方遠征の時だ。この時はムーンライト九州で門司まで行き、山陰本線で益田まで行き、益田から山口線で津和野へ行き、津和野で観光して、津和野から小郡(現新山口)へ行って、小郡で泊まって、翌朝宇部線に乗って宇部新川まで行って、宇部新川から小野田線に乗って、雀田で本山支線に乗り換えて、クモハ42の体験をしている。クモハ42は噂に違わぬ古き良き時代を思わす電車ですっかりファンになった。保存鉄道としての価値が見出せる存在であったと言っても過言ではないと思う。終点の長門本山は何もない駅だったが、クモハ42が存在する時間帯は息を吹き返したような感じがした。クモハ42の車内にはノートが置かれ、旅人達が色々な書き込みをしていたのが思い出される。クモハ42を堪能して雀田に戻り、雀田から宇部新川に出て、宇部線で宇部に出て、宇部線の乗り潰しを達成したが、小野田線の雀田~小野田間は乗り残してしまった。

050731onoda12352  乗り残した区間は02年夏の遠征で、ムーンライト九州で厚狭まで行って、厚狭から山陽本線で小野田へ向かい、小野田で富士を撮影して、小野田から小野田線で雀田まで行き、雀田からクモハ42の惜別乗車をしている。この時小野田線の全線制覇が叶ったが、それよりも引退前のクモハ42にもう一度乗れた喜びの方が大きかった。その後クモハ42の引退後にも小野田線を訪れており、この時はあまり感動のないクモハ123に乗って、雀田~長門本山間を往復している。雨が降っていたこともあってあまりゆっくり楽しむことはできなかったが、クモハ123も貴重な電車となってきているので、もう一度天気のいい日に訪れたいと思う。


JR氷見線

2007年06月27日 | 北陸

060709himi4020303  JR氷見線には98年夏の遠征で全線乗っている。前日品川から大垣夜行で岐阜まで戻り、岐阜から高山本線を北上して富山へ入り、富山から高岡へ移動して、高岡から氷見線の乗り潰しをしている。有名な雨晴海岸を行き、終点氷見についてすぐに折り返している。その後、引き続き城端線に乗るつもりだったが、前日からの疲れもあり、この時は断念してスーパー雷鳥で帰阪している。氷見線に乗ったのはそれっきりで、城端線に乗りに行った時に逆に氷見線に乗ることも考えたが、この時は逆に氷見線を断念して帰っている。この時はサンダーバードで帰っているので、時代がそれだけ進んでいるということだろう。氷見線にはしばらく乗っていないが、こちらの方は特に変化は見られない。高岡は先に書いたように城端線乗り潰しの際にも訪れているし、万葉線乗り潰しでも訪問しているが、その時に氷見線気動車を見ても以前乗った時と何ら変わりはない。変わりがあるとすれば気動車がN30改造をしたことぐらいだろうか。雨晴海岸の風光明媚な景色の中を行く路線だけにもうひ一工夫して観光列車を運転すれば面白いと思うのだが…新高岡で城端線と新幹線をリンクさせれば、高岡から氷見線に乗り入れる観光列車も考えられなくはない。


JR高山本線

2007年06月26日 | 東海

040905takayama85hida9  JR高山本線は98年夏の東京遠征+北陸遠征にて全線制覇している。この時は品川発の臨時167系大垣夜行で岐阜まで行き、岐阜から高山、猪谷で乗り継いで富山まで完乗している。なお、この時乗った167系大垣夜行が私にとっては最初で最後の大垣夜行乗車となっている。私が乗り歩きし出した時には既に373系ムーンライトながらが走っており、大垣夜行は臨時のみの存在となっており、ボックスシートが苦手な私はそれを避けてながらがダメなら北陸経由でえちごに乗って東京入りというルートを愛用していた。このため大垣夜行にはあまりお世話になっていない。この一度きりだ。ナイター観戦を途中で辞して品川で並んだ甲斐あって席につくことはできたが、席のない人がたくさんいて、通路やデッキに終夜人が溢れるという状態だった。

040905takayama483816  岐阜からは高山本線の道中となるが、お決まりのように気動車はキハ48で、朝方の列車だったため、結構つないでいた印象があり、座席の確保は楽勝だった。しかし、道中は非常に険しいものとなった。豪雨に晒され、途中運転抑止まで食らって北陸まで無事に辿り着けるか非常に不安な道中だった。高山本線は07年現在も台風の影響で部分的に運休しているが、確かに雨の災害は多そうな路線だ。抑止を食らいながらも何とか乗り継ぎながら猪谷までかなりの遅れを持って辿り着いた。猪谷に着く頃には天気は嘘のように回復し、接続待ちをしてくれていたJR西日本のキハ120気動車は何事もなかったように富山へ着いた。この後富山から高岡まで出て、高岡から氷見線に乗り、城端線も乗り潰す予定だったが、前日の夜行からの疲れと高山本線での気疲れもあって、城端線は断念してスーパー雷鳥に乗って帰阪している。

040905takayama1203513  次に高山本線に乗ったのは太多線の乗り潰しをした98年9月の東京遠征の時で、この時はムーンライトながら乗車前に名古屋で鉄活動と言うことで、夕方太多線に乗って美濃太田まで行き、美濃太田から岐阜まで高山本線に乗っている。その次に乗ったのは04年9月5日の北陸遠征の時で、この時は能登半島攻めを行って、富山に泊まって翌朝高山本線を下って行き、猪谷から神岡鉄道の乗り潰しをして、再び猪谷に戻り、岐阜から東海道本線を乗り継いで、美濃赤坂まで初乗り入れしている。この時も富山からの道中は物凄い豪雨に晒され、猪谷に着いた時にはこの先どうなるのかと思わせるような大雨になっている。猪谷から神岡鉄道を往復して、再び高山本線に戻り、JR東海の気動車で高山へ。ここでも抑止こそなかったものの、対向列車の遅れなどで遅れが生じながらの道中となり、高山へ近づくほど雨はマシになっていたが、高山本線の道中は常に雨に降られる印象を持たざるを得ない状況となっていた。

 この他05年9月4日の太多線乗り直しの際にも美濃太田から岐阜まで高山本線を利用しているし、06年12月29日の長良川鉄道乗り潰しの際にも岐阜から美濃太田まで高山本線を往復利用している。このように高山本線ローカル列車には何度も乗っているが、看板列車の特急ひだにはまだ一度も乗車したことがない。次は特急ひだでゆったりした旅を楽しんでみたいものだ。


東急東横線

2007年06月26日 | 関東

050504tokyutoyoko9003  東急東横線に初めて乗ったのは97年夏の東京遠征が最初だ。この時は渋谷から菊名まで乗って、横浜線に乗り換えている。この頃は特に私鉄の乗り潰しとりわけ関東の私鉄にはあまり興味がなかったので、本格的に乗り潰そうという気はなく、なにげに乗っただけだった。

050504tokyutoyoko51522  次に乗ったのは98年夏の東京遠征で、この時は珍しく新幹線で東上して、京急や横浜市交に乗って、関内まで行って、横浜スタジアムで横浜-阪神戦のチケットを入手して、JRで渋谷まで出て渋谷から桜木町まで東急の急行を乗り通している。97年に乗った時はずっと寝ていたので東急の印象は何も残っていなかったが、イメージとして遅い急行だけが走る阪急宝塚線のような路線と言うイメージを持っていた。しかし、乗ってみると案外走る感じを受けた。比較対象が阪急宝塚線だからちょっと速く走れば案外走るなという印象になるのかもしれないが、少なくとも阪急宝塚線急行より走るというイメージに変わったのは確かだ。この時は桜木町から京浜東北線に乗り換えて関内へ行って、横浜スタジアムで横浜-阪神戦を観戦して、その日の臨時大垣夜行で岐阜へ出て、岐阜から高山本線を北上して北陸へ抜けている。野球の方はこの年は横浜がちょうど日本一になった年で、阪神が初回に大量点を奪い、藪が完投ペースで投げていたが、予想通り6回だか7回にいつもの藪に戻り、あっという間に同点に追いつかれて延長戦に入ってしまった。私は大垣夜行に並ぶ時間があったので試合は途中で辞して座席確保に品川駅へ向かったが、翌朝新聞を見ると見事に阪神はサヨナラ負けを食らっていた。それから5年後阪神タイガースがセリーグ覇者となろうとはその時は全く考えもつかなかった時代だ。今年の阪神はあの時も戻った感もあり、暗黒の時代を知り尽くしたオールドファン?としては懐かしい思いがする。

050504tokyutoyoko8692  東急東横線にはその後、02年の東京遠征の際に蒲田から多摩川線で多摩川へ出て、同駅で少し撮影をして自由が丘まで出て、同駅から大井町線に乗って二子玉川まで行き、田園都市線に乗って溝の口まで行って同駅で撮影後、南武線に乗って登戸から小田急線に乗り、首都圏私鉄撮影行脚をしている。その後東横線に乗ったのは05年5月4日の東急乗り潰しの際に全線を乗り通し、みなとみらい線の乗り潰しも達成している。この時も多摩川で撮影を行っている。


JR山陰本線(園部~米子間)

2007年06月24日 | 山陰

070210sanin475  JR山陰本線の園部~米子間はJR嵯峨野山陰線のページと被るところもあるが、鳥取まで最初に乗ったのは96年夏で、鳥取まで山陰本線に乗って、鳥取からは因美線~智頭急行を経由して帰っている。この時初めて餘部鉄橋を渡ったが、同鉄橋には幼少の頃何度も訪れており、思い入れのある場所である。親が餘部近辺の民宿を知っていたこともあって、年に一度は訪れていたところだ。残念ながらクルマでの訪問だったが、民宿に泊まって翌朝通過する出雲を餘部の駅で見るのが楽しみだった。また、鉄橋もさることながら海水浴をしたときに見えた眼鏡トンネルも印象的だった。その頃から換算して10年以上ぶりの餘部訪問だったが、この時は通過するだけだったのであっという間に通り過ぎてしまった。

030726sanin582481tottoriliner  山陰本線鳥取以西に初めて乗ったのは98年夏の中国地方遠征の際で、この時は山陰本線西部や三江線、木次線などに乗って宍道から山陰本線に入って、気動車を乗り継いで、米子からキハ58系快速とっとりライナーに乗って、倉吉まで乗っている。倉吉からはスーパーはくとに乗って帰阪している。今となってはキハ58のとっとりライナーに乗ったのは貴重と言えるが、平坦区間が大半のため、鈍足なイメージがあるキハ58も見違えるような走りには驚いた。とっとりライナーにはこの時ともう一度02年の正月にも乗車している。倉吉から乗ったスーパーはくとは高速化前だったため、振り子気動車の名が泣くような案外な走りだった。展望ビデオ付の中間車は被りつき好きの私としては評価したいところだが、中間車と先頭車のタイムラグがあるため、ビデオを見ながら外の景色を見るとおかしな感覚になってしまう。

040828sanin12614  その後何度か山陰本線鳥取以西には乗車している。03年夏には山陰ディスティネーションの企画切符を利用して一畑電鉄などに乗るため山陰へ赴き、高速化前の山陰本線を楽しんでいる。04年夏には急行だいせんに乗って、木次線乗車前に早朝米子から折り返し倉吉まで普通に乗り、折り返しキハ126後初めて快速とっとりライナーに乗って米子~宍道と移動している。

 また、06年冬には廃止前の出雲の追っかけで泊~松崎間の有名撮影地へ出向いている。撮影前日に伯備線経由で宍道まで行き、宍道からヒルネ利用で出雲に乗って倉吉まで最初で最後の出雲の旅を楽しんでいる。撮影のフィーバーに比べるとまだ廃止まで1ヶ月程度あったとは言え、出雲の車内は鉄道マニアが集結した感があった休止中の食堂車を除き閑散としていた。翌朝は始発で移動して撮影地まで長躯徒歩で移動したが、撮影地は早朝からクルマ移動組みが既にスタンバイしていた。ローカル線の撮影地になればなるほど列車移動が少なくなり、クルマ移動が目立つのは鉄道ファンとしては寂しい限りだ。マニアでも撮り鉄と乗り鉄は別ジャンルといったところがあるのは寂しいというか情けないところで、鉄道が好きなのか写真を撮るのが好きなのかよくわからない人間が多い。鉄道を撮るのに鉄道には一銭も落とさずに、金をかけるのはカメラと時刻表や情報誌そして移動手段のクルマというのは如何にも鉄道ファンとは言い難い。私としては極力撮影でも鉄道利用を心掛けるようにしているが、鉄道では不便なところへ行くほどクルマ移動組みの多さにはいつも驚かされる。

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福井鉄道

2007年06月23日 | 北陸

Huku2  福井鉄道には3度乗っている。一度目は98年9月4日の越美北線乗り潰しのついでに乗った時で、この時は福井駅前~武生新間で急行に乗っている。急行といってもそれほど飛ばすものではなかったが、古い電車だから少し速く走るだけでスピード感は結構あった。速度制限を受けながらも中間駅を通過していくので普通よりは速いが、車に対抗するには少々物足りない走りではあった。武生新から武生までは間に平和堂があって、それを抜ければすぐだが、地図で方角を確認していないと少々わかりにくいかもしれない。福井駅前は大型の電車が路面区間に乗り入れるのが興味深いところだったが、同駅(停留所?)への乗り入れは単線で、本線からスイッチバックする形で入線するため、たびたび廃止が噂される線路で有名なところだ。トランジットモール化の実験などが行われ、その時使用された名鉄軌道線の路面電車が同線廃止後福井鉄道に入るようになって、福井鉄道にも低床車の時代が到来している。

030824fukutetu2  福井鉄道にはその後、03年8月に筆者が管理しているホームページ及び掲示板のミニオフ会と称する福井方面へのミニ旅行で再度乗車している。この時は予定では福井鉄道に乗る予定にはしていなかったが、同行して頂いた方が福井鉄道にも興味を示されたので福井からの折り返しに武生新まで福井鉄道に乗ることになった。この時は普通電車に乗ったと思われるが、途中で機関車らしきものとすれ違ったが、冬場のラッセル用の機関車なのか、貨物輸送をやっているのかよくわからないが、珍しいものを見せてもらった。

 3度目の訪問は06年11月4日で、この時は10月に開業した北陸本線の敦賀直流化の試乗とえちぜん鉄道の乗り潰しを目的に福井へ行ったが、ついでに、武生新から福井鉄道に乗り、未乗区間だった市役所前~田原町間に乗って、えちぜん鉄道に乗り換えて福井私鉄乗り潰しの旅を楽しんだ。えちぜん鉄道との共用のフリー切符を利用したが、乗り潰しにはありがたい切符だ。地方私鉄にはこの手の切符が多いが、逆に大手私鉄にはあまり見られない。とりわけ首都圏の大手私鉄は殿様商売でも成り立つからかフリー切符類が極端に少ない。乗ってもらわなくても乗る人がいる土壌だから仕方ないだろうが、乗り潰しマニアとしては痛いところだ。この訪問の時には名鉄より移籍してきた低床車も運用されており、その車両には当たらなかったが、半数以上が低床車に置き換えられており、福井鉄道も随分イメージが変わった印象がある。次は新型の100%低床車の登場を期待したいものだ。061104fukui7703


JR名松線

2007年06月22日 | 東海

Jt10_1  JR名松線には98年9月5日に乗り潰しを達成している。越美北線のところで書いたように、前日に越美北線に乗って、その日の夜の新宮夜行で新大阪から新宮まで行き、新宮から18きっぷを離れてワイドビュー南紀で松阪まで飛び、松阪から名松線に乗っている。新宮夜行は当然165系だったが、ボックスシートにも慣れていたこともあったし、和歌山を過ぎると利用者が激減して1ボックスを占領できる状態だったので比較的よく眠れた。しかし、ワイドビュー南紀では睡魔が襲い、せっかく先頭の自由席に陣取っていたのに、行程の半分は夢の中だった。松阪では少々時間があったので、松阪牛を使った名物駅弁を駅のベンチで食して列車を待った。キハ11単行に乗って終点の伊勢奥津まで乗った。伊勢奥津にはSL時代の給水塔が残り趣きのある駅だった。駅前から名張方面へのバスが出ていた記憶があるが、名松線の名が名張の名であることの名残のようなバスで、名称線に引き続いて名張までバスに乗るファンもいたようだ。

 その後しばらく名松線に乗ることもなかったが、06年9月に久しぶりに撮影を兼ねて名松線に乗りに行った。Jt9 参宮線の池の浦付近で撮影をしてから、松阪に戻り、以前訪れた時と同様に列車の待ち時間に松阪牛の駅弁を食してから名松線気動車に乗り込んだ。高校生を中心にまずまず利用者はいたが、列車本数は少なく、沿線人口も先細りという路線で、何で存続できているのかと不思議に思える路線だ。終点の伊勢奥津は以前訪れた時の趣きはなく、新駅舎が完成して、駅の位置も若干松阪寄りに移動していたようだ。給水塔は今でも残っているが、線路から少し遠くなった印象だ。キハ11系を使用するため名松線列車はそれほどノスタルジーを感じさせる路線ではないが、廃止か存続か瀬戸際のところを走っているという意味では旅情を感じさせる路線なのかもしれない。

 2度目の名松線に乗る前にテレビのニュースで家城で留置されていた車両が車輪止めがきっちりされておらず坂道を転げ落ちるように無人で走り出し、数キロ走ったというのを見ていたので、興味深く路線を見ていたが、そんなにきつい勾配があるわけでもないのによく数キロも無動力で走ったものだと感心した。それだけ緩やかな勾配が続いているのかもしれないが、JR西日本ではよくある単純ミスをJR東海もするんだなと妙に感心してしまった。


JR越美北線

2007年06月21日 | 北陸

Jw31_2  越美北線を乗り潰したのは学生時代の98年9月4日でそれ以降福井で越美北線気動車を見ることはあっても乗る機会は今のところない。台風で線路が分断されてしまったため乗りたくても乗れないということもあったので、全線復活となる07年6月末以降で乗る機会があればまた乗ってみたい路線だ。

 越美北線乗り潰しに際しては効率よく乗るために、京福(現えちぜん)との組み合わせやバスを乗り継いで旧越美南線の長良川鉄道との組み合わせで乗り潰そうかといろいろ考えたが、京福とのリンクは乗り継げそうに思っていたら、まったく接点がなしということで断念。長良川鉄道は時間とコストの面で却下ということで、往復とも越美北線に乗ることにした。18きっぷ利用で、北陸本線を北上して福井から越美北線に入るベタなルートで越美北線に入った。メイドインJR西日本のキハ120で九頭竜湖まで往復したが、乗り潰しの鉄の多かったように思う。九頭竜湖には確かマニア向けのノートが置かれていたように記憶するが、何も記さずに帰った気がする。越美北線に乗った後は、福井駅前から福井鉄道に乗って武生新まで行き、武生から普通列車を乗り継いで新大阪まで帰った記憶がある。新大阪からは新宮夜行に乗り、翌朝新宮へ到達して、新宮からワイドビュー南紀に乗って紀勢東線を乗り潰し、松阪から名松線の乗り潰しに行っている。


近鉄奈良線

2007年06月19日 | 近畿

051211kin9021  近鉄奈良線は学生時代に暇つぶしに何度も乗っている。上本町の地下から地上に出て高架を走り、布施から生駒山めがけて真っすぐ走る割に先行の普通がつっかえてゆっくり走る急行や快速急行にもどかしい思いをしたのを思い出す。瓢箪山からは急こう配を上がる生駒越えとなるが、眼下に大阪の街が一望できる景色は京阪神の私鉄では見られないもので、阪急育ちの私にとっては新鮮な景色だった。しかし、生駒越えは想像以上に厳しく、石切まで上がり、生駒トンネルに入っても勾配がきついのがわかるような険しさで、近鉄奈良線がスピードが上がらない要因の一つと思える。当時は平日にも特急の運転があり、これがダイヤパターンを乱していた。そのあおりで快急や急行のパターンも崩れていて、急行は途中布施で特急を待避する列車があるなど、昼間からパターンが崩れっぱなしという印象があった。平日に特急は不要というのが学生時代の私の見解だったが、その後平日からは特急は姿を消している。土休日には特急の運転もあるが、何とかパターンダイヤを乱さないように設定されているようだ。

051211kin90253 土休日の特急の利用状況も見た目には結構乗っているように思えるし、夕方以降の特急を見ていると特急料金を支払ってでも座りたいという欲求が強いのか、あるいは生駒、学園前の高級住宅街が控えているので、ブルジョワ階級が大盤振る舞いするからか、特急の利用者は多いように思う。このあたりはJRに有料特急が走っていても見向きもしない京阪神地区とは利用者の傾向が違うように思う。これは有料特急が根付いている南海にも同様のことが言える。

 学生時代に近鉄で驚いたのは鶴橋での大阪線と難波線(奈良線)との接続が全く考慮されたダイヤになっていないことだ。大阪線電車が着いたのと同時に難波線電車が発車してしまうという光景は腐るほど見た。当時は大阪線も20分サイクルだったので、何とか接続できないものかと思ったものだが、列車密度の高い難波線では時間調整が難しいのか(大阪線が待てばいいとも言えるが)、鶴橋での大阪線と難波線の接続はいつまで経っても実現しなかった。今でも下りは相互に乗り換えられるような便宜が図られているが、上りの方があまり接続は考慮されていないようだ。

051211kin230002 奈良線も京都線同様、学生時代は乗るだけで、ホームページを開くようになってから撮り歩きに出かけるようになっている。時刻表をよく見ればアーバンライナーを使った特急や伊勢志摩ライナーを使用した特急などが走っており、路線長の割にバラエティに富んだ列車が運転されているので、撮影ファンとしては結構面白い路線という印象がある。ただ、伊勢志摩ライナーの特急は午前中にも走っているが、アーバンライナーの方は朝の早い時間帯のみの運転で、あとは夜の運転となっているので、早朝から撮影に出かけないと撮れないのが厳しいところだ。奈良線には東花園で車内整備をする名阪甲特急が回送で乗り入れてくるので、それを撮ればいい話だが、生駒越えや平城京跡などでは撮れないので、東花園以東で撮るには早起きが必要だ。奈良線には今後阪神西大阪線難波延伸後には阪神電車も乗り入れてくるようになる。そうなると今以上にバラエティに富んだ車種が走るようになり、ファンとしては面白みが増すが、その分利用者にとってはややこしいところが出てくるとも言え、いいとも悪いとも言えない面がある。


近鉄京都線

2007年06月18日 | 近畿

030302kin86092  近鉄京都線には学生時代に暇つぶしに近鉄奈良線から乗り継いで、難波から京都までのミニトリップを楽しんでいる。西大寺から急行に乗って京都まで行ったが、案外走るなという印象を受けた。西大寺出発時点ではかなり空いていた車内も大久保あたりから混みだし、丹波橋を出るころにはかなりの混雑になっていた。下校時刻にかぶる時間帯に乗ったと思われるが、もっと閑散としているのかと思っていたので意外なことばかりで近鉄京都線はおもろい路線という印象を受けた。学生時代は撮影などまるで興味がなかったので、とりあえず京都市交烏丸線の乗り潰しのついでとか、JR奈良線と乗り比べたりするぐらいで、そんなに何度も乗ったわけではなかった。

060501kin21000  ホームページを始めてからは、写真を始めだしたので、近鉄京都線のページにも当然写真が必要ということで、こまめに撮影に出向くようになった。当初は急行を中心に、近鉄の代名詞と言える特急と普通、朝夕に準急が走る平均的な路線で、地下鉄直通が物珍しいぐらいで撮影者としてはそれほど面白い路線とは思えなかったが、地下鉄直通急行や今はなくなってしまったが快速急行が走りだしてからはバラエティに富んだ列車が見られるようになり、結構撮影に出向くようになった。十条、丹波橋、伏見、大久保など駅撮りのみだが、京都線の各列車を撮り歩きすることは今でも年に一度ぐらいはある。最近では平日のみ乗り入れてくる21000系特急の撮影をしに、平日休みの日にわざわざ十条まで出向いて撮影をしている。京都タワーなどを入れて走る光景を撮ったつもりだが、あまりうまく撮れてなかったように思う。平日だけにあまりチャンスがないが、次撮れるチャンスがあれば京都駅か平城京跡付近で撮影したいものだ。060129kinkyo1103


JR舞鶴線

2007年06月17日 | 近畿

010826jwmaiduruktr80154_1  JR舞鶴線には1996年夏に初乗車乗り潰しを達成している。この時はまだ非電化で、東舞鶴駅が高架化されたところだったように思う。18きっぷで北陸本線経由で敦賀(おそらく大阪から贅沢にサンダーバードに乗ったはず)へ出て小浜線に乗って東舞鶴から間合い運用されていたKTR8000ことタンゴディスカバリー用の特急用気動車使用の快速で綾部まで乗っている。

次に乗った時のは03年の小浜線電化のときで、この時は敦賀から小浜線に乗り、東舞鶴から舞鶴線115系普通で綾部に出ている。舞鶴線は駅間距離が長く、途中小さな峠越え010826maiduru115 があるものの、115系が結構飛ばして走る印象がある。電化後は特急まいづるが設定されて、東舞鶴まで運転され、土休日には小浜まで足を延ばす列車も設定される特急街道となっている。かつては宮津線経由で城崎方面へ運転される特急あさしおが走り、何度も進行方向が変わると言うことで西村京太郎のミステリー小説に取り上げられるなど遅いものの個性的な列車が運転されていた。現在の特急まいづるは綾部で分割併合を行う以外はあまり特徴はない。その分利便性という点では増している。今後も現状のまま推移していくと思われるが、嵯峨野山陰線園部までの複線化、ATS-Pの導入などにより、同線に乗り入れる舞鶴線の115系もATS-P搭載の221系や223系に置き換えられる予定である。ローカル列車は今後新型に置き換わっていく予定があるが、183系特急に関しては今のところ置き換えの計画は聞かれない。485系改造車で、現役の485系が次々に廃車となっていくのを見ると183系もそろそろ代え時のように思える。山陰線特急にも新車投入を期待したいものだ。


JR小浜線

2007年06月13日 | 北陸

010826obama58  JR小浜線に初めて乗ったのは96年夏だったと思う。敦賀までサンダーバードに乗り、敦賀から小浜線を制覇している。東舞鶴からは快速扱いのタンゴディスカバリーに時間を合わせて乗ったことを覚えている。小浜線で覚えているのは写真のように気動車が走っていたことぐらいだ。それと夏だったので海水浴へ行く子供の姿が多く見られたのも思い出す。

 小浜線に乗ったのは学生時代だったが、小浜線を見たのは小学校の頃に野球チームの行事で毎年若狭高浜へ海水浴に行っていたので、その時に小浜線気動車を何度か見ている。列車利用ではなくバス利用だったので小浜線は見てるだけだった。

030824obama1252  その後電化前に小浜線に乗ることはなかった。上の写真も西舞鶴から北近畿タンゴ鉄道に乗るために東舞鶴まで足を延ばした時に撮ったものだ。電化後は早々に訪問している。電化後間もない時期だったので、鉄道ファンで125系単行の車内は満員で、じっくり小浜線の道中を楽しむ余裕はなかった。それ以後小浜線には乗っていない。敦賀はよく訪問するので、その折に125系を撮影することはあるが、小浜線はそれだけで、そろそろもう一度乗り直したいと思っているところだ。次に訪問する時は週末に臨時で乗り入れる特急まいづるが運転されている時に訪問したいものだ。


JR中央東線

2007年06月12日 | 甲信越

070331tyuoto115m22  JR中央東線を制覇したのは97年夏の信州遠征の時だ。それ以前に95年夏の小海線乗車時に小淵沢~甲府間には乗っている。97年夏の信州遠征の時はムーンライトえちごで新宿に入り、早朝に中央快速線を走る普通に乗り、延々と高尾まで201系普通の旅を苦しみながら?楽しみ?、高尾から山岳仕様の115系スカ色に乗って、塩尻まで行っている。その後はワイド周遊券の範囲内で信州の鉄道を満喫した。写真などを見ると富士山や中央アルプスなどが見えて景色がいいイメージがある中央東線だが、実際乗ってみるとそんなに景色がいいという感じではなかった。

070331tyuoto257m115kai2  次に中央東線に乗ったのは、04年正月にJR東日本の正月パスで、東京から長野新幹線に乗り長野まで行って、長野から383系しなので松本へ。松本から初乗りとなるE257系のグリーン車で新宿まで乗っている。E257系はイメージとしては安物という印象があるが、グリーン車はさすがに居住性は高かった。八王子までは快適に走るものの、中央快速線が走る八王子以東ではノロノロ運転を行い、特急料金を払う価値なしという感じの走りっぷりだった。

 その後中央東線に乗ったのは、05年10月10日に信州方面へ遠征した際に塩尻から甲府まで鈍行の旅を楽しんでいる。この時は115系長野色に乗った記憶がある。そのほかでは近々ではあるが、07年3月31日に富士急行乗りつぶしのために、東京から大月まで途中撮影をしながら乗っている。この時は東京近郊でE233系の撮影をして、鳥沢~猿橋間の有名撮影地にて中央東線列車の撮影をしてから大月まで乗り込んでいる。大月や富士急行沿線からも朝夕ラッシュ時には特別快速の乗り入れがあるが、あんなところからロングシートに揺られ、中央快速線内では立ち客が覆いかぶさってくるような混雑に遭いながら通勤する人もいるのかと思うとぞっとする。


JR紀勢本線(新宮~和歌山市間)

2007年06月11日 | 近畿

041016kiseikinokuniseaside5  JR紀勢本線に初めて乗ったのは幼少の頃に白浜のアドベンチャーワールドに連れて行ってもらった時に、行きは特急くろしお、帰りは急行きのくにに乗った時だ。この時は以前JR阪和線のところでも書いているので、詳細はそちらに譲るが、何分3歳か4歳の頃なのでほとんど何も覚えていない。覚えているのはアドベンチャーワールドでシャチが飛び跳ねていたこととポニーに乗せられたことぐらいだ。後は前にも書いたように381系くろしおよりもキハ58系急行きのくにに乗ったことの方が嬉しかったように思う。

Jwkise2  紀勢本線にはその後しばらく乗っていなかった。とりあえず白浜以東新宮まで乗ったのは学生時代の97年夏になる。この時は東京に遠征していて、東京での鉄活動をあまり綿密に立てていなかったため、北陸経由でムーンライトえちごで東上して、午前中にふらふらと東急や京急に乗って、ムーンライトでの睡眠不足がたたって、鉄活動する根気がなくなり、午後の快速アクティで東京を脱出して、熱海からこだまで名古屋までワープして、名古屋から在来線に戻っている。予定では品川発の臨時大垣夜行に乗るつもりだったので、18が一枚余ることになった。これを有効活用するため、鉄活動する気がなかった癖に大阪に戻ってから、新大阪駅へ行き、その夜の新宮夜行で南紀攻めをしている。この時は新宮夜行に乗って、早朝新宮に着いて、新宮から折り返し、朝2番のオーシャンアローに乗って、283系初体験をしている。それが第一の目的だったと言える。新宮夜行は大垣夜行ほどの混雑はなく、新大阪からは余裕で座れる列車だった。気合を入れて早い時間からホームに行ったのに拍子抜けしてしまった。この時梅田貨物線の初乗りも果たしており、折り返しのオーシャンアローでも乗っているので、梅田貨物線には早い段階で陽のある時間帯で制覇している。新宮夜行は新大阪からは余裕の乗車率だったが、天王寺からは帰宅客を満載にして、和歌山辺りまで大混雑だった。この時は疲れもあって、和歌山までぐっすり寝て、和歌山で少し目が覚めたものの、すぐまた寝て、新宮直前まで熟睡できた。ボックスが嫌で、大垣夜行を避けて、東上する時は新潟経由でムーンライトえちごに乗ることが多かった甘ちゃんだが、この時ぐらいからボックス座席の夜行でもなんとか対応できるようになってきている。

041016kisei283oceanarrow3  翌朝のオーシャンアローも新宮からは余裕の乗車率で、窓の大きなフリースペースでゆっくり景色を楽しむだけの余裕があったが、白浜辺りから利用者が増えてきて、御坊を出る頃には自由席では立ち客が出る盛況だった。景色はいいものの、オーシャンアローは新型の振り子電車の割りに、スピードが遅く、383系しなのに比べて見劣りする感があった。紀勢本線は一応高速化が行われているが、中途半端な高速化に終わっており、一線スルーになっていない駅が多かったり、最高速度がほんの一部だけ130km/h化されているだけで、他は100km/hを切る区間も多い路線となっている。紀伊半島では並行する道路の整備が遅れているということもあり、結構胡坐をかいている面もありそうだが、高速道路も御坊を通り越して紀伊田辺付近まで延びてきており、白浜までは時間の問題であろうし、新宮付近でも高速道路の建設は始まっている。283系オーシャンアローの増備は今のところ全く計画されていないが、381系もそろそろ置き換えの時期に来ている。283系を凌ぐ次世代の振り子車両を投入し、そのときには線路を大幅に強化して、大幅なスピードアップを図って欲しいものだ。