EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR山陽本線姫路~岡山間

2007年02月28日 | 山陽

010812sanyo115a1  山陽本線の姫路以西初乗りは高校時代唯一の18旅行で、四国初上陸した時だった。行きはムーンライト高知の自由席で素通り、帰りは岡山から普通で地を這うように帰って来た。今でもそうだが、帰り便は岡山からでも何とか座れる状態だった。上郡で建設中の智頭急行(その当時は智頭鉄道)が見えたぐらいで後は単調な景色が続くばかりであまり面白い路線ではなかった。それは今でも変わらず、18シーズンには大混雑して地獄の区間となることもあり、個人的には避けたい区間ではある。これは18ユーザ共通の悩みというべきものかもしれない。同じように東海道線の米原~大垣間が関西からの18利用ではボトルネックとなる区間だったが、JR東海の意気込みにより増発や増結が盛んに行われた結果もあり、こちらはネックとは言えなくなって来ている。それに比して山陽線の方は姫路~岡山間直通電車の減便により、上郡乗り換えが主流となり逆に後退した感がある。

010812sanyoinaba2  かつての山陽線姫路~岡山間は115系の天下だったが、近年は115系N30~40の登場に始まり、117系、213系など多種多様な車両が見られるようになった。姫路~上郡間だけ見ると221系、223系の乗り入れもあり、キハ187系やHOT7000も見られるなど鉄道ファンとしては飽き飽きする路線ではなくなってきている。もっとも上郡~三石間の有名撮影地でカメラを構えるファンのお目当ては上記の列車ではなく、貨物列車という人間が多い。ブルトレが壊滅状態の今、機関車牽引列車として注目を浴びている貨物列車が多数走る路線として山陽本線はファンに注目されていると言っても過言ではない。

 2005年春のダイヤ改正から新快速の播州赤穂直通がデータイムでも始まり、それに加えて姫路以西で運転される山陽線電車のほとんどが相生から赤穂線に乗り入れ播州赤穂まで運転されるようになり、相生以西へ山陽線を利用するには相生で乗換えを強いられるようになってしまった。相生では山陽線、赤穂線が同時進入、同時発車を行っているので乗り換えによるロスタイムは最小限に留まっているが、18シーズンを中心に岡山方面へ普通列車で移動する人には不便になってしまった。実際の旅客流動は播州赤穂の方が断然強いはずだから現行ダイヤでも問題はないはずだが、岡山方面直通需要や上郡で連絡する智頭急行沿線と姫路の間の需要に対しては不便を強いている。県境を越える山陽線上郡以西への直通便はともかく、上郡までの電車に関しては姫路方面へ直通させて兵庫県内の輸送の利便性を確保して欲しいものだ。智頭急行ローカル列車を姫路まで直通させるのも一考かもしれない。060326sanyoef2007


JR和歌山線

2007年02月26日 | 近畿

010901wakayama105  JR和歌山線の初乗りは高校時代に初めて使った18きっぷの残り1枚を利用して、大回りでは乗れない和歌山線と紀勢支線に乗った時だ。その頃から既に10年以上経っているが、今も昔も105系が走り続けている。最初に乗った時は高田から五条あたりまでと粉河から和歌山までは結構な乗り具合だった。ちょうど昼時だったので持参していたおにぎりをロングシートで頬張った記憶があるが、その頃は車内で堂々とお食事ができるのは食堂車か最悪クロスシートという時代だったので少々格好悪かった。今ではそこら中で高校生が物を食べる時代になっている。この間部活帰りにJR京都線普通の車内でカップラーメンを食べているアホな高校生を見たが、それが平気になってしまっている時代なのだろう。注意しない大人が悪いのかもしれないが、今の時代注意すると逆切れで命さえ落とす可能性があると言うのだから始末が悪い。時代は悪い方向へ向かっているが、和歌山線も同様にあまりいい方向に向かっていないということで話を和歌山線に戻す。

060502wakayama105p5  和歌山線に乗車すると吉野口で近鉄吉野線、橋本で南海高野線を見ることができ、連絡しているのがわかる。これに加えて五条からは五新線が発着する予定だったが、夢のまた夢となっている。五新線は建設途中で終わった路盤などを十津川村へ行く途中クルマの中から見たことがあった。五新線ができていてもただの超~赤字ローカル線となるのみで和歌山線の腹の足しにもならなかったと思われる。しかし、高野線や吉野線ともう少し協調していけば、少しは道が開けるのではないかと思う。JRも私鉄も目指すは大阪のミナミだから、ミナミからのアクセスでは競合関係になってしまうが、JRはキタというチャンネルも持っており、和歌山や遠くは京都へのアクセスも可能になる。このあたりのメリットを活かして、南海や近鉄もJR和歌山線と協調していくということを考えてくれれば、和歌山線も今よりももう少し活用してもらえるのではないかと思う。今のままでは万年ローカル線で、下手をすれば、都市近郊輸送が成り立つ区間以外は廃止・・・県境の五条~橋本間あたり・・・ということも考えられなくはない。


JR大阪環状線

2007年02月24日 | 近畿

060401kanjyo10327  大阪環状線に初めて乗ったのはおそらく弁天町にある交通科学博物館に連れられた時と思う。大阪から弁天町までの短い距離ではあったが、113系春日塗りの関西線直通快速などに何度か乗った覚えがある。幼少の頃の為記憶が定かではないが、野田近辺から大阪卸売市場へ向かう貨物線はまだ健在だったように思う・・・少なくとも線路はあったはずだ?

 大阪~弁天町間以外では、大阪~京橋間は片町線初乗りでも述べたように同線沿線に住む親戚の家を訪ねる時に乗っている。その他の区間はというと・・・おそらくのレベルの話になるが、南紀白浜アドベンチャーワールドに連れられた時に大阪から天王寺まで環状線に乗っているはずだ。但し、天王寺以降の記憶はあるが、天王寺までどうやって行ったかたまでは全く覚えていない。

03kanjyo381kurosio1  その後、小学生になってからも環状線にはそれほど乗っていない。本格的に乗ったのはやはり中学生になって大廻り乗車をするようになってからだ。その時には大阪~西九条~天王寺間も乗っているし、天王寺~京橋~大阪のルートでも乗っているので、中学生の時点で環状線の乗り潰しは達成している。その頃はまだ関空は開港しておらず、漸く阪和線と大和路線を結ぶ短絡線ができたぐらいだったので、環状線内を走る電車は、221系大和路快速と103系以外では381系スーパーくろしおぐらいのものだった。環状線が今のように華やかになったのは関空開業後と言ってもいいだろう。さらに今では環状線電車に201系まで運用されるようになって、JR西日本の車両の見本市のような路線になっている・・・中古車展示会のようとも言えるが(^^;)

060602kanjyo20166  環状線といえば、ちょうど私が高校生の頃に自動運転の計画があるという話があった。新聞などにも取り上げられ、自動運転が実現するまで103系を使い続けるのかなと思ったものだが、結局のところ企画倒れに終わったようだ。その頃のJR西日本はそんな話が多くあった新型振り子電車のWEST21も姿さえ見ずに計画自体がどこかへ行ったようだ。それにしてもJR西日本発足時には山陽新幹線と大阪環状線以外は全て赤字と言われたJR西日本にとって環状線は有難い存在と思われるが、それとは裏腹に扱いは非常に悪いと思う。自動運転はともかく103系の次にお下がりの201系が来て、さらにその201系置き換えも頓挫して大和路線に取られるとは・・・。201系への置き換えが中途半端に終わったため逆に新車投入の可能性も残されたという向きもあるが、外環状線開業や阪和線連絡線複線化による天王寺駅改良など新車投入の口はよそにもたくさんあり、環状線にお鉢が回ってくるまでかなり時間がかかりそうだ。それこそ東日本並みに新車投入のペースを早めるか、新車の質をさらに落として量産していくかしないと追いつかないような気もする。321系は正直言って207系からかなり質が落ちた車両となったのは否めない。環状線にどんな車両が投入されるかどうかわからないが、大阪を代表する路線だけに大阪の顔として恥ずかしくない車両を投入して欲しいものだ。

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JR学研都市線

2007年02月23日 | JR西日本

060502gakken207z15  学研都市線に初めて乗ったのは、学研都市線という名前などまだない片町線の時代だった。親戚が沿線に住んでいたので、たまに電車で訪問という形で初乗りは実現している。101系だか103系だかわからない電車が走っていたのを覚えているが、今から思えばまだまだ長閑な時代だったなと思う。

 学研都市線はかつては片町線と呼ばれ・・・今でも正式には片町線だが・・・長尾~木津間は非電化だった。私が片町線と呼ばれる頃に乗ったのは幼少の頃のみで、木津~京橋間を通して乗ったのは大廻り乗車をするようになってからだ。その頃には長尾~木津間は電化されており、学研都市線の愛称も付いていた。大廻り乗車で乗車券は茨木から大阪までの乗車券で乗っていたので、京橋~片町間は乗っていない。以後何度か大廻り乗車で学研都市線に乗っているが、京橋~片町間にはいずれも乗っていない。その後東西線が開業して京橋~片町間は廃止されてしまったが、ついにこの区間に乗ることはなかった。だから正式には片町線の乗り潰しには成功していない。

 最初に大廻りした時にはまだ学研都市線とは言え、103系が走り回る“国鉄色100%”の路線だった。木津から4両編成の103系快速に乗って、前方が見えにくいと不満に思いながらも先頭車に陣取って木津から京橋まで被りついた。木津発車時点では閑古鳥が鳴くというよりも泣くという感じだったが、長尾から先は徐々に乗客が増えていき、住道発車時点では昼間にも関わらずギュウギュウ詰めの超満員状態になっていた。日曜日だから混雑していたのか、4両編成で数少ない快速だから大混雑していたのかはわからないが、昼間からこんなに混雑しているのは問題だと思ったものだ。

 2度目に大廻りした時には207系が投入されており、大半の電車が207系になっていた。快速は207系が優先的に使用されていたようで、木津から新しい電車207系に乗って、出来のよさに感動したものだ。とりわけシートの座り心地が国鉄~JRのそれと違い、阪急に近いものだったので“さすがは221系を造るような会社だけあってJR西日本もやるな!!”と思ったものだ。207系には感動したが、相変わらず快速は全線に渡って4両編成で運転されており、松井山手から走る普通が7両編成なのになんで快速は4両やねんとその点については不満を持って帰ったのを思い出す。

060502gakken207z14  学研都市線にはその後も大廻り乗車や京阪交野線乗り潰しの帰りなどに乗ることがあるが、207系ばかりが走るファンには面白くない路線と化しているので、撮影対象としては私もあまり面白くないので、それほど足繁く通う路線ではなくなっている。しかし、207系は後に出た321系などより出来のいい車両だし、ダイヤ面でデータイムは後退した感はあるものの、快速が15分毎に走っているので、学研都市線はアーバンネットワークの中でも完成の域にある路線と言える。今後は外環状線が開業して、相互直通する予定だが、その時には321系を始め、多種多様な列車が走るようになる可能性が大きい。今のところ外環状線は放出~久宝寺間が先行開業する予定なので、外環状線電車はほとんどが学研都市線に直通するものと思われる。学研都市線、東西線ともデータイムは線路容量が足りているので増発の余地があるが、ラッシュ時はあまり線路容量に余裕はない。そのあたりどう振り分けていくか見ものだ。


JR湖西線

2007年02月20日 | JR西日本

050710kosei113c172_1  JR湖西線に初めて乗ったのは前にも書いたことがあるが、小学生の時に少年野球の雪山遊びで比良山を訪れた時だ。その時は東海道線直通の臨時快速に乗り、比良まで乗っていた。当時はラッシュ時以外は新快速専用だった117系が使用される臨時快速とあって、数少ない117系に乗車できる小鉄にとっては嬉しいひと時であった。小学生の時には湖西線の志賀駅近くの琵琶湖湖岸のキャンプ場へ家族でちょくちょく行っていた。家族での移動はたいがいクルマだったが、キャンプ場からは湖西線を走る列車が見え、朝早起きしてブルートレインの通過を楽しみにしていたものだ。

061104kosei223v324  その後湖西線に乗ることもなく平々凡々と暮らしていったが、学生時代に適当な乗り潰しをしだして、18きっぷで各地を巡るようになって、漸く湖西線全線乗車を果たすことになる。湖西線全線乗車はおそらく北陸遠征時に利用したサンダーバードが初めてと思われる。この頃は18旅行とはだるいものと言うイメージを持っており、案外金もないくせに楽をかまして特急に乗ることが多かった。特急にあまり乗ったことがないので、乗ってみたいという気持ちに負けてしまっていたとも言える。最近は特急に乗ろうと思えば乗れるが、時間が許す限りは鈍行旅行を楽しむことにしている。金銭的余裕はあまりないが、学生時代よりも多少は心の余裕ができたと言える。

060611kosei117c10  湖西線は将来160km/h運転が計画されている高規格路線という触れ込みだったので、どんだけ凄いものかと思っていたが、飛ばすには飛ばすが思ったほどでもないという印象を受けた。速さを感じない速さもあるのだろうが、結構先行列車の頭打ちなどもあり、ゆっくり走らざるを得ないところもあるのと、湖西線を抜けて近江塩津から先敦賀までのループ線は上下ともそれまでの速さが嘘のような走りとなるので、それも含めて想像ほど速くないという評価になってしまうようだ。

 今後湖西線はおそらく建設されないであろう北陸新幹線大阪口の代替路線として、計画通りの160km/h運転を行うはずだ。近年は普通電車の本数も増え、新快速の直通も長距離になっている。160km/h運転をするには年々条件が悪くなっているが、ATS-Pはもちろん、万全を期するならデジタルATCを導入して、確実な保安設備を設けるとともに速く走れる下地を作る必要があるだろう。060521kosei681


JR東海道新幹線

2007年02月19日 | JR

050320tokaidoshinkansen700c262  私が東海道新幹線に初めて乗ったのは、前にも少し書いたが、七五三で熱田神宮に参拝した時だ。家族総出で名古屋まで鉄道旅行のサービス付の七五三をしてもらったのは当然ながら私が幼少の頃から鉄っちゃんだったためだろう。名古屋までなので、こだまに乗ったはずだ。新幹線がどうだったかあまり覚えていないが、ビュッフェでオレンジジュースを頂き、その時に関ヶ原付近で散水されていたのを思い出す。その他のことはあまり覚えがない。

010729tokaidosinkansen100kodama  初乗りは名古屋止まりだったが、国鉄謝恩フリーきっぷの際は東京-新大阪間を通しで乗った。但し、疲労困憊夢うつつだったため、こちらもほとんど記憶がなく、3時間寝ていたという感じだった。その後は新幹線に乗る機会もお金もなく過ごし、久しぶりに新幹線に乗ったのは学生になってからだった。学生時代も大概18きっぷばかりを使う貧乏旅行のため新幹線とはあまり縁がなかったが、18旅行に疲れて、おまけに初の一人東上をした時に東京弁アレルギーを起してしまい、とっとと帰りたいと思って、東海道線を西下した途中の熱海でワープしようと言うことで、熱海~名古屋間でこだまを利用したのが久々の東海道新幹線利用となった。その時はまだ0系が走っていた時代で、正直100系に乗ったことがない身分だったので、また0系かよ(またといっても3度目)と思いながら乗ったのを覚えている。0系こだまはゆっくり走っているという感じがしたが、ゆっくり走っているせいかカント量が凄いこともあって物凄く車体が傾いているのを感じたのを思い出す。あの時は正直酔うかと思ってぐらいきつかった・・・前日慣れぬ夜行で東京入りしたことも要因と思われる。

061230tokaidos3004  その後は学生時代には数えるほどしか乗れなかったが、社会人になって少しはブルジョワ鉄(と言っても18主体には変わりないが)をできるようになって、東上した帰り(行きはたいていムーンライトだから)にちょくちょく東海道新幹線を利用するようになった。しかし、私が新幹線に年に数回は乗るようになった時には既に東海道から100系は姿を消しており、ついぞ東海道新幹線で100系に乗ることはなかった・・・はずだ?山陽では乗っているので、東海道では乗ってないはずだけど・・・そのあたりは少々あやふやだ。

 東海道新幹線もこの夏之N700系デビューにより、とうとう6世代目の車両に突入する。500系の東海道からの引退も近いようだが、名車500系も標準化の波には勝てなかったのかと少々残念に思う。輸送事情にあった車両施策は見事と言えるが、JR東日本の標準通勤電車同様、日本を代表する東海道新幹線が没個性の世界に浸るのは少々寂しい気がする。041107tokaidoshinkansen500w33


JR信越本線

2007年02月18日 | JR

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 JR信越本線は以前書いたように国鉄最後の日に謝恩フリーきっぷを使って大阪からきたぐにに乗って直江津から高崎まで下った時に乗っている。きたぐにで疲労困憊となった状態で、当時直江津始発があったあさまに乗ったが、3月末というのに妙高高原付近に雪があったのを覚えている。夢うつつの中を列車は走り続けていたのでその他についてはあまり覚えていない。碓氷峠通過はある程度覚えているが、機関車連結などは写真を撮ったかどうか覚えていない。撮っていてもほんとに今の使い捨てカメラよりもひどいインスタントカメラを持って行ってたので、ガタガタの写真しか残ってないはずだ。いまどきのくそがき鉄道少年はデジカメはおろか立派な一眼レフを持ち歩いたりしているが、私はそんな贅沢はさせて貰えなかった。

 軽井沢で機関車交換を見ている間に荷物を置いていたにも関わらず席を取られてしまったようで、疲労困憊の身で高崎まで立ちん坊だったのを覚えている。横川で峠の釜飯を買って、上野へ着いてから食べたが、子供向きの駅弁とは言えず、大嫌いなシイタケがど~んと上に乗っかっているのを見てあまり食べずに立派な陶器の器を持って帰った。

 学生時代にも碓氷峠は懐かしさもあって2回訪れている。1回目はムーンライトえちごで新潟まで行って、上越線で高崎まで引き返し、高崎から信越線で小諸まで行く時に通った。この時は丸っきり写真の趣味がなかったので、カメラは持ち歩いていたかもしれないが、機関車取替えなどのシーンを収めるなどという意識は全くなく、ただ見物していただけだった。

Jre6 2回目は新幹線開業による廃止前に乗ろうと言うことで惜別も兼ねて乗りに行っている。この時は曲りなりに写真も撮っていたが、コンパクトカメラで適当に撮っているのとフィルムをケチっているので、現在デジカメでこれでもか!!というぐらい撮るようなことはなく、ほんと適当なところでシャッターを切っていただけだった。このときは信州ワイド周遊券がまだ残っている時代で、ご法度かもしれないが、範囲外となる軽井沢~横川間は別に乗車券を支払って乗っている。このため特急は贅沢なので、横川行きは臨時快速、戻りの軽井沢行きは普通に乗っている。臨時快速はどんな列車か失念したが、169系のムーンライト系列の車両だったように思う。このときもとりあえず峠の釜飯を食べたが、昔食べた時と変わらず大人になってもあまり好きな駅弁ではなかったと判明した。

051229shinetsu115n9  信越本線の直江津~新潟間の初乗りは学生の時だった。初めて乗った時は鉄仲間と旅行した時で、ムーンライトえちご(当時はまだムーンライトだったはず)に乗るために長野を夕方に発って深夜新津に着いて、ムーンライトに乗り換えという強行軍だった。闇の中を走ったため風光明媚な青梅川付近などは闇の中だった。この後何度か信越本線に乗っているが、結構夜に乗ることが多く、昼間に乗ったことはない。朝か夕方に乗ることが多いのは大阪から来ると自然そうなってしまうということなのだろうか。青梅川付近で一度撮影をしたいと思うものの、大阪からの距離が距離だけになかなかそのためだけに行こうとは思わないのが実状だ。


JR琵琶湖線

2007年02月17日 | JR西日本

061009biwako2235  JR琵琶湖線に初めて乗ったのは中学時代に遠乗りした時だった。当時はお金を模型に費やすことが多かったので、遠乗りなどは滅多にしなかったし、したとしても大回り乗車だった。JR琵琶湖線は現在では大回り乗車の範囲内に入っているが、当時は入っていなかった。そのため米原までの往復を正規料金支払って乗るという贅沢をした。中学生にしては大出費で痛かったが、それでも221系新快速に乗れるという最大級の贅沢ができたので、大満足して帰ってこれた記憶がある。当然米原までずっと被りつきで221系を堪能して、帰りは今では考えられない117系快速に乗った。当時は221系に新快速、それによって余ってきた117系を快速に使う傾向があり、8両編成の117系も登場していた。ちょうどその頃は117系新快速も見飽きた時期だったので、白地に青文字で快速のヘッドマークを掲げた117系は逆に新鮮だった。

060610biwakoef6616  琵琶湖線が大回り乗車の範囲に入ったのはずっと後の話なので、初乗り以降琵琶湖線に乗ることはしばらくなかった。学生になって、18きっぷで遠乗りするようになって東海道中膝栗毛を繰り返すようになって琵琶湖線を度々利用することになった。学生時代は大抵夏に活動することが多く、冬はあまり活動したことがなかったので琵琶湖線で雪景色を見たのはごくごく最近になってからだ。名古屋東京方面へ行く時には基本的に東海道線経由を利用していたが、稀に草津から草津線~関西線のルートも使っていた。私が学生の頃はまだ米原以東が毎時1本しか電車がなく、4連ひどいときは3連の113系が走る完全なるローカル線だったので、18シーズンはひどい混みようだった。だから草津線経由を使ったりしていたが、こちらも草津線で座れても関西線はキハ120の単行か2連運転で柘植からは座ることはできなかったので、同じようなものだった。今では米原以東が30分毎に増発され、さらに4連以上での運転ばかりになったので、以前ほど米原での席取り合戦は見られなくなっている。逆に琵琶湖線の8連の新快速は北陸方面からの流入が増えてきて、座りづらくなっているのではないかと思うほどだ。


JR大和路線

2007年02月16日 | JR西日本

060617yamatoji221nc606  JR大和路線の初乗りは先日書いたJR奈良線に初めて乗った大回り乗車の際だった。その当時は所謂春日塗りの113系が快速に使用されており、その春に登場したばかりの221系とともに大和路快速と命名されて運転されていたように思う。関西線快速の大阪環状線への乗り入れは古くから行われていて、幼少の頃に弁天町の交通科学博物館へ連れて行って貰うのに113系の快速に乗った記憶がある。湘南色の113系はあまり好きではなかったが、春日塗りと阪和色は好きだったので113系の快速が来るのを楽しみにしていた。

060401yamatoji10313  大和路線初乗りの時に遠くに見えた法隆寺には感動した。あの当時は見通しが良かったのか法隆寺が今よりもよく見えたように思う。それだけあの付近に住宅が建て込んだということなのだろうか。その後何度か大回り乗車で大和路線に乗っているが、113系快速に乗ったのは最初で最後となり、以降は221系大和路快速に乗ることが多かった。大和路快速は最高速度120km/h運転が売りで、平地の高井田付近まではかなり飛ばして走っていたが、大和川の渓谷に沿って走る区間では速度を落として走っていた。快速運転と山間部での旅行気分を1度に味わえ、王寺以遠では法隆寺も見えるし、奈良付近では若草山も見えるし、変化に富んだ車窓風景が味わえる路線として気に入っていた。また、当時は221系は新快速と一部の快速と大和路快速にしか運用されていなかったので、221系を存分に楽しめる路線としても重宝した。ちなみに大和路線の木津以東に初めて乗車したのは学生時代に18きっぷを使って東上した折に乗り潰した。また、新今宮~JR難波間も学生時代に乗っており、湊町時代のJR難波駅には行ってない。

 大和路線も今後外環状線が開業するときに大変革期が訪れるだろう。221系大和路快速の動向も気になるし、外環状線へ直通する快速の運転も期待される。ミナミを通らない外環快速にどれほど利用が結びつくかわからないが、キタ優勢の大阪事情を考えればキタへの直通はある意味魅力的ではある。いずれにしても今後の大和路線の飛躍に期待したいし、大和川の渓谷や河内堅上の桜など風光明媚な車窓風景はいつまでも残って欲しい。060408yamatojikatakami2


JR奈良線

2007年02月14日 | JR西日本

061009nara221na4163  JR奈良線に初めて乗ったのは中学2年の時に茨木~大阪間の切符で大廻り乗車をした時だ。確かゴールデンウィークだったと思うが、暇潰しにかねてから時刻表を見る限り可能だった大廻り乗車にチャレンジした。その当時は時刻表を見る限りは可能だが、実際本当に可能なのかどうか確信はなかったので、乗車中は本当にいけるのかどうかビクビクしていた。初めて奈良線に乗った時は105系普通が走っており、電化間もない頃の奈良線のままの状態と言えた。この時は車掌による検札はなかったが、後に快速が走り出してからは検札があった。その頃は大廻り乗車に若干の後ろめたさ(そんなものは感じなくても良いのだが、私は小心者なのでそう思ってしまっていた)を感じながら乗っていたので、検札の際に説明するのに非常に恐縮していた。

 大廻り乗車も2回目に行う頃にはJR奈良線に117系快速が走り始め、大和路線には221系大和路快速が走るようになっていた。117系が奈良線や福知山線デビューした頃はかつてのシティーライナーとして颯爽と新快速で運転されていたイメージが強かったので、物凄く違和感を感じた。とりわけ奈良線快速は停車駅こそ少なかったが、単線で高速化されていない線路をゆっくりと走っていたので、過去の栄光はいずこへ・・・という印象がより強かった。

Jwn6  以後奈良線は大回り乗車の度によく利用したが、最近は大回り乗車自体をあまりしなくなったし、草津線ルートも大阪近郊区間に組み入れられたため、奈良線を大回りで利用することは少なくなった。その間何度か利用しているが、105系が103系に置き換わり、117系がまたしても221系に追いやられて奈良線から転出していった。こうやって見ると新型車量の投入こそないものの、奈良線はアーバンネットワークでも車両の移り変わりが激しい路線だと言える。今後は321系の投入も噂されており、更なる変化が訪れるようになるのかもしれない。


大阪市交御堂筋線

2007年02月13日 | 乗り鉄

051127midosuji11132  御堂筋線の初乗りは正直いつだったかは覚えていない。幼少の頃は天王寺動物園以外はミナミへあまり足を運んだ記憶がないので名古屋からの帰りにビスタカーに難波まで乗せてもらって梅田へ出るのに乗ったのが初めてだったのかもしれない。小学校の遠足で長居公園へ行くのに御堂筋線に乗ったはずだが、おそらく動物園前乗り換えだったはずだから、幼少の頃~小学校さらには電車にあまり乗ってない中学校時代には御堂筋線にはほとんど乗っていないはずだ。高校時代に何度か乗って、御堂筋線はかなり混んでいるという印象を植え付けられた記憶がある。ラッシュを前にした15時台ごろに本町から梅田まで乗って阪急のラッシュ以上に混んでいた記憶がある。その頃はまだ9両編成だったので輸送力も今よりも小さかったはずだが、それよりも並みの輸送量ではなかったのは確かだ。今でも御堂筋線は大阪一混雑する電車ではあるが、昔に比べるとかなり翳りが見える。阪神大震災以降関西の地盤沈下がかなり進行した感があるが、御堂筋線の翳りはその煽りを諸に受けている感じがする。輸送力改善も進み、過去のような大混雑はあまり見られなくなっているが、関西で唯一首都圏の混雑を味わえる御堂筋線の再来を期待したい?


大阪市交堺筋線

2007年02月12日 | 乗り鉄

060502sakaisuji66615  大阪市交堺筋線の初乗りはご多分に洩れず幼少の頃に天王寺動物園へ行く際である。当時は天王寺動物園への最寄り駅動物園前が終点で、動物園前行き普通が京都線高槻市、千里線北千里から運転されていた。阪急沿線で育った私は写真のような天神橋筋六丁目発着の普通よりも高槻市発着の普通に馴染みを感じているので、天六発着の普通を初めて見たときには少々感動した。堺筋線には天王寺動物園へ行く度に何度もお世話になっているが、私の幼少の頃の堺筋線と言えば、市交は60系、阪急は堺筋急行に5300系が運用される以外は全て3300系が運用されており、あまり面白みに欠ける路線だった。堺筋線の車両運用が変わったのは阪急京都線にとって未だエポックメイキング的なダイヤ改正として語り継がれている平成元年12月のダイヤ改正ごろからだったと思う。当時中学生だった私はあまり阪急に興味がなかったが、高校になってもう一度阪急に興味を持ち出し、阪急のダイヤなどにも興味を持ち出すようになって堺筋線の変化などに驚いた記憶がある。新車の66系が投入され、大半の列車が8連化されて阪急車は当時8連で運転されていた急行に使用される6300系以外の全車種が使われるようになっていた。5300系のみならず7300系や8300系までが使用されていたのには正直驚いた。その後に天下茶屋まで延伸されて、しばらく乗る機会もなかったが、関空が開業して南海の天下茶屋駅が整備されてから、南海方面へ鉄活動をする時などに天下茶屋ルートをよく利用するようになった。

 高校時代に駆け出しの頃の川島令三氏の本に阪急京都線はデータイムに堺筋線直通の快速急行を設定してJRに対抗すべきみたいなことが書かれていたのを読んで、このおっさんはアホかと思ったことがある。氏の考えでは堺筋線を活用してミナミや天王寺からのアクセスを改善して京阪間の輸送改善を行うというものであったが、よくこんな内容を書いて本が売れるものだと思った。氏の提案はころころと変わり、時には堺筋線内でも通過運転を行う特急の設定なども提案していたと思うが、相変わらずアホくさっと思いながら読んでいたりする。とは言いつつも堺筋特急や快速急行などの京阪間対抗案はともかく、現行ダイヤで遊休化している急行を目先を変えて堺筋急行にしてはどうかという考えは持っていたので川島氏の案に真っ向から反対するわけでもなかったのかなと思う。私のデータイム堺筋急行案も川島氏の堺筋快急案も実現することもなく今春のダイヤ改正で特急の淡路停車で堺筋問題には決着が付いた感じがする。ラッシュ時の堺筋急行と堺筋快急は堺筋準急へと格下げとなり、伝統の堺筋急行は姿を消す。緑の幕の準急が走るのはファンとしては楽しみだが、堺筋急行がなくなるのはやはり寂しいものだ。061214hky3324


近鉄大阪線

2007年02月11日 | 乗り鉄

050514kin21000urbanliner5  近鉄大阪線に初めて乗ったのは七五三で熱田神宮に参拝した帰りにビスタカーに乗せて貰ったときだ。ビスタカー3がデビューした直後で、行きは生まれて初めて新幹線に乗せてもらい、名古屋では名鉄のパノラマカーに・・・乗せてもらうこともなくこちらは見ただけで終わったが、鉄三昧の七五三の締めにビスタカーに乗せてもらった。2階席を指定したのか、それとも当時の名阪特急は空いていたので、楽に席が取れたのかよくわからないが、2階建て車両初体験は新鮮だった。この時の印象が強かったので、後に鉄道模型を買ってもらう時に阪急6300系か近鉄30000系のどちらを買うかで非常に迷った記憶がある。結局阪急を買ってもらったが、今から考えるとどちらもそんなに好きでもない車両だったのに・・・他の選択肢はなかったのかなと思う。

051203kin300002  30000系ビスタカーに乗った以降は近鉄に乗ることもなく、乗り鉄をするようになっても予算の都合で近鉄まで足を延ばすことはなかったが、学生になってなんでか毎日乗る羽目になってしまった。なんで毎日乗ることになったかは書けないが、久しぶりに近鉄に乗って驚いたのは鶴橋の駅の匂い・・・なんで朝から焼肉の匂いが・・・ビスタカーに乗った時は鶴橋で降りず難波まで直行したので、鶴橋初体験は学生になってからということになった。こんな駅阪急にはないというのがまず第1印象で、鶴橋で大阪線と難波線(奈良線)の電車の相互接続が行われていないのにもまた驚いた。驚きの連続はそれだけに終わらず休日には大阪線普通が真昼から布施で3本待避を食らうというのもあった。ラッシュ時じゃあるまいし、おまけに回送の待避を行う普通まであり、近鉄大阪線は特急が最優先という言葉を実体験により実感することができた。

 驚いたと言えば“鮮魚列車”の存在にも度肝を抜かれた。阪急にはまずあり得ない列車で、予備知識もなく実物を見てしまったので、マルーン一色で塗られた車体を見て、近鉄にもまだ古い塗色の電車が残ってるんやなと思ってしまった。しかし、鶴橋などで車内を見ると大きな発泡スチロールなどが積み込まれ、行商のおばちゃんという感じの人しか乗っていないのを見てやっと専用列車であることに気づいた。阪急はおろか全国的にも珍しい専用電車であることを後になって知る。予備知識がないと新鮮な思いもできるが、間違った方向で物事を考えてしまうこともあるので、後で裏づけを取ることが重要だということも学んだ。これはインターネットの掲示板が隆盛を極める時代では一番重要なことでもある。いい加減な私はそれを怠りがちだ(^^;)

 近鉄に毎日乗っているといっても乗る区間は知れたもので、山間部などへ本格的に乗車したと言えるのは学生時代に3・3・3フリーきっぷを使って名古屋を訪れた時ぐらいだろうか。以降撮影などで大阪線を訪れることも多いが、乗車回数は知れている。名阪ノンストップ特急アーバンライナーに乗った時は、ビスタカーに乗った時よりも感動したが、アーバンライナーも昔の勢いはない。アーバンライナーNEXTにも乗車したが、名阪特急復権というにはインパクトに欠ける印象だ。新幹線が隆盛を極め、近鉄特急の失速感が否めないが、近鉄はなんといっても特急が看板なんだから、起死回生の一発を放つ21000系のような車両の登場に期待したい。個人的にはビスタカー4の登場を心から期待したい。

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京阪本線

2007年02月09日 | 乗り鉄

060408kei8008  京阪は沿線住民ではなかったので、そんなに頻繁に乗ることはなかったが、親が香里園で商売をしていた関係で、枚方市まで京阪バスに乗って、枚方市から香里園まで京阪電車に乗ることは多かった。しかし、それ以外の区間に乗ることはまずなく、乗ったとしても区間内の枚方公園などで降りるぐらいしかなかった。ただ、子鉄だった私はそれでは飽き足らず親にせがんで香里園から淀屋橋経由で茨木市まで遠回りして帰ってもらったことがある。これが淀屋橋までの初乗りとなったが、それだけでなく京橋でわざわざ特急に乗り換えて3000系特急に乗せてもらったのをよく覚えている。淀屋橋駅をゆっくり見ることはできなかったが、やたらホームが長い印象のみが残っていた。特急で入線した為名物の縦列停車は見られなかったので、阪急の河原町と同程度という印象しか残っていなかったのだ。縦列停車を見るのは8000系の試し乗りをした高校時代が初めてとなった。

 京阪本線を完乗したのは先述した高校時代の8000系試し乗りの時となった。8000系先頭車のかぶりつき席を堪能したものだが、その時後ろの席の学生風の人が、腹痛を起し、車掌にトイレはないかと訴え、トイレはないので臨時停車しないといけないというやり取りをしていた。臨時停車すると救急車を呼ぶ必要があるとか言われていたが、電車は臨時停車することなく七条から京橋までノンストップで走り抜けた。その腹痛客は途中車掌にどこかへ連れて行かれたが、どう処置をしたのかはよくわからない。ごみ袋がどうのこうのという会話が聞こえていたが・・・。

031026kei22172  乗り潰し達成後も京阪はよく乗りに行った。とりわけ撮影をするようになってからは大和田を中心によく撮影に出かけているし、競馬をするようになってから枚方市あるいは淀屋橋、または四条など色々なルートを通って淀の京都競馬場へ足を運ぶようにもなって、京阪に乗る機会も増えた。競馬開催時の淀には急行が臨時停車するのが常だったが、10分サイクル化により、行きに関してはその処置もほとんどなくなってしまったし、競馬ファンもナリタブライアンの引退以降ぐらいから減少の一途を辿っているので、臨時停車、臨時列車の運転もかなり減っている。帰り便はかつてのダイヤでは臨時急行が頻発していたが、これも10分サイクル化でかなり減少している。臨時急行もノロノロと停まっていくため、阪神の甲子園ノンストップ特急のようにもっと大阪方面へ高速で走る臨時列車が欲しかったが、その設定もなく競馬輸送自体が落ち込むようになって10分サイクル化によってそれが顕著になってきている。ディープインパクトが無敗(無配でもあった!!)の3冠馬に輝いた菊花賞では淀に10万人以上の観客が訪れ、特急が臨時停車する事態にもなったそうだが、競馬ブームでも来ない限りそんな事態はもはやないだろう・・・今年オーシャンエイプスが3冠を取ればそれぐらいの混雑になるか?

060501kei9002  京阪も伝統の15分サイクルが崩れ、京阪間ノンストップの特急も阪急京都線同様徐々に停車駅を増やし、急行並みの停車駅数にまで落ちぶれてしまった。急行の停車駅はそれよりもはるかに多いので、快速急行並みというのが正しいのかもしれない。いずれにしても京阪特急の落ちぶれも底をついた感はあるが、特急車両がダイヤの実態にあっていないという新たな問題も出てきている。今後中之島線が開業する頃には、8000系の後継車両の建造も検討されるだろうが、その車両が8000系のように伝統の2扉、テレビカー、ダブルデッカー車付となるのか、9000系のような汎用車に近い車両になるのかは注目されるところだろう。


JR神戸線

2007年02月08日 | JR西日本

070126kobe223v38  JR神戸線・・・旧国鉄東海道・山陽線に初めて乗ったのは先日書いた山陽電鉄初乗りの際だった。姫路まで行くのに行きは大阪から117系シティーライナー、帰りは山陽特急を利用した時だった。大阪から乗ったが、日曜の午前中だったと思われ、姫路まで席にありつけなかったのを覚えている。新快速は今でも座れる可能性は低いが、国鉄時代から神戸方面行きは乗車率は高かったようだ。最もその頃の新快速は117系6両編成だったので223系8~12両編成でも混雑する列車がある現在の新快速とは桁が違う。

060730kobehimeji  JR神戸線方面へはその後小学校の遠足で明石まで利用したぐらいであまり乗らなかった。中学校時代から始めた大回り乗車もJR神戸線は茨木からは半ば範疇外というところだったので、中学時代はJR神戸線には乗らなかったと思われる。高校時代に1度18きっぷを使って四国へ渡ったときに大阪~姫路間で221系新快速に乗ってあまりの快適さに爆睡してしまったのを覚えている。その時はじめて姫路名物のまねきそばを食した。姫路駅高架化後もホームにまねきそばが健在なのは嬉しい限りだ。福知山駅では大江の鬼そばが高架化後ホームから姿を消してしまっている。残念だ。

060604kobeef6645  学生時代は18切符を持ってそこらを乗り歩いたのでJR神戸線にも何度となく乗るようになり、221系新快速や223系新快速にかぶりついて高速旅行を楽しんだものだ。最近はあまり大回り乗車をしてないが、大阪近郊区間が拡大された時にはJR神戸線で加古川まで行って、加古川線に乗って大回り乗車を楽しんだこともある。今では加古川駅も立派な高架駅になったが、その当時はまだ地上駅でJR神戸線は2面3線の構造だったため、下り快速は東加古川で新快速待避を行っていた。今は2面4線となったので、快速(普通)は上下とも加古川で新快速と緩急接続を行うようになっている。

 JR神戸線はJR京都線とともに変貌著しい路線だが、321系の投入でひとまずは世代交代が終わり、ダイヤの方もゆとりを持った現行ダイヤにしばらく落ち着きそうだ。今後は221系を置き換えていき、221系を嵯峨野線やアーバンエリア外に送り出していくことになりそうだが、一世を風靡した221系が本線を去る日も近いと言うのは何とも隔世の感を感じざるを得ない。