EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR武豊線

2007年11月26日 | 東海

051015taketoyo75  JR武豊線は学生時代に東京遠征のため、ムーンライトながら乗車前に行きがけの駄賃として乗車している。初乗りの時には既にキハ75系に置き換わっており、名古屋直通の区間快速が設定されたり、中京圏の勢いがある路線の一つという印象が残っている。しかし、乗った列車は東海道本線のようにサクサク走るわけではなく、トロトロ走っている車両だけは新しいローカル線という感じだった。終点武豊(競馬ファンとしては思わず駅名板を撮影してしまう駅だ)まで行って、名鉄に乗り換える計画をしながら、行き帰りとも武豊線に乗り、帰りはすっかり爆睡して、ムーンライトながらでの睡眠不足を事前に補う形となった。学生時代はとにかく列車内で眠ることが多く、昼でも夜でも景色が見られようが、暗かろうが眠っていたことが多い。何とももったいないことだが、今はその反動からか、眠たくても我慢して車内では大概起きている。さすがに夜行列車では起きていないが…学生時代ぐらいまでは夜行列車で眠るということの方が逆に苦手だった。

 武豊線からはしばらく遠ざかっていたが、ホームページ作成にあたっての写真の撮影などを兼ねて再訪問したのが、05年10月15日のことだ。鉄道の日記念のフリーきっぷを利用して東海地区へ日帰り鉄をしに行った時に乗ったものだが、朝から天候が思わしくなかったが、樽見鉄道、城北線などでは何とか小ぶり程度で済んでいた天気が武豊線に乗る頃には見事に崩れて帰りの道中は土砂降りとなった。何とか撮影をすることはできたが、晴れた時にもう一度じっくり乗ってみたいものだ。


JR紀勢東線

2007年11月25日 | 東海

070805kisei85nanki2  JR紀勢東線の乗り潰し制覇は97年夏に乗車している。紀勢西線のところに書いたように当時はまだ新宮まで走っていた新宮夜行(太公望列車)に乗って新宮入りし、新宮で一旦下車して、特急券と乗車券を購入して、18きっぷで隣の駅まで移動して、紀伊勝浦~新宮間普通列車となる南紀2号に乗って、紀勢東線を踏破した。キハ85系の自由席で前面かぶりつきをするために新宮より前の駅から乗車したが、既に先客がおり、3列目あたりから前面展望を楽しんだのを思い出す。というものの景色を楽しんだのはほんのわずかな区間のみで、前夜からの強行軍のため、すっかり眠り込んでしまい、目的地の松阪手前の多気まで爆睡していた。このため紀勢東線の沿線の記憶は非常に乏しい。これ以降は参宮線方面に乗るのに2~3度亀山~多気間で紀勢東線に乗ることはあったが、多気~新宮間はこの1回だけしか乗っていない。07年8月にきのくにシーサイドの撮影と兼ねて紀勢貨物の撮影をするためにクルマで紀勢東線を訪れている。紀勢貨物は早朝のため、列車移動だと松阪あたりに泊まる必要があるが、クルマ移動だったので紀伊長島付近の道の駅で車中泊とした。列車でもかなり時間がかかる印象のある紀伊半島東部だが、クルマでも峠越えの連続で、貨物を追いかけるのに2~3回同じ道を走ったが、高速を走るよりも倍ほど疲れる感じだった。途中高速道路が建設されているところもあり、紀伊半島東部にも漸く道路については改善の見通しがついてきているようだが、紀勢東線にとっては脅威以外の何ものでもない。070805kisei406


JR上越新幹線

2007年11月24日 | 甲信越

020915jyoetsue12  JR上越新幹線の乗り潰し達成は2001年12月20日に達成している。仕事で新発田方面へ出張するのに新幹線を利用することになった。会社の規定だったか何かで陸の交通機関が使えるところは極力そちらを使う?というような有難い規定があり、そのため新幹線の乗継ぎで、新潟方面に行くことになり、その際に乗り潰しが達成できたのである。それより前にも一度だけ上越新幹線に乗ったことがあり、その時は高崎から上野までの乗車で、これは信越本線の時に書いた国鉄の謝恩フリーきっぷを利用して乗車している。200系に乗ったものの、謝恩フリーきっぷ効果か?あるいはその当時上越新幹線の運転本数が少なかったのかよくわからないが、あふれるほどの混雑で、高崎から上野までずっとデッキで立っていたのを覚えている。01年の乗車は往復とも座っての道中だったが、行きはマックス、帰りは200系でともに座席のピッチが狭く、東京から乗る東海道新幹線との違いをまざまざと感じさせられ、上越新幹線の道中は疲れるという印象しか残っていない。もっとも東京~新潟間に乗ってさらに東海道にも乗るという人は少ないだろうから、東京~新潟間の乗車だけなら現状の詰め込み式でも十分なのかもしれない。東京圏では通勤需要があるため、多くの人が座れるようにということで勢い座席数を増やしてシートピッチを縮めざるを得ないのだろうが、何とか工夫をして東海道新幹線並みの快適性を保って欲しいところだ。

041231jyoetsushinkansene4p10maxtani  02年秋には鉄道と並んでもう一つの趣味である競馬のために、新潟競馬場まで足を運ぶという非常に金がかかる旅行をしている。9月の3連休を利用して、東京までサンライズに乗って、1日東京で私鉄の乗り歩きをして、東京にて1泊して翌日新潟へ向かっている。行きの上越新幹線は指定が満席だったので、奮発してグリーンを利用した。高いだけのことはあるが、マックスの自由席が3列シートで非リクライニングだからそれを回避して高い金を支払っただけのことでもある。マックスの2階席は眺望もよいが、上越新幹線の防音壁は非常に背が高くて、マックスの2階席の眺望をも阻むぐらいの高さがあり、景色を堪能するということはできなかった。印象に残っているのは車内販売のお姉さんが美人だったことぐらいだろうか(笑)。帰りの車内販売のお姉さんも美人だったように記憶している。東海道が悪いとは言わないが、上越の方は“新潟美人”のお姉さんが“お弁当に御茶、ビールにおつまみ”を販売してくれるのだろう。

 上越新幹線にはその後、06年の元旦に正月パスを利用して、ガーラ湯沢への支線乗り潰しのため、越後湯沢まで往復ともマックスを利用している。評判が悪いマックスの自由席も空いていれば快適なもので、座席が倒れないのは頂けないが、短距離利用であれば許容範囲と言える。


鉄子の台頭と鉄っちゃんの終着点は?

2007年11月23日 | 鉄道イベント

071028kyotoef6616  今年の流行語大賞候補に鉄子がノミネートされている。鉄子という言葉自体は昨年から聞かれた言葉だが、今年ブレイクした言葉として捉えられている。言葉が独り歩きしている感じがしないでもない。実際鉄子がどれだけいるのかは疑問が残るところだ。鉄子の定義がどこまでを鉄子というのかにもよるが、鉄子に対する男の鉄っちゃんの視点で見るとどこに鉄子がいるねん?という疑問を抱かざるを得ない。要するに鉄っちゃんと同じような活動をする女性の鉄道趣味者を鉄子と呼ぶなら、その数は少ないどころかほとんど見当たらない。普通に有名撮影地などで女性ファンがカメラを構えて撮影をする光景というのは今のところあり得ない事象だ。そういったことから鉄っちゃんの目には必ずしも鉄子が流行語になるほど隆盛を極めているようには見えないのだが、実際にはどうなんだろうか?おそらく流行語になるほど鉄子が増殖しているわけではないと思われる。しかし、鉄っちゃんの目から見た鉄子ではない鉄子は思いのほか増えてきているのではないかとも思う。というのも鉄子を鉄っちゃんの女性版という捉え方ではなく、鉄道趣味の新しいジャンルの一つという捉えて鉄道に興味を持つ女性が増えてきているという見方をすれば鉄子の増加に納得できるのではないか。要するに下心のある鉄っちゃんが短絡的に考える鉄子と一緒にブルトレ撮影などという妄想はいつまでも妄想であり、鉄っちゃんと鉄子の融合というのは鉄っちゃんが鉄子というジャンルに向きを傾けないで、従来どおりハードな鉄っちゃんを続けていては鉄子との乖離は広がるばかりだろう。

 鉄子は漫画でブレイクしたと言えばそれまでだが、鉄子が増加してきているということが本当であるとすれば、その背景としては、鉄道会社各社に女性社員が増えてきて鉄道に関する知識を持つ女性が増えたということもあると思われる。近年はJR各社のみならず、大手私鉄や地方私鉄も女性進出が目覚ましいので、今後も鉄子が増加していく素地は十分にあると言える。ただ、先述したとおり鉄子と鉄っちゃんは向きが違う趣味と捉えた方が賢明であり、鉄子が増えれば、稀には撮影地で列車にカメラを向ける女性も出てくるだろうが、そのような鉄子は少数派にとどまるはずだ。大半は鉄っちゃんの目から見てソフトな鉄活動をするとものと思われる。鉄っちゃん的に見れば鉄子が進出してくるジャンルは乗り鉄が中心になるものと思われる。乗り鉄と言っても鉄っちゃんがするような乗り潰しや一日中電車に乗りまくるというような乗り鉄ではなく、おそらく景色がいい路線、魅力的な列車が走っている路線をチョイスして、女性ならではの感覚と口コミなどによる情報網を駆使して列車に乗り、駅弁や列車を降りた後のアフタートレインを大いに楽しむ形が鉄子流乗り鉄になるのではないかと思う。鉄道雑誌で言えば“旅と鉄道”を読む程度の鉄分具合だ。間違っても鉄道ピクトリアルは読まないという感じだ?この程度の鉄分であれば鉄子が増えても驚きはしない。逆に言えば、次に書くように衰退傾向にあるのではないかと思われる鉄っちゃんよりも今後鉄子の方が幅を利かせて行き、鉄っちゃんもそれにつられてというハードな鉄っちゃんからソフトな鉄っちゃんへの移行も見られるのではないかと思われる。

 それでは鉄っちゃんが衰退するのではないかということについて説明しよう。われわれ鉄っちゃんは鉄道に関する様々なジャンルを趣味として活動しているが、その中でも三種の神器と言っても過言ではないのが、カメラ・模型・時刻表だ。カメラは当然鉄道撮影、模型は当然鉄道模型、時刻表は所謂乗り鉄の象徴だ。最近は様々なジャンルがある細かく区分するときりがないが、上記の3つについては鉄っちゃんの登竜門として必ずや1つは通ってきているに違いないジャンルだ。ちなみに私は一通りこなしている。この3つのジャンルのうち模型については大ブレイクすることはないだろうが、一定の需要があり、最新車両からSLまで古今問わず楽しめるので、鉄っちゃんとして廃れていくことはないと思われる。時刻表を象徴とした乗り鉄についても、秘境と呼ばれるような路線が少なくなりつつあり、ローカル線の廃線も多く、国鉄が存在した頃のような楽しみ方はできなくなりつつあるが、鉄道がある限りこのジャンルについても継続していくだろう。一番懸念されるのが撮影だ。このジャンルについても鉄道がある限りは継続していくと思われるが、SLから始まり、ブルトレなど大ブームを巻き起こすようなネタが昨今枯渇してきており、このジャンルの熱は冷める一方という感じがする。数少ない保存列車的なSLを追い、数少ないブルトレを追い、それでも時間を余すからカマ追っかけをするというのが生粋の撮影マニアの現状と言える。機関車が牽引する力強い迫力のある画でなければ納得できないというある種鉄っちゃんの中では最も男らしいジャンルと言えるが、その男らしい機関車牽引列車自体が激減し、客車列車に関しては客寄せパンダ以外皆無になる日も近い。ブルトレ亡き後、撮影ファンはいったい何を追いかけるのだろうか?ハードなカマ追っかけを続けるため、路線は限られるが、ある程度量的に満足ができる貨物の追っかけが主体となり、イベントとしてSL列車や天然記念物のように残ったジョイフルトレインの客車を追って満足するのだろうか。撮り鉄というジャンルはブルトレ亡き後も継続はしていくだろうが、これが鉄の本道かと言える道に入りつつあるように思える。貨物列車も鉄道の重要な位置にあるが、鉄道はやはり人を運んでなんぼのものと私は考える。そのようなスタンスで考えれば貨物列車を追いかける撮り鉄は本道ではなく、言葉は悪いが邪道であると思う。鉄っちゃんの三種の神器の一角である撮り鉄が男らしい力強い機関車を追い求めて邪道を行き道を狭めて行くのに対し、気軽に楽しめ裾野が広いソフトな鉄で台頭してきた鉄子が幅をきかし、鉄っちゃん人口より鉄子人口を広げていく可能性については否定できないのではないかと思う。もっとも鉄っちゃんの方も本道と言える三種の神器以外のジャンルも充実しているので、鉄子が鉄っちゃんの数を上回るということは困難なようにも思える。


三木鉄道

2007年11月21日 | 近畿

071117miki300105  三木鉄道は北条鉄道と同じ2001年11月23日に乗車している。北条鉄道の乗り潰しを終えて、粟生から北条町に戻り、クルマに戻って、クルマで厄神まで出て駅前の駐車場にクルマを停めて三木鉄道乗り潰しに臨んだ。厄神駅は小奇麗な橋上駅舎で、アーバンエリア外の駅とは思えない駅だった。加古川線電化前なのに駅舎は綺麗になっていたのは驚きだが、駅舎更新の時点で加古川線の電化を前提にしていたのだろう。三木鉄道はその加古川線ホームの片隅から発着しており、3セクによく見られるJRの路線とは切り離すようなホームではなく、JRと対面に中間改札なしで乗り換えられる形になっている。線路は切り離されているが、国鉄三木線時代そのままのホーム配置になっていると言えばいいのだろうか。北条鉄道も同様のホーム配置となっており、各地の3セク鉄道も見習ってほしい乗り換えの利便性が確保されたホームだ。先に乗った北条鉄道に比べて三木鉄道の列車は非常に遅く、トロトロと走って終点の三木に着いた。三木は昔ながらの国鉄の駅の雰囲気が残る駅で、側線には開業当初投入されたミキ180が朽ち果てた状態で留置されていた。歩いていける距離に神鉄三木があるという情報は事前に得ていたが、この時は厄神にクルマを置いていたので、そのまま三木鉄道で折り返した。

 神鉄三木から三木鉄道三木まで歩いたのはつい先日のことだ。07年11月17日に3DAYチケットを利用して神鉄で三木まで来て、神鉄三木から歩いて10分ほどのところにある美嚢川にかかる鉄橋で神鉄の撮影をしてから三木鉄道三木へと向かった。神鉄駅前の地図で確認していたものの途中道に迷い、60分毎にしかない三木鉄道の列車に乗り遅れそうになったが、なんとか乗り継げた。三木鉄道は08年春に廃止が決定しているため、三木駅にはカメラを持ったファンらしき人が何人かおり、沿線でもパラパラと撮影を勤しむファンの姿が見られた。田園風景の中を走る気動車は秋の夕暮れ時が最も画になる瞬間かもしれない。三木鉄道方面まで足を延ばす機会が少ないし、神鉄粟生線に長々と揺られるのも億劫なので、三木鉄道訪問はこれが最後になるかもしれないが、できることなら廃止になる前にもう一度訪問したいものだ。


北条鉄道

2007年11月20日 | 近畿

071117hojyo19852  北条鉄道の乗り潰しは、01年11月23日に達成した。当初スルっと関西3DAYチケットを利用して神鉄粟生線経由で乗り潰すことを計画していたが、3DAYチケットを他の用途で消化してしまったので、計画を変更して、珍しくクルマで加西市まで乗り込んで、パーキングにクルマを預けて北条町から粟生まで往復した。ちょうど北条町の駅舎が改修されて小奇麗な駅舎が完成したところで、駅の周りは引き続き改修中という感じだった。北条町は近代的な駅舎を構えて新しい鉄道というイメージを持たれるような駅だったが、中間駅の大半は国鉄時代にタイムスリップしたような駅が並んでおり、日本の田舎の原風景とも言うべき世界が広がる路線というイメージを持った。レールバスの方は1985年の3セク転換時に投入されたフラワ1985はまだ存在していたが、私が乗った列車は新型車両に置き換わっており、転換当初の北条鉄道のイメージとは異なっていた。フラワ1985は鉄道模型化されており、値段が安いということで小学生時代に購入して盛んに走らせていた(単車で走るので爆走させて遊んでいた)ことを思い出す。特に思い入れがあるわけでもないが、乗ることはできなかったものの、模型で走らせていた車両に現地で巡り合えて多少の感動はあった(それほど大げさな感情はなかった)。

 北条鉄道は粟生でJR加古川線、神鉄粟生線と連絡しているが、JR加古川線は60分サイクルで、同駅で行き違いをする関係で、上下とも北条鉄道と良好な連絡をしていた。当時はまだ加古川線は非電化だったが、電化後の現在も同様に乗り換えは便利になっている。神鉄は15~30分毎の運転なので、それほどシビアな連絡時間は取られていないが、連絡時間としてはまずまずの時間という印象だ。神鉄はやや奥まった所にホームがあるので、加古川線よりかは乗り換えに歩くことになる。

 その後北条鉄道からはしばらく遠ざかっていたが、本年11月17日にかつての計画同様3DAYチケットを利用して、神鉄粟生線で三木まで乗って、三木から三木鉄道に乗って厄神へ出て、厄神から加古川線で粟生に出て粟生から北条鉄道を往復するルートで再乗車した。三木鉄道の惜別乗車が第一の目的だったが、北条鉄道も高校生を中心にそれなりに乗っていたものの、モータリゼーションと立地条件の悪さ(中国道経由で加西市から神戸、大阪へ直結している)などもあって厳しい状況には変わりないという印象を持った。三木鉄道のように神鉄との鉄道同士の同士討ちがない分北条鉄道には生き残っていく素地はありそうだが、モータリゼーションの進行や少子化による利用者減は今後も続くものと思われる。久しぶりに訪れた北条町の駅周辺が以前とは一変しており、ショッピングセンターなどが建ち並ぶ近代的な町になっていたのには少々驚かされた。北条鉄道の利用につながればいいが、どう見てもクルマ利用が主体と思われ期待薄感を持ってしまう。DMVを導入したりして、加西市役所や北条高校方面などに“直通運転”して利便性を拡大して線路を守っていく施策が必要なのではないかと思う。


大阪市交千日前線

2007年11月16日 | 近畿

071107sennichinanba  大阪市交千日前線は学生時代に乗り潰している。所用で布施からバスに乗って柏田近辺に行った時に、そこから歩いて南巽に行き、一気に野田阪神まで乗り潰している。鶴橋から先は良く言えば大阪の下町を走る路線と言える。悪く言えば…利用者の少ないローカル地下鉄…実際乗るとなんば近辺は結構乗っているが、東へ行くほど利用者は減っていき、まさにローカル地下鉄がぴったりという雰囲気になる。南巽から先への延伸も考えられていたようだが、南へ下って大和路線の平野に出ても普通しか停まらない駅なので乗り換え客もそれほど期待できない。基本計画では近鉄弥刀方面へ抜けて、近鉄大阪線と連絡する方向のようだが、大阪市外ということもあり実現性は低いと思う。

 千日前線は本来であれば野田阪神で阪神、なんばで近鉄と相互直通して阪神なんば線の代替となる路線にすべきだったのだろうが、市営モンロー主義とやらが弊害になって私鉄との相互直通を全く考慮しないというか、私鉄を排除する施策のため、千日前線は一大幹線になることはなく、ローカル地下鉄と揶揄されるような路線になってしまったと言える。阪神なんば線が開業すると阪神沿線と近鉄沿線のフィーダー輸送はほぼそちらの方に移行してしまい、千日前線のローカル度はさらに増すものと思われる。なんば周辺の混雑はあるが、そろそろワンマン化も視野に入れた合理化策が必要だろう。


鹿児島市交

2007年11月15日 | 九州

050827kagoshimashi95122  鹿児島市交の路面電車には02年8月の九州遠征で乗車している。ドリームつばめで鹿児島入りして、朝から指宿枕崎線を乗り潰して、枕崎から鹿児島に戻り、鹿児島市内をぶらぶらと路面電車に乗った。夕暮れ前に乗ったため、西鹿児島駅前(現鹿児島中央駅前)から谷川までは暗闇の中を走ることになり、景色は楽しめなかった。谷川まで行って、谷川から歩いてJRの谷川まで歩いたが、非常に遠かった。事前リサーチも何もせず夜に歩いたため遠く感じたのかもしれないが、少なくとも駅前とかにあるレベルではなかった。またこの当時は全国の鉄道を乗り潰すという野望をそれほど高く立てていたわけではなく、とりあえずJRだけでも乗れたらいいかな程度だったので、夜であろうが昼であろうが、とりあえず乗れればいいという感覚で乗っていたので、鹿児島市交については機会があればもう一度乗りたい。

 上の写真は05年8月に鹿児島を訪問した時に夕方の鹿児島中央駅前で撮影したものだが、この時はムーンライト九州を降りて、ずっと日豊本線を南下して鹿児島入りしたため、疲労困憊で鹿児島市交の路面電車に乗る元気がなく、撮影でお茶を濁した次第である。


JR富山港線

2007年11月14日 | 北陸

040808toyamako475  JR富山港線には学生時代に一度乗り、社会人になって再訪問して、さらに富山ライトレールになってから1度訪問している。学生時代に訪問したのは98年夏の遠征の時でJR氷見線と一緒に乗車している。JR氷見線のところでも書いたが、当時臨時で残っていた大垣夜行に品川から乗って、それを岐阜で降りて高山本線経由で富山に入り、富山港線に乗って、高岡に移動して氷見線に乗っている。城端線も乗るつもりで計画していたが、根性のない学生時代の私は氷見線乗車を終えて、白旗を上げてスーパー雷鳥で帰阪した。この当時の富山港線は475系3両編成が使用されており、昼間の本数が少なく、これを逃すとしばらくないという列車に乗って、岩瀬浜まで往復した記憶がある。車内は閑散としており、18シーズンだったので折り返して富山に帰る鉄の姿がやたら目立っていた。

 次に訪問したのは04年8月8日の北陸遠征で、この時はワンマン運転を行うための合理化で475系の姿はなく、キハ120が使用されていた。乗車時間帯は似たような時間帯だったが、キハ120の単行だったからか乗り具合は立ち客が出る程度の乗りで、帰りの富山行きは結構な乗車率だったと思う。この後富山ライトレールに転換して、少なかった運転本数は倍増以上になり、利用者も倍増までとはいかないだろうが、開業後にはかなりの利用者が集まっていた。利便性が向上すればまだまだ立ち直る鉄道もあるという良い事例のように思う。全部が全部そのようにはいかないだろうが、創意工夫と努力次第では第2の富山ライトレールが現れるのではないかと思う。


南海汐見橋線

2007年11月12日 | 近畿

070526shiomibashi  南海汐見橋線は南海高野線の岸里玉出~汐見橋間の別称で、本来であれば南海高野線とすべきところだが、南海高野線の電車は全て岸里玉出から戸籍上南海本線の専用線でなんばまで運転されているので、運行系統が分離されている岸里玉出~汐見橋間は汐見橋支線と名付けられている。汐見橋は大阪市の秘境とも言うべきところで、ターミナルの立地が悪いこともあり、高野線から分離された形になっているのだろう。その日教に初めて訪れたのは就職活動をしていた時期だ。不況の中大阪市内を走り回り、ついでに乗り鉄を楽しみながら暗い時代を過ごしていた。ちょうど大正近辺に訪れた時に歩けば近そうということで汐見橋まで歩いて、汐見橋から汐見橋線に乗って岸里玉出まで行き、岸里玉出から天下茶屋まで戻り、天下茶屋から堺筋線で帰宅した記憶がある。夕方間近だったが、汐見橋から岸里玉出へ向かう電車は異様なほど空いていた。その後汐見橋線には昼間に2度乗っているが、どちらも非常に空いており、存在価値があるのかと疑問を抱くほどの路線になっている。最初乗った時はまだ20分毎程度に運転され運転本数もそれなりにあったが、最近は30分毎に減便されており、とても大阪市内の路線とは思えないほどの惨状となっている。今後もこのまま放置されていくのだろうが、線路際などを見ていると荒れ放題で、メンテにも力が入ってなそうだし、状況的にはいつ廃線になってもおかしくない。南海としてはなにわ筋線が開業する時には汐見橋線を流用したアクセス路線を考えているのだろうが、なにわ筋線自体が実現するかどうか微妙なところだけにそれより先に汐見橋線が廃止されてしまう可能性は高いのではないかと思う。


大阪市交長堀鶴見緑地線

2007年11月11日 | 近畿

060422nagahori7122  大阪市交長堀鶴見緑地線は花博が開催された1990年に開業した比較的新しい路線だ。このため幼少のころに乗ったというようなことはなく、最近になって初めて乗った路線でもある。花博には一度足を運んだが、中坊の私は父親が運転するクルマでの訪問となった。このため花博の折には世にも珍しいリニア地下鉄に乗ることはなかった。その当時は京橋~鶴見緑地間の短い路線で、これぐらいならいつでも乗れると高をくくっていたところもあり、いつまで経っても乗ることなく放置していた。初めて乗ったのは就職活動で大阪市内を走り回っていた時期に、京橋~心斎橋間にまず乗っている。その後心斎橋~大正間が開業して、その区間は比較的早い時期に乗り潰して、あとは京橋~門真南間に乗るだけとなっていたが、ここの区間はHPを作り始めていた素浪人時代まで乗ることはなかった。同区間ちょうど昨日書いた谷町線と同じ日に乗り潰している。鳴り物入りのリニア地下鉄も他線との互換性がないなど欠点はある。乗れば確かに静かではあるが、急カーブや急勾配を楽にこなせること以外は特に何の変哲もないミニ地下鉄だ。路線自体は中心部では結構乗っており、不採算路線というほどでもないと思われる。大正以南鶴町方面への延伸や門真南以遠への延伸の計画もあるが、不採算路線は極力増やさないということから考えれば延伸計画は一旦白紙としておいた方がいい。


大阪市交谷町線

2007年11月10日 | 近畿

Tanimati11  大阪市交谷町線には幼少の頃や小学生の頃に乗った記憶がない。初めて乗ったのがいつかは忘れたが、おそらく学生時代に墓参りで天王寺方面へ行った時に、天王寺から東梅田まで谷町線経由で帰った時が初乗りと思われる。その後モノレールが門真市まで開業して大日経由で東梅田まで乗ったりすることはあったが、天王寺以南への乗り入れはなかなか実現しなかった。漸く実現したのは社会人…というか社会人になって一時期素浪人をしていた時に暇つぶしに地下鉄各線の乗り潰しをした時に八尾南まで一気に乗っている。八尾南は掘割風の地上駅で一段高いところに車庫があり、駅からも見えているが、大日も駅は地下だが、モノレールから谷町線の大日車庫が見え、両終端に車庫があるという路線としては理想的な車庫配置となっている。大阪モノレールで一時期南茨木から門真市方面へ通勤していたことがあり、毎朝大日で谷町線車庫を見るのが日課になっていたこともあった。谷町線は30系が未だに走っており、10系こそないものの10系によく似た形の20系と新20系も走っており、新20系の単一化が進む各線の中バラエティに富んだ布陣となっている。御堂筋線にしても言えることだが、路線長が長いので、一気に新車で統一するということが他線に比べて難しいのだろう。


08年JR西日本ダイヤ予想

2007年11月09日 | アーバンネットワーク

060408hanwa223e805  JR西日本では07年はさくら夙川駅開業とN700系投入以外これといった目玉もなく、大きなダイヤ改正もなかった。08年は大きなプロジェクトがあり、それに向けての車両投入も既に始まっているので、大きな変化が予想される。大プロジェクトと言えるおおさか東線と阪和線の天王寺連絡線の複線化を中心に08年のアーバンネットワーク各線のダイヤを大胆に?予想してみたい。

 おおさか東線開業に伴うダイヤ
大和路線30分サイクル化
大和路快速 天王寺~大阪~加茂        2本
外環快速  尼崎~奈良               2本
区間快速  JR難波~高田             2本
普通    JR難波~王寺                4本
合計                                 10本
学研都市線
快速    木津~宝塚               2本
快速    同志社前~宝塚           2本
外環快速  奈良~尼崎             2本
普通    松井山手~西明石          4本
合計                             10本
阪和線30分サイクル化
関空特急はるか 京都~関西空港                2本
紀勢特急    京都~新宮方面                 1本
関空・紀州路快速天王寺~大阪~関西空港・和歌山 2本
関空・紀州路快速JR難波~関西空港・和歌山       2本
普通      天王寺~日根野                    4本
合計                                        11本
大阪環状線30分サイクル
関空特急はるか 京都~関西空港                2本
紀勢特急    京都~新宮方面                  1本
関空・紀州路快速天王寺~大阪~関西空港・和歌山 2本
大和路快速 天王寺~大阪~加茂               2本
ゆめ咲き快速 桜島~大阪~天王寺              2本
環状     天王寺~大阪~天王寺                6本
合計                                         15本

 ポイントおおさか東線開業に伴い、それに関わる大和路線を30分サイクル化し、さらに天王寺連絡線の複線化に伴う阪和線のダイヤ改正においても阪和線を30分サイクル化する。30分サイクルとしたのは15~30分サイクルになっている学研都市線に合わせたもので、10~20分サイクルの大阪環状線との兼ね合いから30分サイクルとして快速の運転を円滑に行えるように考えた。
 
1.おおさか東線
 同線は15分サイクルでの開業は以前から発表済だが、快速の運転は最近になって新聞記事等で、奈良~神戸、宝塚間の直通快速を運転するということで話題になった。並行して直通運転を開始する近鉄~阪神に対抗するためとも思われるが、需要面では未知数だ。快速を運転するなら神戸方面へはスジに空きが少ないことやダイヤが複雑化することなどから快速は尼崎で打ち切るべきと思う。京橋、北新地方面への利便性が改善されるし、神戸方面へは尼崎での一度の乗り換えでよくなるという点を売りにすればいい。需要見通しがあまりないし、大和路線の快速を全てシフトするわけにもいかないので、奈良~尼崎間に30分毎の運転とすればよい。停車駅は王寺までの各駅と久宝寺、放出、京橋、大阪天満宮、北新地、海老江として東西線内でも快速運転を行えばいい。久宝寺では高田始発の区間快速と接続して天王寺方面への利便性を維持する。あるいは高田始発の区間快速を快速として、新たに久宝寺以遠各駅に停まる区間快速を柏原始発で設定してこれを30分毎に運転して、久宝寺で外環快速と連絡しても面白い。これなら久宝寺~天王寺間の快速も本数を現状と同じにできる。
 普通については放出~久宝寺間の線内運転でよい。但し、この区間だけではあまり利用が見込めないので、ラッシュ時には京橋~柏原間の運転として大和路線各駅から京橋方面への利便性も確保すれば面白い。

2.JR大和路線
 JR大和路線はおおさか東線の開業により20分サイクルから30分サイクルに変更する。大和路快速は20分毎から30分毎に減便するが、奈良からおおさか東線経由の快速を30分毎に設定して大和路快速減便の穴を埋める。高田始発の区間快速も30分毎として、これを快速に種別を改め、新たに久宝寺以遠各駅に停まる区間快速を設定する。これを30分毎に柏原~JR難波間に運転して、久宝寺~天王寺間の快速の本数を現状維持する。普通は全て王寺始発としてJR難波まで毎時4本の運転とする。柏原~久宝寺間は区間快速と合わせて毎時6本となるので、現状維持となる。久宝寺以西でも本数を維持するのであれば久宝寺始発の普通を運転すればよい。

3.JR阪和線
 天王寺連絡線複線化開業によりダイヤを変更する。おおさか東線とは関連はほとんどないが、大和路線ダイヤを20分サイクルから30分サイクルに変更するなら阪和線もそれに合わせた方が良い。また、関空特急はるかは30分毎なので、紀勢特急の60分毎はあるにしても30分サイクルとした方が運転もしやすいはずだ。
 関空特急はるかは現行通り30分毎の運転、紀勢特急も同様に60分毎の運転とする。関空快速・紀州路快速は20~40分毎から30分毎の運転に変更する。大阪環状線内では大和路快速、関空特急はるか及び後述のゆめ咲き快速とともに10分サイクルを形成して大阪環状線内での運転をスムーズにする。JR難波発の関空快速は30分毎に増発し、これに紀州路B快速を連結する。りんくうタウン~関西空港間の線路容量に問題があるなら関空快速のうち1本は日根野止まりとしてもよい。紀州路快速は環状線直通を日根野以遠も快速運転する通常の快速とし、JR難波発の紀州路快速は日根野以遠各駅に停まるB快速とすればよい。普通は15分毎の運転とし、日根野止まりを30分毎、和泉砂川止まりを30分毎の運転とすればよい。大阪市内などで本数が少ないというなら鳳まで30分毎に区間電車を設定してもよいが、優等列車をスムーズに走らせるという観点からすれば15分毎の運転でもよさそうだ。この辺りは並行する南海本線の事例を参考に考えている。

4.大阪環状線
 大阪環状線も各線の運転サイクル変更に合わせて若干ダイヤを変更する。特急の運転は現行通りとするが、快速は大幅に変える。前述したとおり、大和路快速、関空紀州路快速は30分毎の運転とし、大阪環状線内では10分サイクルとなるように走らせる。これに合わせてゆめ咲き線にも快速を設定し、これを30分毎に運転し、停車駅をゆめ咲き線内の各駅と西九条、大阪、大阪以遠各駅とする。関空紀州路快速も大阪以遠各駅として天王寺までの運転に変更し、大阪~京橋~天王寺の東側は環状運転を10分毎として10分サイクルに2本の電車を走らせる。大阪~西九条は快速6本、普通6本の運転となる。福島、野田ではサービスダウンになるが、それが問題であれば、ゆめ咲き線電車を全て環状線直通として京橋~桜島間の運転とすればよい。これによって大阪環状線内のダイヤは30分サイクルに統一され、優等と普通をスムーズに運転できるようになる。

5.JR京都・神戸線・JR宝塚線
 おおさか東線快速の運転区間次第で変化が伴ってくるが、基本的には何も変わらないようにする。おおさか東線の快速を30分毎と想定し、神戸方面直通運転を行うなら外側線を走らせて芦屋、三ノ宮、元町に停まる区間新快速とすればよい。神戸には折り返し線があるので、神戸手前で内側線に入り、折り返せばよい。但し、貨物の運転などを考えると外側線にこれ以上電車を運転するのは難しい。京都線と比べて優等が少ない分神戸線側なら運転できる余地はありそうだが、系統の複雑化はダイヤの乱れを招くのであまりやらない方が良い。やるなら本線と宝塚線、東西線の運転系統を再度見直し、極力相互干渉しないようなダイヤとして、尼崎運転打ち切りができる体制にしてから行った方がよい。その他は新駅開業に伴う内側線のダイヤ変更があるにしても、ダイヤパターンが大きく変わることはないだろう。


大阪市交四つ橋線

2007年11月06日 | 近畿

030701yotubasi23617  大阪市交四つ橋線には学生時代に就職活動でATC方面へ行くのに、貧乏学生が運賃をケチって割高(激高)のOTS経由ではなく、少し安い住之江公園~ニュートラムのルートで利用して乗り潰しを達成している。阪急沿線住民にとって西梅田は遠い遠い存在で、それ以前は高校時代に一度空いているだろうということで四つ橋線をチョイスしてなんばまで乗ったことがあったが、御堂筋線のように頻繁に乗る路線ではなかった。何しろ阪急梅田から西梅田までの距離は半端じゃない。1駅どころか2駅ぐらいあってもよいのではないかという距離だからよっぽどの物好きでない限り四つ橋線には乗らないだろう。以前は御堂筋線が昼間でもラッシュ時並みの混雑で走っていたが、今は10連化や少子化、モータリゼーション、就業状況の変化、大阪市の墜落などで利用が減って、ほどよい乗りになっているので、わざわざ空いている四つ橋線を乗ることもない。ビジネス利用が主体の路線だけに今後も仕事で利用することがない限りプライベートでは鉄活動(普通の鉄は範疇外だろうが)以外で乗ることはないだろう。


大阪市交中央線

2007年11月02日 | 近畿

060422cyuo2635  大阪市交中央線は長田を大阪港を結ぶ路線だったが、大阪港からコスモスクエアの間も中央線に組み込まれ、大阪のベイエリアと呼ばれる地区をコスモスクエアで連絡するニュートラムとともに走っている。この路線のイメージは交通科学博物館から見える高架を走るボロい地下鉄だ。幼少のころ交通科学博物館に行った時に見る印象が強く残っているのだが、新御堂と並行して走る御堂筋線と言い、阪急京都線を走る堺筋線など地下鉄も地上を走るのが当たり前というイメージを持つ路線の一つだった。地上を走らない地下鉄もあると気づくのは随分後になってからのことだ…気づくのが遅いわいというぐらいだったかも(^^;)見るのは見ていたが、実際に中央線に乗ったのはおそらく遠足で大阪城公園に行った時に堺筋本町から森ノ宮までの区間が初めてだったと思う。この頃はまだ大阪城公園駅が開業していなかったので中央線に乗ったのだと思うが、記憶は定かでない。その後はあまり乗る機会もなく、高校時代に漸く海遊館へ行くために大阪港まで乗車したぐらいだ。後の区間に乗ったのは学生になってからだ。学生時代に乗り潰しというより暇つぶしに堺筋本町から生駒まで中央線~東大阪線を乗り継いで行き、帰りは近鉄奈良線で帰るというルートでとりあえず全線を完乗した。コスモスクエア方面へも開業してしばらくしてから乗りに行ったが、当時OTSという別会社が大阪港~コスモスクエア間を運行しており、梅田からATCのあるトレードセンター前まで480円という暴利な運賃を取られ、貧乏学生だった私はこんなところ2度と来るかと思い、往復960円を払って梅田まで戻った。2度と来るかとは思ったものの就職活動や社会人になってからは結構トレードセンター方面へ行くことが多くなり、悪いなりに親しんでいる路線でもあった。今は中央線に編入され、運賃も若干下がって比較的トレードセンター方面にも行きやすくなった。WTCに大阪市の主要機関が移転してきたり、地下鉄の運賃値下げなどもあって、最近トレードセンター前近辺は昔よりも人が集まるようになってきている。東京の臨海部に比べるとまだまだだが、大阪も俄かに活気づいてきているのかなと感じるところだ。