JR山陰本線の園部~米子間はJR嵯峨野山陰線のページと被るところもあるが、鳥取まで最初に乗ったのは96年夏で、鳥取まで山陰本線に乗って、鳥取からは因美線~智頭急行を経由して帰っている。この時初めて餘部鉄橋を渡ったが、同鉄橋には幼少の頃何度も訪れており、思い入れのある場所である。親が餘部近辺の民宿を知っていたこともあって、年に一度は訪れていたところだ。残念ながらクルマでの訪問だったが、民宿に泊まって翌朝通過する出雲を餘部の駅で見るのが楽しみだった。また、鉄橋もさることながら海水浴をしたときに見えた眼鏡トンネルも印象的だった。その頃から換算して10年以上ぶりの餘部訪問だったが、この時は通過するだけだったのであっという間に通り過ぎてしまった。
山陰本線鳥取以西に初めて乗ったのは98年夏の中国地方遠征の際で、この時は山陰本線西部や三江線、木次線などに乗って宍道から山陰本線に入って、気動車を乗り継いで、米子からキハ58系快速とっとりライナーに乗って、倉吉まで乗っている。倉吉からはスーパーはくとに乗って帰阪している。今となってはキハ58のとっとりライナーに乗ったのは貴重と言えるが、平坦区間が大半のため、鈍足なイメージがあるキハ58も見違えるような走りには驚いた。とっとりライナーにはこの時ともう一度02年の正月にも乗車している。倉吉から乗ったスーパーはくとは高速化前だったため、振り子気動車の名が泣くような案外な走りだった。展望ビデオ付の中間車は被りつき好きの私としては評価したいところだが、中間車と先頭車のタイムラグがあるため、ビデオを見ながら外の景色を見るとおかしな感覚になってしまう。
その後何度か山陰本線鳥取以西には乗車している。03年夏には山陰ディスティネーションの企画切符を利用して一畑電鉄などに乗るため山陰へ赴き、高速化前の山陰本線を楽しんでいる。04年夏には急行だいせんに乗って、木次線乗車前に早朝米子から折り返し倉吉まで普通に乗り、折り返しキハ126後初めて快速とっとりライナーに乗って米子~宍道と移動している。
また、06年冬には廃止前の出雲の追っかけで泊~松崎間の有名撮影地へ出向いている。撮影前日に伯備線経由で宍道まで行き、宍道からヒルネ利用で出雲に乗って倉吉まで最初で最後の出雲の旅を楽しんでいる。撮影のフィーバーに比べるとまだ廃止まで1ヶ月程度あったとは言え、出雲の車内は鉄道マニアが集結した感があった休止中の食堂車を除き閑散としていた。翌朝は始発で移動して撮影地まで長躯徒歩で移動したが、撮影地は早朝からクルマ移動組みが既にスタンバイしていた。ローカル線の撮影地になればなるほど列車移動が少なくなり、クルマ移動が目立つのは鉄道ファンとしては寂しい限りだ。マニアでも撮り鉄と乗り鉄は別ジャンルといったところがあるのは寂しいというか情けないところで、鉄道が好きなのか写真を撮るのが好きなのかよくわからない人間が多い。鉄道を撮るのに鉄道には一銭も落とさずに、金をかけるのはカメラと時刻表や情報誌そして移動手段のクルマというのは如何にも鉄道ファンとは言い難い。私としては極力撮影でも鉄道利用を心掛けるようにしているが、鉄道では不便なところへ行くほどクルマ移動組みの多さにはいつも驚かされる。