昨日は、テレビで「ダビンチ・コード」を観た。小説も読み、映画館でもみているのだが、キリスト教にさしたる関心もなく、なんだか、面倒だな、ぐらいの感想しかなかったのだが、今回の「復習」により、ようやくストーリーの全貌が理解できた。また、小説の文庫本3冊を探し当てて、より精密な復習を開始したのである。
いま、コマーシャルで、同じ系列の、キリスト教をめぐる映画が、大宣伝されている。これも、小説を映画化したものであるが、説得力のある宗教をめぐる研究の進み具合が、人びとの価値観に、大いなる影響を与えているようだ。
キリストが神の子であるのか、ないのか、あるとしても、ないとしても、人間としての倫理感に大きな影響を与えないのではないかと思うのだが、キリスト教の文化圏ではそうはいかないのだろう。
ラングドン教授の宗教観が、語られ、現代での健全な常識を与えているようだ。エピソードとして、教授が閉所恐怖症であったのが、治ってそれをどう捉えるかの小道具などは、ドラマとしてうまい仕組みである。
しかし、このドラマは、キリスト教にそれほど関心を持たない小生としても、体系として、理解できるし、共存可能な考え方に西洋もなったきたか、という感じをもつにすぎないのだが、これは、対話が可能ということであり、対話ができるということの健全性を、歓迎したい。
いま、コマーシャルで、同じ系列の、キリスト教をめぐる映画が、大宣伝されている。これも、小説を映画化したものであるが、説得力のある宗教をめぐる研究の進み具合が、人びとの価値観に、大いなる影響を与えているようだ。
キリストが神の子であるのか、ないのか、あるとしても、ないとしても、人間としての倫理感に大きな影響を与えないのではないかと思うのだが、キリスト教の文化圏ではそうはいかないのだろう。
ラングドン教授の宗教観が、語られ、現代での健全な常識を与えているようだ。エピソードとして、教授が閉所恐怖症であったのが、治ってそれをどう捉えるかの小道具などは、ドラマとしてうまい仕組みである。
しかし、このドラマは、キリスト教にそれほど関心を持たない小生としても、体系として、理解できるし、共存可能な考え方に西洋もなったきたか、という感じをもつにすぎないのだが、これは、対話が可能ということであり、対話ができるということの健全性を、歓迎したい。