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空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

道を究める-日本人の心の歴史

2019年12月14日 22時13分24秒 | 思考試行

 放送大学に修士選科生として入学して、最初に登録した科目である。日本の歌道、芸道、茶道、俳諧、武道、絵画のそれぞれの分野における先人達の、業績が語られ、作品が紹介され、その仕事ぶりが詳細に示されている。

 縄文時代に遡って、日本人の暮らしぶりが目に見えるようだ。そして、今もなお、伝統が息づいているなか、日本人の暮らしは続いている。これらの伝統は、生活の根底に息づいている。だが、階級社会であることから脱皮はもちろんしたことがない。

 先の大戦で、かつてない大敗を喫し、国情は、大きく変わったけれども、それでもなお、伝統の「よきもの」がすべて消え去ったわけではない。むしろ日本文化の普遍性が世界の注目を浴びているかのようにも見える。だが、その奥底に、未だ払拭しきれない問題を内包している事実はみておかなくてはならない。

 民主主義をはじめて、敗戦後体験して、今、日本はどのように変化してきているのであろうか。いまだに、かつての支配者の論理に多くの国民がしばられ、そのもとでの「日本文化」が継続しているようにみえる。階級社会の根幹をかかえたままの、価値観が広く社会を覆い、国民が真に解放され、真に、あたらしい時代を迎えているようにはみえない。

 今一歩の踏み出しができていない。このままでは、敗戦による大きな変革の機会が、なしくずしにされて、旧来型の日本社会にもどってしまう可能性さえ出てきている。多くの犠牲のもとに、敗戦を迎えた結果の「大事なもの」を、国民がしっかりとグリップし、自分のものにしているようには見えない。

 問題がどこにあったのか、国民一人一人が主人公になるとはどういうことか、もう一度原点から見直す必要がある。為政者が国民を舐めきって、侮っている限り、国民が主人公にはなりえない。しかし、そのように、彼らが、国民を舐め切っている姿をみせてくれていることこそ大事である。国民がそれをみて、気付く可能性が高いのだから。それは、大いに続けてほしいものである。

 国民は、しっかりと現状を把握して、憲法を変えられて、彼らのために徴兵されないように注意しなければならない。


憲法9条をどうしても変えたいとは

2019年12月11日 23時06分53秒 | 思考試行

 憲法9条を変えたい人は、どういう人達だろうか。国を守るためには、命もおしくはない、国民はすべて、そうあるべきだ、と考えているのではないだろうか。他国が支配したくて、攻めてきたときはどうするのか、という。そのとき国民は当然戦うだろうということだ。

 そう考えて、軍隊ではないといいながら、自衛隊を作り、今や防衛省を作った。憲法9条を完全に無視した存在となっている。だが、憲法9条に定める通りにすることには、国民サイドも抵抗があるようで、相手があり、ましてや、良識に期待することは、できないという「常識」があるのだろう。どこからみても、立派な、軍隊を作り上げた。国際的にみても、遜色はない。そして、その現状を非難する声は少なくなっている。現実を作り上げてきた保守政権の狙いは成功したといえる。

 だが、憲法9条が現行のままでは、徴兵制を決めることはできず、国民に兵役の義務を課すことはできない。あくまでも志願兵のみとなる。これは支配層にとって、具合が悪い。おおいに不満なのである。

 国が、何をめざしているかである。国民の生活、暮らしを第一義に考えている政権かどうかである。明らかに、支配層と非支配層があって、この権力構造は、今や、世界で一般的な姿となっている。一部、真剣に国民中心の政治をめざしている国もでてきているが、それは、世界で大多数というわけではない。

 支配層がその権力構造を維持しようと躍起になっている姿が、一般的な国の政治形態である。そんななかで、兵役につくというのは、なんのために命をかけているかということになる。騙されてはいけない。とんでもない連中の、心地いい暮らしを、権力を守るために、シモジモの国民が、つらい思いをするということである。


不都合こそが世の中を変える

2019年12月06日 12時28分43秒 | 思考試行

 アフガニスタンで中村医師が亡くなった。アフガニスタンにとって、大事な人をなくした。今、狙撃した人物らは、どう考えているだろうか。

 中村医師には、微塵も私心がない。ただただ、アフガニスタンのために、尽力されてきた人である。彼の偉大さは、世界を駆け巡るだろう。何かきれいごとを言ったり、名言を吐いたから偉かったのではない。かれがどう生きてきたかが素晴らしいのである。

 世界の偉人達は、どんなことで偉人とされたのだろうか。中村医師は、まがいもなく、人類の生み出した偉人である。彼を殺した人間は、事情を知っていたのだろうか。それとも、なにかの利害関係に怒りを持っていたのだろうか。

 人間に良い生き方があるとすれば、中村医師は、まさにこれ以上ない模範となる人である。世界は、彼の生きざまを知り、業績を知り、どう死んだか、これらを知って、何らかの進歩をするだろう。

 また、そうでなければならない。そうしなければならない。

 彼のような人こそ、政治家になってもらいたい人だが、彼は政治が好きではなかったらしい。当然と思う。そして、当然と思わざるを得ない政治の現状を、世界に突き付けている。政治家は、深い反省が必要である。彼らは、追い出されない限りは、決して反省はしないだろうが。

 名簿を破棄した、なにもわからない、詳細不明、誰が、こんな情報をもらしたんだ!と大騒ぎ、不信任を出せば、解散するぞと言えば、準備不足の野党は尻込みをしたと聞く。政権は、逃げ切った、などと雑誌の宣伝広告の見出しが躍る。

 偉人が射殺され、政治は自分の都合で動く。しかし、こんな不都合こそが、単に支配され、引きずり回されるだけではない一般大衆が、気付く機会となる。こういうことがなければ、事実をしらないままに、不自由が続く。どう世の中を変えていくのか。大衆が考えることをしなければ、変わらない。


国民・市民ようするに「大衆」(しもじも)にすべての解決策がある

2019年12月04日 10時56分52秒 | 思考試行

 実に当たり前のことである。だが、一人ひとりが、日常「いい扱い」を受けていないと、なんだか自信がなくなり、自身の存在をどうでもいいような、とるに足りない存在と認識しがちである。世の中から、そういう仕打ちを受け続けていると、そう感じざるを得なくなる。それは、自然なことである。では、このままでいいのか。

 桜を見る会では、税金を私物化してつかう実態が明らかとなった。彼らの好みで、参加者を募り、詐欺師集団の宣伝材料の提供までしてしまった。芸能人やタレントを呼び、にぎにぎしく安倍政権の宣伝を、厚顔無恥にやった。

 共産党の議員に指摘され、名簿の提出を要求されるや、ただちに、廃棄する。なにも残っていないと、平気な顔をして、官僚はこたえる。安倍政権は、他人事の顔をして、官僚答弁にすがりつく。政治そのものが、私物化され、お友達のためには、便宜を計り、政治献金がくるところや、お付き合いの多寡によって、政治が動く。政治は官僚の人事権をうばいとり、かれらの首根っこをおさえこんだのである。官僚は、政治に逆らえない。正義はここからは生れない。

 日本は、先の大戦で初めて民主主義というものに触れ、大衆「しもじも」が、一応は、ようやく一人前として扱われるようになった。だが、「しもじも」が、自ら目覚め、要求し、敵対勢力をはねのけて獲得したものではなかった。なぜ「しもじも」というかと言えば、権力を持つ者の、一般大衆をみる感覚がそうだからである。木っ端役人でさえ「しもじも」という。高級官僚からみれば木っ端役人など虫けら以下だ。

 他者から、与えられた力は、本物とは言い難い。自ら考え、方策を練り、展望を持って権力をとらなければ、身についていないと思わねばならない。国民主権なんだから、自分が主人公であることを自覚して、さまざまな道具を駆使するようにならなくてはならない。

 権力は、すぐに腐敗する。良心的だったものでも変質する。国民主権を志向していたとしても、権力者が変質して独裁者となれば、まずは身内、お友達、好みなどなど、独裁者の都合で政治が動く。反対者には弾圧をする。中国の覇権主義は、あちこちに害悪を巻き始めている。香港の行く末が心配である。本土に影響が及ばないように、中国は躍起となっている。中国本土は、監視社会がほぼ完成しているかにみえる。

 アメリカでは、非科学的な宗教集団の力が強く、大統領選挙に影響を与えている。世の中聖書に書かれている方向に進んでいるなどと、真顔で話す人々をみると不安に襲われる。これは、対処可能だろうが、困難な事態であることは間違いない。

 人類には、一部、頑張っている人びとがいて、科学技術を進歩させ、明らかに人類に貢献している人がいるけれども、正反対の人びともいる。政治の世界は、多くの人びとの生活に直結するだけに、重要なのだが、誰がそれを担うのか、誰を選ぶのかが重要となる。

 国民主権をいうならば、国民自身がしっかりしなければ、いい代表を選ぶことはできない。そもそも、まだ、選挙制度さえない国さえある。あっても、少ない支持率で、全体を統括できる仕組み、選挙制度を採用する。これは、利益誘導、買収まがい、宗教、等々ある程度の、岩盤支持層さえ構築してしまえば、安定した権力構造が維持できることになる。真の国民主権を獲得するには、人類はまだまだ、道は遠いというべきだろうが、この道は、いわば当たり前の道であり、一人ひとりにかかっている。すぐに変わる可能性を秘めている。また、変えなければならない。

 

 

 

 

 


「赤旗日曜版」にチョット言いたい

2019年11月26日 22時20分40秒 | 思考試行

 赤旗日曜版に糖尿病対策の記事があった。今流行の「糖質制限」のことがでてくるかと思ったが、どうやら、そんな話ではなく、今まで通りのことであった。いわば既成の対策である。

 糖尿病を巡っては、薬剤業界や医療業界においても、相当なマネーが動いている。透析の看板が目立つし、患者の数も大変多いと思われる。一大ビジネスになっている。

 糖質制限の話は、夏井睦氏の「炭水化物が人類を滅ぼす」に詳しく、ベストセラーになった。画期的な話である。医師だけに論理的だし、説得力がある。既存の糖尿病対策では、とても治療になっていないとばかり、既存の治療法を、痛烈に批判する。

 小生も、3年ほど前に、Hba1cが7を超え、医師から投薬の宣告をうけた。そのころ、夏井氏の本に出会い、糖質制限に取り組み始めた。効果は抜群で、それから3ケ月後の定期診察で、件の数値は正常値となり、医師は驚いた。もちろん投薬もなくなった。

 通常、いったん糖尿病と宣告されたなら、一生食事制限、カロリー制限をしても治ることはなく、どんどん進行するだけという印象だったのが、糖質さえとらなければ、血糖値は正常となるのだから、極めて有効な治療方法である。

 昨今は、かなり浸透してきているようだが、マスコミなどでは、逆向きの動きもあるようで、糖質制限の「問題点」をとりあげたりしている。ところが、この説の根拠研究は、どうやら、エビデンスがよわい研究で、そのことを、江部康二医師も指摘している。糖質制限が有効とするもっと強い研究があるという。研究にもクラスがあるらしいのだ。

 赤旗は、このあたりの事情をご存じなのだろうか。もしか知らないとすれば、ちょっとガッカリである。

 確かに、糖質制限といえば、主食のコメなど、炭水化物をさけるというのだから、常識的にも現在の食事習慣からも直ちには受け入れがたいのは判るが、糖尿病対策としては、まっとうな治療法であり、これを無視するのは、赤旗らしくない。ご存じないのなら仕方がない。

 こんな駄文など、お目にとまることはないだろうが、検討してもらえたら有難い。赤旗のほかの記事はいいだけに、この問題で、さすが赤旗という記事を期待したい。


時間の過ぎ方

2019年11月21日 17時44分28秒 | 思考試行

 かつて検査を受けたときは、むくつけき若い男性であった。ゴリゴリと体のあちこちにゼリーをつけたうえから、こすりまくられて息を吸え、ゆっくりはいて、ハイ止めて、楽にして、と長い時間、退屈な時間を過ごしたものだったが、なんと今日は、うら若き女性が検査員で、物腰やさしく、いちいち、心地いいのである。

 ウデが直接ふれたり、体ごとよせて、くれるのもうれしい。おなじ手順で検査するのだが、時間の進み方が全然違う。指示も丁寧で、適切で、まるで夢見心地の時間であった。検査は直ぐに終わった。物足りない気持ち。

 これが動物の本能なのだろう。カーテンの隣は、被験者が中年のおばさんだったが、こちらの検査をしている人は、若い男性である。こちらは、小生より少し遅れて検査が始まったようだが、おなじような進行である。指示のことばは少し違うが、それでもやさしい印象が強い。おばさんの印象はどうだったのだろうか。

 この部屋では、二人の検査員がいたが、これが逆だったら、時間が相当ながく感じただろう。検査の順番は、事務的になされているだろうから、今日の順番は、実にラッキーであった。しあわせな時間だった。

 人間というのは、様々な人がいて、関心も違う。くみあわせによって、幸せだったり、不満だったり、いろいろあることだ。人生どのように暮らしていくかについて、工夫を加えれば、そうとう改善が可能で、楽しく暮らせることも可能なことは、意外に多いのかもしれない。

 不満を抱えて、我慢我慢で生きるか、それとも、幸せを感じながら、暮らすのか。こんな検査一つでも、なんとも幸せな気分であった。久しぶりに、若い女性のマスクの顔だが、黒い大きな瞳がかわいく、「愛想笑い」も素敵である。思わずお礼の言葉も出るし、人間として、ちょっと上品なジーサンであったかと勘違いさせてもらった。

 


メロン配ってアウトだけど後援会を税金を使って慰労するのはオッケーの不思議

2019年11月19日 21時01分07秒 | 思考試行

 予算を毎年オーバーして後援会を招待する。好評なものだから調子に乗って人数が増える。選挙区の後援会のメンバーをどんどん招待する。予算は毎年オーバーするようになって、これではまずいと予算を増やすことにした。ところが、赤旗新聞に気付かれてしまった。

 経済産業省大臣は、事務所としてメロンをくばり、香典を出していたところがばれちゃって、せっかくなった大臣をやめなければならなくなった。事情通は、彼は危ないと以前から知っていたと発言する。ことがはっきりしてから、そんなことを言うのだから、マスコミは、評論家は、本当に何を考えているのだろうか。

 よくも自慢げに、すんだあとでいうもんだ。そして驚くことには、そのことを恥じるとかいう風がまったくないことである。彼は、危ないと言われていたんだよねぇ。常識だった。てなもんである。

 勝負がついてから、前から知っていたことを、恥知らずにも自慢げに言うのである。こんな連中の役割は、さまざまな場面で政権を擁護しながら、少し野党的な色をだし、実態は、その状況下でうまく立ち回っている政界寄生虫である。旗幟は鮮明にはしないが、うまく泳ぎ回る。実は、政権の別動隊であり、野党の足を効果的なところで掬うのである。そこに彼らの役割がある。

 世の中何が正しいか。それは簡単には言い難い。有利に生きている連中は、必死に這い上がろうとしている弱者をうまくおだてて、彼らの仲間にするかのようにふるまい、乗ってきたものを、最大限利用する。一時的な快楽の対象にしたり、したい放題である。すてさり、きりすて、見世物にし、くいものにする。

 弱者は彼らに利用されたことを知ったとしても、泣き寝入りするほかない。きれいごとの金持ち連中は、そんな事実を知る由もない、という顔をし、すべて知らないふりをしていればいい。

 事務所のせいか、秘書のせいか、税金で自らの後援会を喜ばせ、権力者は笑顔を浮かべながら、後援会のお客様に駆け足で近寄り、ハイタッチする。しあわせだろうなあ。しかし、それはそれでたいへんだ。朝何時におきると思ってるんだ。記念写真だって、早朝だぜ。

 昼近くまで寝ていて、誰からもどやされることのない、弱者の君は、確かに収入は少ないだろうし、人からあがめられることはないだろう。だが、それなりに、リズムがつかめているとすれば、とんでもない権力を持つもののそばによってはならないということだ。そうしているかぎりは安泰のようにみえるのだが、ところがどっこい、大網で、周囲周辺丸ごとすくいとられて、ながれにのって、なにものかのエサに転化するのである。


日本はもはや先進国ではない

2019年11月13日 23時48分11秒 | 思考試行

 日本は、もう先進国ではないと言われているそうだ。いろんな指標がそれを示しているという。それはなぜか。インターネットで調べてみたが、もう一つピンとこない。

 ただ、労働者の賃金は下がる一方なのに、企業は金余りの状態だという。賃金があがらなければ、生活は豊かにはならない。企業が内部留保に懸命となり、富裕層と貧困層の格差がどんどん開いているようでは、よのなかギクシャクするのは当たり前だろう。

 富裕層からは、貧困層の実態をみてどうにかしようという気持ちはないようで、むしろ、この格差を固定化したい様子も見られる。この富の分配に、大きな問題があると思う。

 一人一人の生活に注目して、どのようにすれば、みんなの生活が良くなるか、良くするかに関心があるのかどうか。自らと周辺のためだけに、利益を図る。他者のことは、どうであってもかまわない。システムは競争原理だけで、政権は弱者切り捨てを平気で実行する。

 これでは、世の中良くなるはずがない。

 研究予算においても、目先の利益ばかりを追究する傾向もみうけられる。研究費予算は、基礎的研究部分を切り捨て、応用研究に力をいれているとしている。これでは真の科学技術の進歩はのぞめない。研究論文の質量ともに、日本の没落傾向が言われている。

 地球温暖化が、現実に大きな被害を巻き起こしている。環境問題が、深刻であり、これにまともに向き合っている様子がない。政権の無神経ぶりに驚かされる。

 災害に対する対策もお粗末である。人を大事にする思想の欠如がモロにでている。要するに、国民の生活そのものにキチンと目をむけて、いかに、すれば生活がよくなるのかという視点が欠如している。

 政治の実態に、多くの国民が目をむけて、その矛盾、本質を見抜き、国民本位のものにさせていく動きを起こさなくてはならない。だまっていては、良くなることはあり得ない。


人を大切にする考え方が生き残るのかどうか

2019年11月12日 22時26分31秒 | 思考試行

 自分の都合、自国の都合、セクトの都合、会社の都合、自分の権力の都合、それでは結局うまくはいかない。地球全体を考えてどうしていくのか、そうでなければ本当の解決はできない。

 今、世界はセクトの都合で動いている。かつては世界の警察を標榜してきたアメリカが、自国の利益を正面に出してくる政権となり地球全体にキシミが出始めてきている。

 そのなかで、我々個人が何をしていくか、日本の場合、隣国韓国との関係がある。韓国は歴史問題を大事な問題として、教育に力をいれ、日本が何をしてきたのかを忘れまいとしている。

 日本は、何をされたのかを含め、自分が何をしてきたかについても、忘れてしまう質である。個人としては、韓国の国情を理解しがたい気分が強いけれでも、それを解消するためには、同じように激してはならないことである。良心的にやるべきことをやるべきである。非難の応酬は益がない。

 世界をみて、恨みつらみは、生きている者同士については、いつまでも、ついてまわるだろうが、過去の問題を現在に生かす以外は、いつまでも忘れまいとするのは、あまり生産的とはいえないのではないかとも思える。

 人類の歴史は、恨みをもつのが当然という出来事が数多い。まことに残虐な歴史の連続である。それを徐々に克服してきたのだろうが、直線的に改善されてきているわけでもなく、今の今、さらに、新たに事態がうまれてきている。

 日本をみても、政権与党は、議席の数を力として、好きにしている。官僚の人事を完全掌握して、官僚を政権の道具として最大限利用している。桜を見る会などみても、典型的な政権の強欲ぶりを見せている。本当に民意を反映しているかといえば、小選挙区制のもとで、民意の反映などそもそも、その気はないから当然と言えば当然である。

 そして、獲得議席数は、支持の実数とはかけ離れたものとなり、議席数は、国民のくらましの効果絶大となる。彼らにそんな力はないし、与えるのも変なことなのだと思う。

 彼らは何をしようとしているか。憲法をかえて、戦争ができる国にしようとしている。現行憲法から、どう戦争ができるのかに腐心している。こんなことを許してはならない。

 先の大戦で、日本がどれだけの犠牲者を出し、悲劇があったのかを忘れてはいけない。人を、庶民を大事にする観点が現政権にはないとみる。権力維持のために、公費を自派のために平気で使う連中なのである。格差社会を是認し、弱者切り捨ての彼らの政治を監視しなければならない。


不可解な中国の判決

2019年11月08日 22時21分34秒 | 思考試行

 麻薬を持っていたということで、無期懲役の判決が中国であった。その日本人の方の様子を写真で、一目みて、そんなことをするはずがないというのは、すぐにわかる人ではないか。

 持っていた荷物に、麻薬を「さしこまれた」のは容易の想像できる。本当に、詳しい調べをしたのだろうか。実に疑わしい。そして、日本政府はこれに対して、どんな反応をしているのだろうか。テレビの簡単な報道では、まったくわからない。

 確かに、中国は、麻薬のせいで、イギリスのとんでもない企てにエライ被害を被った歴史がある。その悔しさは、察するに余りある。まったく、ひどい歴史がある。

 そのため、麻薬を持っているだけで、厳罰に処するというのはわかるのだが、さまざまなケースがあるに違いない。取り締まりの現場がどのような状況なのか、どんな流れでそうなったのか。

 無実の罪を、押し付けられたとすれば、とんでもないことだ。一見しただけで、麻薬取引の関与しそうもない人であっても、現物をもっていることだけで、罪を与える。こんな国には、旅行なんてすべきではない。

 恐らくは、その方が犯人だとは、誰も思ってはいないのではないだろうか。みせしめでいいのだ。麻薬を持っている事実をもって、その人を厳罰にする。そのことで、国としての統治の秩序が保たれると考えているのではないか。

 本人が無実かどうかなんて問題ではなく、ただ、持っていることだけで罰するのである。こんな国が、今急速に成長発展している国なのだ。

 こんな状況を見せつけられると、人類は、まさにまだまだの水準であり、中国も情けない国だなと思わざるを得ない。日本共産党も中国にたいする見方をかえた。いいではないか。事実をみて、判断していくほかないのである。

 習近平の独裁など論外だが、集団指導体制がキチンとできるかどうかも危うい。人間社会をどのように構築していけばいいのか、本当に頭の痛いことである。


どう生きるかどう死ぬか

2019年10月30日 22時49分54秒 | 思考試行

 人間にとって、誠実こそ大事なのではないかと思い始めている。何が誠実か、そうでないかは、当事者しかわからない。いちいち他人が介在しない場合もある。あくまで、その当事者がみずからの判断において、誠実か、そうでないかの行動をとることになる。

 その時、どのような選択をするのか。誠実なのかそうでないのか。そのために自身の命をかけることになっても、誠実を選びうるのか、結局のところ自身の命が惜しくて、誠実とは思えない行動を選ぶのか。

 人間はそういう場合、どういう行動をとってきたのだろうか。誠実ではない道を選ぶのが普通なのか、それとも人知れず命を落とした人のなかに、誠実の道を選んだ人がいたのではないか。

 その道を選んだからといって、誰からも褒められることもなく、知られることもなく、その生涯を終えた人もいるに違いない。そんな人は絶対にいない、とは言えない。そんな人は必ずいるに違いないと思いたい。

 人間という生き物は、そんなことをやる生き物である。一方では、とんでもない人間とも思えないことをやる人間もいる。

 総じてどう考えたらいいのだろうか。自らの欲望のままに生きることが人間として生きたことになるのか、それとも、自らの欲望を抑えに抑えて、「やるべきことをやる」ことを徹底して、人知れず、その命を終えて良しとするのか。

 飢えた獅子に、我が身を投げ出した仏がいる。そんな仏画をみたことがある。それも人生なのだと教えているようだ。飢えるものに、自らの肉を与えて生涯を終える。

 まさにため息のでる選択である。そんなシチュエーションに出会ったとき、自分はどうするのか。そんな場面で、命を投げ出すことができるのかどうか。 

 この世に生を享けて、自らの命を守るために、どれほどの命をうばってきたことか。それに気づいた今、自らの命が他者に提供されるべきだと感じたときに、逃げ出すことができるのかどうか。

 その時が来たときは、潔く命を差し出すことができるかどうか、そこに真価が現出するのかもしれない。なにか大義を設定して、自ら命を絶ったものがいる。彼らは、その生涯を真に全うしたのだろうか。

 真に理解できない今は、彼らの生涯は、無駄な意味のないものとしか見えない。そう思っている者がいるとして、彼らはどう思っているだろうか。苦笑いしているのであろうか。


生物環境の存続のための方策を立てるべきである

2019年10月29日 21時59分03秒 | 思考試行

 ありうべき考え方とか、条件が決まった時の方向性というのは、だいたい決まるのではないかと思うのだが、世の中全体では、相当まちまちの考え方、価値意識があって、それが原因となって、紛争が巻き起こり、止むことを知らない。事態はそんなことをしている余裕はないはずなのだが、そのようには動いていない。

 人類がこののち、何年生き残ることができるか、今のままでは、人類自体の行動によって、自ら滅ぼしかねない雰囲気である。そこからは、全体として、相互に協力しあい、存続を図るという考え方には、そもそも立っていないようにみえる。

 自らの国、地域、利害関係に基づいて、行動指針を決めているようで、全体の条件については、関心が薄く、行動を決めるについて、かなり近視眼的な判断のもと、行動を決めているようにみえる。

 個人の名誉だったり、権力の維持だとか、単純な利己的理由だけではないだろうが、結果的には、個人の利益追求と変わらないようにしかみえない行動をとっている指導者なり、権力者が多いようにみえる。

 そもそも、全体について、どうするかという差し迫った問題意識は持っていないようにみえる。個々の人間についても、全体について、問題意識をもって、それに沿うような日常活動をするまでには至っていない。

 人類全体の行動は、その総和となるから、個々人が、そのような全体を考慮した行動パターンをとるとすれば、地球上の事情は相当な変化をもたらすことだろう。

 そのための目標値が研究されてもいいと思う。どこをどうすれば、維持できるのか、その指標がだせるならば、大したものである。今の人類の科学技術水準では、不可能なのだろうか。

 気象関係は、スーパーコンピューターの計算で、予報の当たり具合が、ますます精度をあげていて、台風進路などは、ぴたりとあててしまう。

 気象予報が当たるだけでは、被害を防ぐことはできず、今年も手ひどい目にあわされているわけだが、この対策に、効果的な対処ができていない。大まかな方針さえ出ていないかのようである。

 治山治水の原点から、個々の家屋、農業関係の対策など具体的な方針がたたないようでは、人類の存続はいよいよ深刻な状況にある。これがどうなっていくのか、目先のことに逃げているわけにはいかない。為政者は、どのような対策をとっていくのか、手腕が問われている。


何ができるだろうか役を見つけたい

2019年10月28日 11時23分20秒 | 思考試行

 放送大学[名誉学生」の称号を与えられて、こういうことの意味を始めて考えてみた。こんなことは、今までの、生涯でなかったことだから、本当に新鮮な感じである。

 自分の行動の今後について、こんな称号をもらっていい加減なことはできないなと思うと同時に、これから、どんな風に生きていくのかが問われているようにも思えた。

 たかが、放送大学で全コースを卒業したに過ぎないのだが、確かに年月がかかり、それなりの努力も必要であるが、いわば、継続しさえすれば可能なことで、特別な才能があるわけでもなし、格別に創造的な仕事をしたわけでもない。

 いわば、創造の仕事は、今後にある。これから何らかの仕事を発見して、できればこれに着手することが自分にとっての課題である。

 なにもしないという可能性はおおいにあって、それが一番ありそうなのだが、そうならないようにしたいというのが自分の希望である。

 課題をどう見つけ、それを実行につなげることができるか、と大上段に振りかぶったところで、意識的に行動しなければ、実現することはないし、可能なこと、自分にできることを見つけることが大事である。

 子供の頃は、小説家になりたいと思った。だが、思っただけで、挑戦したわけではない。そもそも世界を組み立てて、ストーリーをつくりあげるなんて自分には不可能としか思えない。

 それでも、このブログも始めてからかなりの年月が経つ。思いつくままに駄文を書き綴ってきたのだが、累計すれば、少なくない人々が、通り過ぎていかれたようになっている。

 このブログは、あくまでも私見であり、しかも特別の研究をして、それを発表しているわけでもない。

 何かの役にたっているかといえば、なんの役に立っていないというのが正解だろう。それでも自分自身にとっては、バッティングの素振りのような効果があって、なにかいい題材があれば、文章にすることができるような気がしている。

 技量があがったというのではなく、要するに「慣れ」がでてきて、心がけ次第で、勉強していけば、ひょっとすれば、一つぐらいの作品はできるのではないかという錯覚が生じてきている。

 錯覚でも間違いでも、せっかくこの世に生を享けて、少しでも人々の役に立てる仕事をしたいものだ。


放送大学名誉学生になって

2019年10月27日 00時35分18秒 | 思考試行

 長年、放送大学を続けていて、ついに全コースの終了を迎え、名誉学生となったらしい。放送大学から、銘板に名前をのせていいか、との問い合わせがあり、それは、うれしいことだと回答した。

 おもえば、7コースを卒業したのだから、しつこいものだと我ながら思う。放送大学の学費は安いと思うのだが累計すると、それは結構な金額となる。しかし、長年かけてのことだから、それほどの負担感はなかった。

 振り返ってみれば、長い年月をかけて、全コースをクリアしたといっても、その成果はどれほど、身についているのだろうか。

 その時その時は、一応テストはクリアしているのは確かだけれど、残念ながら、学習の成果、記憶は直ぐに忘却の彼方へと消え去り、跡形もなく、なにごともなかったような気さえする。

 それでも、自身が気付かぬところで、何ほどかの痕跡があるのだとすれば、それが唯一の救いであるのだけれど。

 ながい年月のなかで、いろんな場面があった。 ある科目、到底、受かるはずもない状態で、テキストはとても歯がたたず、放送を聞いても、どうしようもなく、単位認定テストを受けても、意味がないと思っていた科目だったが、いざテストを受験してみれば、問題が素晴らしく、まさに、テストの最中に勉強ができて、問題に導かれて、思いもかけぬ、いい出来の答案が書けたことがあった。

 結果は、最高水準での合格であった。しかし、その喜びもつかの間で、実はその成果が身についていないのである。中身が濃い科目であっただけに、テストはなんとかクリアしたものの、身についていないという自覚は、いささか寂しいものがある。

 全般に、全科目について、その傾向があるような気がする。単位は確かにとったのだけれども、身についていないというのは、どう考えたらいいのだろうか。

 それで、すべてゼロなのかといえば、そうとも言えない面もあって、どこかに、痕跡が残っている風でもある。それは、なんとなくであり、どこともいえるものでもなく、したがって、自慢できるものではないのは当然なのだが、なんとなくあるような気がするのである。

 たよりないことで、もちろん誰にも自慢などできるものではないが、その感覚こそが、放送大学名誉学生の意味なのかもしれない。単位を取ってきたのは確かなのだから。


理不尽なことには付き合わないでいいではないか

2019年10月25日 21時32分23秒 | 思考試行

 韓国の日本に対する姿勢というか、もめ具合はどう考えても韓国側に問題があると思う。過去の日本の仕打ちが忘れられないということだろう。

 しかしながら、今となっては、当事者の方はほとんどいないわけで、恨みを忘れないように続けてきた努力の「成果」が今日の事態となったということだろう。

 歴史を振り返る意味は、過去の出来事のなかから、今後繰り返してはならない事象を忘れないようにすることであって、現在のなかで、なにかことを起こすためにあれこれいうために、振り返るわけではない。

 韓国のやり方は、過去の恨みつらみを忘れず、現在の今の今、どうやって、このうらみをはらそうかという考え方のようにみえる。絶対に、過去のことを忘れないし、この恨みをいつまでも言い続けるのだと、そしてその話になったら必ず日本は謝るべきだというようにしかみえない。

 ドイツは、いまでも謝り続けているという。それに引き換え日本は、いつまでも謝り続けるのは嫌だといっているように見えるといわれている。

 主体的に、謝り続けるのはいいのだが、相手から謝れ謝れといわれるのは、時が過ぎ、世代が交代するなかではいささか行き過ぎではないだろうか。

 ドイツは、主体的に謝っているのであって、謝れ謝れと言われ続けているから謝っているわけではない。戦争となれば、どこの国も極悪非道のことをやっている。

 多くの人びとがひどい目にあってきた。いまもなお、その事態は続いている。人類は、はたして生存をつづけていく「資格」があるのだろうかとも思える。

 非科学的な考え方が、いまだに政治の世界に影響を与え、それを知りつつ、選挙で勝利するためには、そういう考え方を「尊重」する動きさえある。せっかくの科学的成果も平気で無駄にしてしまうのである。

 おそるべき不合理がのさばり、せっかくの合意事項も平気で「ひっくりかえす」し、そこには、問題解決の糸口さえみえない。なにしろ「一度や二度合意したからといって問題は解決しない」と大統領が言うのだから初めから、合意なんてするつもりはないのだろうと思う。

 合意なんて、そのつもりはないのかといえば、いや話し合いが必要だという。いったい、何を話し合うのだろうか。