ダンポポの種

備忘録です

親父との最後の日々

2022年11月01日 22時21分00秒 | 備忘録
私の父は、もともと、心臓に疾患がありました。狭心症とか不整脈とかいうやつ。
〝命そのもの〟である心臓に関わることなので、父は定期的な通院を欠かさず、心臓や血管のようすをいつも先生に診てもらっていました。息子の私から見ても、父は自分の健康にすごく気を付けていたと思います。
おかげで、日常生活には何の支障もなく、父は高齢になってからも毎日を元気に過ごしていました。当ブログにも、父母私の三人で1泊旅行に出かけた話や、晩めしで一緒に酒を飲んだ話などを、書いたことがあったと思います。『今夜は実家で晩ごはん会です。親父と酒を飲みました』っていう記事は多かったでしょう?
平和で楽しい時間でした。

コロナ禍になって、感染予防が叫ばれると、父は、なお一層に健康管理に気を付けていました。
父自身は、不要不急の外出をほとんどしませんでした。
「コロナが終息しないうちは、旅行も行かれへんなぁ」って。
私も、高齢の父母を外食や旅行に連れ出すことを控えるようになりました。自粛。
父母私が一緒に出かける先は、せいぜい、アルプラでの買い物ぐらい…でしたね。
あっ、西国三十三寺のお参りには、何回か、三人で行きました。
コロナ以降では、2020年11月に丹後の成相寺と松尾寺。2021年10月に施福寺と葛井寺。同11月に宝厳寺(竹生島)。そして2022年5月に谷汲の華厳寺、これで成就満願。
ほかにも、兵庫県高砂へご先祖墓参りへ行ったことが数回あったと思う。
コロナ禍になってから、父母私の三人で出かけた機会はそれぐらいだったかな。(案外、出掛けてる?)
もっともっと、温泉旅行とか行きたかったなぁ。

   ◇          ◇          ◇

【親父に告げられた、思いもよらぬ病名】

昨年(2021年)春ごろでした。
父は、「胸のあたりがちょっと苦しい」「心臓がドキドキする…」と言い出しました。
狭心症の持病がありますから、私たち家族も「また心臓の血流が悪くなっているのかもよ?」と推察。
早速父は検査入院して、先生に入念に調べていただきました。
けれども、心臓や血管(循環器系)に異常は確認されませんでした。

家族:「心臓は異常ないって、先生言うてはったね」
父:「うーん そうなんかなぁ? でも、まだ、このへんがなぁ…(←胸のあたりを触りながら)」

浮かない表情の父は、続いて、こんどは内科の先生を訪ねました。
内視鏡検査で、食道や胃を隅々診察してもらったようです。
しかし、ここでも異常は確認されませんでした。

家族:「異常は無いんだってさ。胃の中もきれいですよって、先生言うてはったね」
父:「うーん… だったら、この違和感は、何が原因なんやろか?(←胸のあたりを触りながら)」

〝異常なし〟と言われても、父は全然すっきりしなかったんですね。
心臓? 胃? そのあたりに、モヤモヤした違和感が続いていたようです。

その後も父は、しつこいように、先生に相談を続けたみたいです。

すると、ひとつの疑い(病名)が浮上しました。


<膵がん>

可能性を踏まえて検査をした結果、事実だと確認されました。
今の時代ですね。先生は、本人・家族の前でズバーン!と告知します。隠さない。
父本人も、私たち家族も、ただただ、衝撃でした。
思いもよらぬ病名を告げられてしまった。

「膵臓がん、ってか? あれまぁ…

早期発見が難しいとされる病のひとつですね。
症状が出たときにはもう遅いとも言われる。
発見だけでなく、治療も難しい。体内の奥まった箇所なので、手術ができない。
今日・明日で直ちにどうこうなるわけではないと、先生はおっしゃったけれど。
先生からの告知に、私の心にも絶望感が芽生えました。
隣りに座っている父の横顔を見つめながら、『今から取り返しがつくものなのか、つかないものなのか…』と不安に襲われました。そんなことを思うこと自体が、絶望感。
「今は、提供できる薬の種類も増えています。抗がん剤治療を頑張りましょう!」
と言ってくださる先生にお任せするしかなかったです。
あれほど健康に気を付けていた父が、どうしてこんなことになってしまうのか?
私たち家族にとっては、父の回復を願い、そして、覚悟を固めていく日々の始まりでした。

告知の以降は、2~3週間に一度のペースで通院して、抗がん剤治療を続けました。
ご多分に漏れず、副作用が出ました。父は、手足のしびれ、むくみ、体の倦怠感を訴えました。髪の毛も抜けました。そういう厄介な症状と〝付き合っていく〟しかないのですが、顔をしかめて辛そうにする日がたびたびありました。これについて、先生から、「入院」の提案は一度もありませんでした。入院する必要は無いということです。一貫して『普段は自宅で過ごし、診察日だけ外来通院する』というスタイルでした。
元気だったころ父は、自分でクルマを運転して通院していましたが、ほどなくそれは難しくなりました。家族としても、しんどい父に運転させるわけにいかない。通院日には私が送迎するようになりました。

先生がおっしゃったように、途中で幾度か、薬の種類が変わりました。
あるとき、手足のしびれ(副作用)がひどくてシンドイ!と父が先生に申し出て、薬を変えてもらったことがありました。弱いタイプの薬に変えてもらったんでしょうね。そうしたら、しばらくすると、失われていた髪の毛がまた生えてきた
「おい、髪の毛が生えてきたぞ」って、父は喜んでいました。
髪が生えてきて、久しぶりに父が笑いました。嬉しかったんやろね。
でも、この状況で髪が生えるということは、『抗がん剤、効いてないんじゃないの?』って、家族は心配な気持ちになりました。

がんをやっつけるために強い薬を使うと、副作用も強くなり、父はすごくシンドイ思いをする。そこで薬を変えて、弱い薬を使うと、父は穏やかに過ごせて髪の毛も復活した。でも、それだと「肝心な抗がん効果はあるのか?」という心配です。案の定、次に通院した際に血液検査してもらうと、数値が悪化していた。ダメだ。先生は、また薬の強さを変えることを提案なさる…。
どっちを取ればいいのか。家族も思い悩まされる問題でした。




【親父との最後の日々】

父が抗がん剤治療を始めてから亡くなるまでは1年4か月半でした。(=約1年半)
月日とともに、食べる分量もだんだん減っていき、やっぱり最後は瘦せ細ってしまったけれど、いつも実家を訪ねて顔を見ていた私にとっては、その姿は〝いつもと同じお父さん〟でした。

今から一か月ほど前の9月末までは、自分で立ち座りや歩行ができて、ふだん通りに自宅で過ごしていた(=自分のことは自分でできた)のですが、先月(10月)に入ってから一気に体力が無くなりました。日に日に、どんどん弱っていきました。自分の力で立ち上がれなくなりました。歩けなくなりました。

   ◇          ◇          ◇

◎10月27日の朝 救急搬送
前夜から容態が思わしくなかった。意識も朦朧としていて、様子が変だ。もう自宅では看ていられない。
午前8時半、救急車でいつもの病院まで搬送してもらいました。
病院へ着くと、すぐに主治医の先生も駆けつけてくださった。
父の様子を見れば、先生にはもう分かるんでしょうね。
これ以上治療を続けるかの意向確認を、母が訊かれていたみたいです。私も異存はない。
「今まで、つらい治療にもよく耐えて、頑張ってこられましたね!」
先生も、父を褒めてくださった。
父はそのまま入院することになりました。
「入院中にご本人が苦しがったり痛がったりされることがあれば、痛みを和らげる処置を取りますので、どうかご心配なく…」
「先生、よろしくお願いします。m(__)m」

入院中の面会に備えて、その場に来ていた母私妹の三人はPCR検査を受けて、この日は帰宅しました。
コロナ禍なので、入院病室での家族面会はできないはずなんだけど、なのに、看護師さんは面会・付き添いを強く勧めてくれました。「ぜひ、面会に来て、そばに居てあげてください!」って。
風雲急を告げる―、そんな気配。
お別れの時が迫っているのを感じる。


◎10月28日の朝 父が亡くなる
午前4時40分。自宅のフトンで寝ていた私の枕元に置いてあったスマホが鳴った。
病院からの電話。
父の呼吸が弱くなりつつあるらしい。家族召集の電話でした。

母と私は、急いで支度をして、まだ真っ暗な道を病院へ急ぎました。
5時半に病院へ到着。
父は、病室のベッドで酸素吸入マスクを着けてもらって、小さな呼吸を続けていました。
息はしているけれど、呼び掛けても返事しません。反応がありません。
私は、ちょっとだけ生えていた髪の毛(白髪ですけど)に触れて、よしよしと頭を撫でてやりました。
手も、さすってやりました。
「あれ! 手が、もとに戻ってる!?」
母が驚いて言いました。
むくんでパンパンになっていたはずの父の手が、ほっそりした元の手に戻っていました。不思議。
6時半を過ぎた。
そのとき、父が声を出したように聞こえました。そして、一瞬だけ目を開けたようにも見えました。
「お父さん! 分かるかぁ!? お父さん!!」
呼び掛けてみたけれど、それっきりでした。

妙な静寂が訪れました。
「あれ…? 息してるか?」

すぐに看護師さんが来てくれました。
静かになった父を見て、言いました。
「呼吸が止まったのかも、しれないですね」

7時過ぎに、滋賀から妹が駆け付けました。父の娘です。
妹の到着を待って、7時40分過ぎに当直医先生が病室へ来られて、正式な死亡確認となりました。
父が逝きました。

   ◇          ◇          ◇

お父さん。
昨年、がんが見つかったときは、本当にびっくりしたよなぁ。家族みんなびっくりした。
抗がん剤治療は大変で、むくみ、しびれが、辛かったね。
ほんまに、おつかれさまでした。
最後まであきらめず、一生懸命に病気と闘ったお父さんは立派でした。

10月に入ってから、お父さんは自分で立ち上がれなくなり、僕が抱き上げて、立つ、ようになりましたね。最初のうちは、僕がすこし抱き上げたら、そこからはお父さんが自分の力で立とうとしてくれました。でも、日が経つにつれて、抱き上げるたびにお父さんの力が薄れていくのを、僕は感じていました。
抱き上げながら僕が、『おい!お父さん、自分で立ってくれ!』って言うたことがあったね。ほな、お父さんは、ぼそっと「難儀やなぁ…」って呟いたね。自分で言うか!?って、お母さんも僕も大笑いしました。
抱きかかえ方なんて、僕はよく知らないので、力任せで無理やりグイッと引き上げたこともあったと思う。お父さん痛かったかな。ごめんな。でも、限られた期間だったけれど、親の介護というかお手伝いをちょこっと担うことができて、僕はよかったと思っています。
お父さん、ありがとう。




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