ダンポポの種

備忘録です

20年経っても、思い出す

2015年01月17日 23時57分10秒 | 備忘録
きょう、阪神・淡路大震災から〝20年〟となりました。


今から20年前の1月17日。
当時、私は大学生。
京都の親元を離れて、山口県下関で、単身の学生生活を送っていました。
学生の本分を忘れ、ひとり暮らしをいいことに、ぐうたらな 怠けた生活を送っていた時期でもありました
夜更かしは当たり前!? 思いっきり夜遅くに寝て、朝は起きられずに、そのまま昼ごろまで寝てる っていう、ダメダメ生活です。
20年前の1月17日、私は、まさに そういう生活状態の中にありました

あさ5時46分に地震発生。
神戸から遠く離れた下関では、震度2ぐらいの揺れが観測されたそうです。
夜更かしして眠りについたばかり私は爆睡中で、震度2では、到底気が付きません
結局、そのまま(=何も知らぬまま)、お昼ごろまで 思いっきり寝続けた…、というのが正直なところです。

当日、昼頃にようやく起き出した私は、部屋(自室)の片隅に置いてある電話機の留守電ランプが点滅していることに気づきました。
『おやっ? (寝ている間に) 電話が掛かってきていたのか
爆睡中だったんだと思うけど…、このころの私は、寝ているときに電話が鳴っても、まったく気が付かないタイプでした。

寝ぼけ眼をこすりながら、留守電ボタンを押して、メッセージを再生しました。
朝方に掛かってきていた電話で、大学の友人(同級生)からのものでした。神戸出身で、私と同じように下関へやって来て単身生活をしている子でした。
「さっき、関西で大きな地震があったようだ。神戸はかなり被害が出ているみたいだ…。京都は大丈夫か? 実家と連絡ついたか…?」
というふうなメッセージが ふきこまれていました。
神戸出身であるその友人は、私が京都出身であることを知ったうえで、電話をかけてきてくれたようでした。

『へっ? 地震…? 何のことや
この期に及んでも、まだ事態が分かっていない私です。

「そんなに大きな地震ならば…」と思って すぐに自室のテレビをつけてみました。
そして、テレビ画面に映し出された光景に、言葉を失いました。
私が、この大地震を知ったのは、このときでした。

◇          ◇          ◇          ◇          ◇

現在、私は、京都で暮らす毎日です。
言うまでもなく、地元・関西の人たちとお話をする機会が多いです。
毎年1月17日が巡ってくると、うちの近所のみなさんも、改めて当時を思い出されるようです。
「あのときの地震の揺れは きつかったなぁ…」って。
京都南部の人々にも、それは強烈な印象で残っているのですね。

だけど、私は…、阪神・淡路大震災について振り返るとき、いつも、こういう 自身の〝間抜けな生活ぶり〟を思い返さねばならぬのです
取り返しのつかないことですが、20年経っても、情けないことであります


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バレンタインデー

2010年02月12日 23時55分29秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

◇            ◇           ◇


昭和60年(1985年)2月-、私が6年生だったときの思い出である。
小学校生活に別れを告げる卒業式が、いよいよ1ヵ月後に迫っていた。

2月14日のバレンタインデーの夕方、私の家の郵便受けに ひとつのチョコが届けられているのが発見された。
第一発見者が 私だったのか、うちの親だったのか、記憶が定かではない。
社宅(マンション)に住んでいたので、郵便受けは1階にあった。夕方に帰ってくるときは必ずそこを覗いて、郵便物が届いていないかを確認してから自宅の階まで上がってくることになっていた。家族内のルールである。

郵便受けに届けられていたチョコ箱は、手のひらに乗るぐらいの大きさだった。
きれいに包装され、いかにも〝プレゼント〟という体裁に整えられていた。
ただ…、肝心の「宛て名」と「差出人名」が見当たらない。バレンタインデーの贈り物だろうと察しは付くのだが、〝名無し〟では正体不明である。

包みを手に取って、上から下から横からと 注意深く見回してみると、包装紙の一隅に 当時流行っていた丸っこい文字(まんが字とも呼ばれた)で、

『6年2組の女の子より』

と書いてあった。


「6年2組って書いてあるから、これ、あんた宛てに届けてくれたんとちがうか?」と、うちの親は、私に向かって言った。
 
それは間違いないことと思われた。
でも、一体誰なんだろう…?
私にとっては大変光栄なことだったけれど、「6年2組の女の子より」だけじゃ、誰が届けてくれたのか分からない。


「あんた、心当たりは無いのか?」と、うちの親は言った。

心当たりって言われてもなぁ。 分からん…。

「(包装紙に書かれている)この字を見て、誰が書いた字か分からへんのか?」
と、うちの親は面白そうに言う。

なんだか、謎解きのサスペンス劇場のようになってきた。
けれど、書かれている字を見ても、私にはピンとこなかった。
当時は、みんな丸っこい字を書いていたように思うし、そもそも、クラスメートの誰がどんな字を書いているかなんて、私の関心の外であった。
(もっとも、こうした異性に対する鈍感さは、現在に至っても何ら改善されていないようである。私は昔からこんなのだったんだね…。)


チョコ箱を手にした私は、いったい誰が届けてくれたのか?と疑問に思いながらも、傍らで面白がっている親に訊いてみた。

「これ、食べても大丈夫かな?」

「大丈夫やろ。ちゃんと包装もしてあるし…」

     ◆          ◆          ◆          ◆          ◆


今から25年も昔の 小学生時代のチョコの思い出を いまだに大事そうに持ち続けているとは、よほど律義か、かなり間抜けか…、その判断はお任せしたいと思うけれど、男女の恋物語とは全く別の事情から、私にとってこのチョコは「忘れられない味」として思い出に残っている。

「これ、食べても大丈夫かな?」
「大丈夫やろ。ちゃんと包装もしてあるし…」
という会話に、それは集約されている。

 
この年は、世間を騒がせたあの事件-「グリコ・森永事件」の真っ最中だった。
江崎グリコ社長の誘拐事件。その舞台は、まさに西宮であった。
その後、犯人が 毒入り菓子を実際に店頭に置いたりしたものだから、物騒なことこの上なかった。

道に落ちているお菓子を食べてはいけない、見知らぬ人からお菓子をもらって食べてはいけない、身に覚えのないお菓子は食べてはいけない、など…、
私たち子供らも、お菓子に関する注意事項をしつこいぐらいに聞かされていた。
そんな時期に、「6年2組の女の子」は 何も言わずにぽんと チョコを〝投函〟してくれたのである。
恐らく、面と向かって渡すのが恥ずかしかったから、郵便受けに届けて立ち去ったのだろうと思う。
そして間違いなく、私だって、面と向かって受け取るのが恥ずかしいに決まっていた。

せっかく届けてくれた、バレンタインデーのチョコ。
私の鈍感さゆえ、身に覚えのないお菓子として無慈悲な処置も有り得た、危うい贈り物だった。
私の心は、「届けてくれたのは 誰なんだろう?」というトキメキが半分、「これ、食べても大丈夫なんだろうか?」という拭い切れぬ不安が半分。
混乱する気持ち…、これじゃあ、かい人21面相の思うつぼではないのか…!

本当に、いったい誰なんだろう?
クラスメートの楽しげな顔を、ぶわーっと思い浮かべてみる。
ハッと気が付くと、その背後で〝かい人21面相〟が不敵な笑みを浮かべているようで。(←勝手に、怪人二十面相のイメージ)

     ◆          ◆          ◆          ◆          ◆

その後、卒業式までの残り1ヵ月を、私は普段通りに過ごした。
あのチョコが 誰からの贈り物だったのか分からないままだったが、クラスの女子に「届けてくれたのは、あなたか?」と問うて回るわけにもいかず、
時間だけが過ぎていった。
失意のうちに「ホワイトデー」も過ぎてしまい、そのまま小学校最後の日を迎えることになった。


卒業式の日は、青空が広がるとても良い天気だった。
明るい春の陽ざしに包まれながら小学校を卒業した-という思い出は、今もしっかりと記憶に残っている。
そして…、ホワイトデーの返礼が無かったことに業を煮やしたのか、この日、チョコの当人が私の前へ 名乗り出た。

「いいこと教えてあげよか。6年2組の女の子って、私やで」

そんな言い方だったと思う。
唐突だったが、これは本人しか知り得ない情報だ…。間違いない。
そして、案の定、そう言われた私は、言葉に詰まっていた。

「名前ぐらい、書いとけや!」

と、精一杯強がってみたものの、しどろもどろであった。

「ホワイトデーに何もくれへんかったやろー。何かちょうだいやー!」

と、向こうはたたみかけてくる。

「そんなん…、名前書いてへんから、分からへんやろ!」

↑それはさっき言うたやん。



かくして、名無しチョコの一件は 解決することになった。
これ以降の後日談は、存在しない。

バレンタインデーにまつわる思い出が一向に更新されない中、間抜けな私の心に今も残っている、子供時代の思い出である。


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甲子園に棲む魔物

2008年05月31日 11時23分29秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 前回に続いて、「小連体」の話。

 甲子園球場で行われた小連体であるが、当日のプログラムの最後には「学校対抗リレー」というのがあって、大いに盛り上がった。
 外野グラウンドのレフトからセンターにかけての芝生エリアに特設トラックが用意され(←私の記憶です。確か芝生エリアだったと思う)、各小学校の代表選手たちが駆け抜けた。
 各小学校から、男子チームと女子チームが1つずつ出場した。男女別に6~7校ずつが競走して、そのときの「ゴール・タイム」によって総合順位を付ける方式だった。予選とか準決勝とか一切なし、各チームとも走るのは一回だけの真剣勝負だった。(←私の記憶です)

 わがT小学校は、男女両チームとも、各クラスの脚力自慢の中から選びに選び抜いた「超厳選・高速強化オールスターズ」で編成され、さらに、連日の放課後特訓を重ねて甲子園にのりこむ気合いの入りようだった。
 言うまでもなく、私がそこにノミネートされることは有り得なかったので、そういう特訓の厳しさは他人事にしか感じていなかったけれど、大会の直前には日曜日も返上して練習をやっていたように思う。指導にあたった担当の先生が、とにかく熱心だった。(何を隠そう、あの恐いT先生であった)


 そして、特訓の成果は実を結んだ。

 甲子園の舞台で、T小チームは力強い走りを展開し、タイム集計の結果、男女とも1位を獲得して「アベック優勝」の快挙となったのである。アベック優勝は、小連体において史上初だと聞いた。一発勝負の結果ながら、「西宮市で最もリレーが速い小学校」ということだ。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 西宮で〝№1〟なのである。
 私は、応援席(スタンド)から眺めているだけだったが、興奮した。


「よしっ! これで、ほかの小学校にも、大きな顔ができるなっ!」


 歓喜の声が渦巻く応援席で、私はそう叫んで、周りの仲間と喜びを分かち合った。


 すると、そばにいた女子が、

「あんた…、それ以上に大きい顔してどうすんねん!」って。


 喜びのあまり、私も油断していた。不用意な一言であった。
 まるで〝待ってました!〟のようなツッコミ(好球必打)をまともに喰らった私の心は、一瞬にして焼け野原となり、もう元には戻らなかった。
 甲子園には魔物が棲むと、人は言う。


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甲子園球場で

2008年05月30日 23時02分36秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 毎年、秋になると、西宮市内の小学校に通う6年生が阪神甲子園球場に集結して、体育大会が開催された。(現在もこの体育大会は続いているようですが、2007年度~2009年度はシーズンオフに甲子園球場の改修工事が行われるので、この3年間に限って、体育大会は中止されるそうです)
 西宮市小学校連合体育大会…、とかいう長い名前の行事だったと思うが、平素は「小連体(しょうれんたい)」という略称で呼ばれていた。出場資格が問われる選抜大会ではなく、西宮市内の小学校に通う6年生は、もれなく参加する仕組みになっていた。その日の6年生は授業が無くて、みんなで一緒に甲子園球場へ行くのである。
 6年生だけとはいえ、西宮の全ての小学校から集まるので、人数は盛大だった。各自、弁当持参で出かけ、私など、ほとんど行楽気分だったのを覚えている。

 事前の振り分けによって、各小学校は「ダンス」または「組み体操」(組み立て体操)のどちらかを児童全員で演じることになっていた。わがT小学校は「ダンス」に振られ、同じ演技を練習してきた他校生たちと一緒に、グラウンドいっぱいに広がって踊った。
 演技の途中で、各々の小学校にオリジナル・パートがあって、それが他校のパートと組み合わさって美しい演技になった…らしいのだが、やっている当人たちはそれを見ることができないから残念だった。
 何というダンスを踊ったのか、今となっては忘れてしまったが、広い甲子園球場のグラウンドのちょうど「ショート」の守備位置付近で、私は踊っていた。今でも、甲子園の野球中継でショートに打球が飛ぶと、思い出すことがある。

 高校球児の夢舞台である甲子園球場グラウンドに、小学6年生でもれなく立ち入りが許されるのは、地元・西宮っ子の特権であり、私自身にも良い思い出になっている。
 なお…、小連体では「土の持ち帰り」は絶対禁止事項であった。


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最後の音楽会の最後 〔後編〕

2008年03月23日 10時17分55秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 音楽会の当日がやってきた。

 T小学校には、音楽会専用のホールなんて無かったので、この日だけは、体育館が「音楽ホール」に変身した。遮光カーテンが引かれた館内は真っ暗で、即席で組み立てられたスポットライトによって、舞台の上だけが照らし出されていた。
 私も、6年2組の一員として舞台に上がり、合唱の発表をした。
 何を歌ったのか、曲名は忘れてしまったが、大きなミスもなく無難に歌い終えたと記憶している。

 合唱発表を終えて、クラスメートたちと和やかに舞台から下りてきた私は、待ち構えていた〝件の先生〟にその場で身柄を拘束され、別室監禁状態で「閉会の挨拶」の最終調整に励むことになった。
 はっきり言って、合唱よりもこっちのほうが大変だったが、なんとか当日までに原稿は暗記した。あとは、早口にならぬように落ち着いて言うだけだ。

    ◇     ◇     ◇

「よしっ! 本番も、その調子でいくんやで!」

 別室での〝最終リハーサル〟が済むと先生はそうおっしゃって、手にしたファイルの中から、二つ折りの青い画用紙を取り出された。

「ほな、これ、持って行き!」

 言われるままに受け取って、二つ折りを開いてみると、中には、挨拶文の原稿が貼ってあった。暗記用として〝原版〟は私が持っているから、これは、それとは別に先生が清書してくださったものだ。
 しかし、これは一体、なに…?

 ポカ~ンとした私に、先生は、サラッとおっしゃった。

「舞台に上がったら緊張するかもしれへんし、もし、ド忘れしたら、それ見て挨拶していいよ」

 その言葉を聞いて、ますます、ポカ~ンとする私だった。


『ああ、なるほど…。先生は最初からこういう〝作戦〟を考えておられたのだな…』
と、私が気付いたのは、ずっとずっと、ずーっと、後になってからのことである。


 相変わらず真っ暗な館内。
 私は、舞台の上でスポットライトをひとり占めして、大勢の保護者たちを前に、閉会の挨拶を無事に終えた。
 緊張感から解き放たれて、意気揚々と舞台から下りてきた私は、例によって待ち構えていた先生に、今度は、自分から得意げに言った。

「最後まで、原稿を見ないで言えました!」

 ということは…、前を向いて、視線を下げずに、保護者たちに向かってしっかりと挨拶ができたわけだ。

 すべては、「ご苦労さん!」と言って笑っておられる、先生の思惑通り-。


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最後の音楽会の最後 〔前編〕

2008年03月22日 10時59分44秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 職員室の片隅――。

 担任を通じて「職員室への呼び出し」を受けた私は、先ほどからずうっと、その先生から厳しく説教を受けて…、ではなくて、〝説得〟をされ続けている。

「お前なら、できる!」
「頼むから、やってくれ!」
「担任の先生には、許可をもらってあるんだ」
「挨拶するだけじゃないか!」

などなど…、苦渋の表情で立ち尽くす私の前には、あらゆる言葉が並べられ、反論まじりの抵抗も功を奏さず、着実に退路は断たれてゆくのであった。

 …というわけで。
 学校行事として行われる音楽会(音楽発表会)において、「閉会の挨拶」を私がやることになった。開会ではなくて、閉会の際の挨拶である。
 6年生の二学期も終盤が近づいた頃の話で、11月下旬だったか12月上旬のことだったと思う。小学校生活で最後となる音楽会の、その最後を、私が締めくくるのだ。

 私を呼び出したこの先生は、こうした学校行事の際に、段取りや進行を一手に引き受けておられた方だ。日頃は、低学年教室のクラス担任を受け持っておられたが、私の中では、『学校行事の際に舞台裏を走り回っていた先生』という印象のほうが断然強い。私は、5年生のときに学級委員を務め、学校行事の舞台裏に関わったので、それ以来、この先生にも顔を覚えられていた。低学年児童への接し方は気持ち悪いぐらいに優しいのに、高学年児童に対してはめちゃめちゃ厳しい先生だった。

 学校行事を運営するにあたって「周到な準備が必要」なのは確かだが、5年生のとき(学級委員のとき)に〝こき使われて〟懲りたので、私は、6年生に進級したときに学級委員を辞退した。
 6年生になった私は、飼育委員という委員会に所属し、校内にある鳥小屋(にわとりやインコがいた)の掃除に精を出すのどかな毎日を取り戻していたのに、今回、この突然の呼び出しで事態は急変してしまった。
 それにしても、「担任の先生には許可をもらってある」なんて、児童を相手に手回しが良すぎるではないか。


 音楽会の「閉会の挨拶」である。
 冷静に考えれば、さほど重要な任務ではなかったかもしれないが、挨拶文の原稿はこの先生と一緒に考えた。音楽会の当日には、大勢の保護者が見学に来るので、それを踏まえた上で原稿内容をまとめる必要があった。
 完成した挨拶文は、原稿用紙に2枚分ほどになったと記憶している。めちゃめちゃ長い文面ではなかったが、かといって、〝一言・二言〟で終わるような軽いものでもなかった。

 原稿が仕上がると、先生は、こうおっしゃった。

「じゃあ…、この原稿、当日までに覚えてきてね」

「ええっ! 覚えるのですか?」
「そう。全部、暗記してちょうだい」

 そんなの覚えなくても、原稿を見ながら言えばいいじゃないか…、という意味のことを私は訴えてみたが、先生は首を横に振った。

「アカンで。当日は、原稿を持たずに挨拶してもらうから…」

 原稿の暗記と、話し方の練習。
 音楽会の当日まで、特訓が続くことになった。


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京  都

2008年03月17日 15時38分38秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 遠足の思い出である。

 3年生の秋(二学期)は、貸切バスで西宮市内を一周。
 3年生の三学期は、歩いて西宮神社と香枦園へ。
 4年生の秋(二学期)は、阪急電車で服部緑地公園へ。(←でも、雨天のため中止に)
 5年生の春(一学期)は、再び、阪急電車で服部緑地公園へ。(リベンジ)

などなど…、この「備忘録カテゴリー」に投稿した記事の中にも、遠足ネタは多い。
 列挙したついでに言うと、大阪弁天町の交通科学博物館にも遠足で行った記憶があるので、これは4年生の春(一学期)のことだったのだろうと思う。
 その都度、行き先を検討しなければならない引率の先生方は大変だっただろうが、児童のほうは気楽なもので、
「こんどの遠足は、どこへ行くのだろう?」
と、勝手に心を躍らせ、担任の先生が行き先を発表されるのを、楽しみにして待ったものだった。

 このように思い出深い遠足行事であるが、私が通ったT小学校では、「5年生の秋」以降になると、その行き先が毎年決められていた(固定化されていた)。

 5年生の秋は、奈良。
 6年生の春は、伊勢。(修学旅行)
 6年生の秋は、京都。

という具合である。
 これは毎年決まっていて、「奈良・伊勢・京都」の三点セットは、T小の高学年児童にとっては避けては通れぬ〝必修メニュー〟だった。(蛇足だが、いずれも貸切バスを使っての移動であった)

 このなかでも特に、6年生の秋の京都遠足には、なにか、儀式めいた独特の重みがあった。この重みは、伊勢に行った修学旅行を上回る。少なくとも、私はそんなふうに感じていた。
 遠足の当日は、ごくふつうに京都見物をしただけだったが(清水寺・金閣寺・太秦映画村に行ったのを覚えている)、私は終始、目に見えないプレッシャーに包まれているような気がしてならなかった。もしかすると、クラスの仲間たちも似たような心境だったのではないか。しかし、そのプレッシャーみたいなものを、言葉で説明するのが難しい。

 6年生の秋といえば、卒業というタイム・リミットがいよいよ意識の中に入ってくる時期ではあった。

 保護者たちの間では、

「(遠足で)京都へ行ったら、あとは卒業式だな」

という言い回しが、広く普及していた。これは、保護者たちの間で受け継がれている、独特の表現だった。
 私には、それが悲しく聞こえた。
「京都は最後の場所…」みたいな、寂しさを感じた。〝きょうと〟という地名の響きが、そういうイメージに〝はまっている〟気もした。

 遠足に出かける楽しさと、これが最後という寂しさ。
 その両方が入り混じって、複雑な気持ち…。

 目に見えないプレッシャーとは、そういうことだったのだろうかと、
いま、その京都で暮らしながら考えてみたりする。


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香り消しゴム

2008年03月15日 09時32分24秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 今でも売られているのか知らないが、当時、「香り付きの消しゴム」というのがあって、私が通ったT小学校でも、断続的に、これを集めるのが流行した。
 私が転校したばかりだった3年生のときにも一時的に流行したように覚えているが、その後、5年生から6年生にかけての時期に再びこれが流行-。高学年だったこともあってかブームが深度化し、香り消しゴムの一時代が築き上げられた。

 私がいたクラスでは、主に女子の間で始まった香り消しゴムのブームだったが、やがて男子もこれを追随し、教室内が香り消しゴムだらけになった。カステラ、コーヒー牛乳、みかんジュース…など、いろいろな香りがあって、休み時間の教室は消しゴムの品評会場みたいな雰囲気になった。
 お互いに香りを嗅ぎあって喜んでいるうちは可愛らしいものだったが、「珍しい香り」の消しゴムを自慢するようになると、状況は一気にエスカレートしていった。

『クラスメートの注目を集める秘訣は、他人が持っていない香りにありっ!』

とばかりに、ディープ・コレクターへの道を突き進んでしまう子が出現し、それは、日替りで大量の香り消しゴム(各種)を持ってくる〝女王〟を降臨させることになった。
「今日の香りは、たこやき…」とか言って。

 言うまでもなく、こういうのは集め始めるときりがない。
 典型的な、子供の無駄遣いであるし、また、その取り扱いが、消しゴム本来の用途から逸脱していた点も問題化した。
 「珍しい香り」を求めて〝校区外〟の文具店まで買いに行っている奴がいるらしい…という噂が流れたり(保護者の同伴なしで児童が校区外へ出たらダメ、というお約束だった)、教室内での消しゴムの紛失も相次ぎ(盗難の疑いもあった)、最終的には、学校側からその旨を戒める指導が入って、ブームは一気に終息へ向かうことになった。

 『消しゴムは文房具』という大義名分のもと、教室内への持ち込みが許されていた香り消しゴムの時代は、こうして幕切れを迎えたのである。


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先生!黒板が見えません

2008年03月10日 18時38分11秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 メガネ・デビューを果たす前、私が、教室の最前列の机で板書写しに悪戦苦闘していた頃の、ある日の出来事である。
 私のすぐうしろの席に座っていた女子が、何の〝前ふり〟も無く、先生に直訴した。

「先生! 黒板が見えません。Dくんの頭が大きすぎて…」

 授業の冒頭、先生が話の本題に入ろうとされた直前の、一瞬の隙をついて発せられた一声だった。クラスメートたちにも聞こえていて、教室内に笑いがおきた。

 突然何を言い出すのか…。
 驚きを通り越して、恐怖である。
 しかも、「黒板の字が見えません」ではなくて、「黒板が見えません」と言った。この場合、意識的に、あえてそう言ったとしか考えられない。
 だって、「頭が大きすぎて…」と言ったじゃないか。

 私は、席に座ったまま、上半身をひねって振り向いた。
 相手は満足そうに、にこにこしている。
 どうやら、ネタにされてしまったようである。

 これが契機だったわけでもないけれど、私の〝頭ネタ(大きさ編)〟は、卒業の日まで継続的に登場した。


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メガネ・デビュー記念日

2008年03月09日 10時06分26秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年生の2学期後半ぐらいから自分でも気付いていたのだが、なんだか、黒板の文字が見えづらくなってきた。
視力の低下だった。
授業中も、目を細めたり、指で目尻をつり上げたり、下げたり…と、なんとかして目の焦点を合わせようと奮闘していたが、
やがて、そういう頑張りも効果が薄れてきて、自分自身でも「これは不便だ」と実感するようになった。
不便というのは、黒板の字をノートに書き写すのに、人よりも余計に時間がかかるようになったことである。

5年生に進級したとき、担任の先生の配慮によって、春の身体測定(健康検査)で視力が悪かった児童たちは、
優先的に、黒板から近い、教室の前寄りの席に配置されることになった。
『この際だから、一刻も早く、眼鏡を買ってもらうように!』
という、指導付きの措置ではあった。

この取り計らいによって、私も最前列の席を割り当てられて、当初は懲りもせず〝裸眼〟で頑張ったりしていたが、
近視はどんどん進むものなので、ほどなく、最前列からでも黒板の字が見えなくなってきた。
視力の良い人には想像がつかないことだろうが、本当に、最前列の席からでも、目の前にある黒板の字がぼやけて読めなくなる。
こうなると、眼鏡なしでは為す術がない。

私の場合、肝心の眼鏡は、視力検査の直後に早々と買ってもらっていて、毎日ランドセルには入れて来ていたものの、
クラスメートの前でそれを掛けるのが恥ずかしくて、ずっと躊躇していた。
情けないというか、小学生のメガネ・デビューには、勇気が必要だ。

私としては「一生懸命に黒板の文字を見つめているだけ-」のつもりなのだが、
その姿は、最前列の席にデンと座って、目を細めて、しかめっ面で黒板を睨みつけているわけだから…、
つまりこれは、教壇に立つ先生に対してガンを飛ばしていることにも等しく見える。
本人は気づいていないが、傍から見ると、相当に印象が悪い光景だ。


ある日の授業中、ついに、その様子を見かねた先生の鋭い声が飛んできた。
「こらっ! 眼鏡を持っているんだったら、さっさと、掛けなさいっっ!!」
実際には、私を〝名指し〟しての一撃だった。
先生の本気モードの叱り声が炸裂し、授業の流れが、完全に止まった。
そして、クラスメートたちの視線が一斉に私へ向けられる気配。
ううっ、背中にみんなの視線が…。悲惨すぎる。

突然の静けさに包まれ、時間が止まったかのような教室内に、ランドセルから眼鏡ケースを取り出す音だけがゴソゴソと響いた。




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カメさん

2008年03月08日 12時38分17秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 4年生から5年生へ進級する際に、クラス替えがあった。
 担任の先生方もクラスメートも、その組み合わせは大幅にシャッフルされ、私は5年2組になった。4年生のときの担任だった〝恐いT先生〟は5年5組の担任に就かれたので、私はそれとは別の教室で、内心はホッとした気分が正直あった。
      ◇      ◇      ◇
 5年2組での日々がスタートしてまもなく、私は、「カメさん」というニックネームの子と仲良くなった。4年生のとき彼が何組にいたのかは、私もよく覚えていない。とにかく、5年2組の教室で初めて出会った子である。

 よく分からないが、こいつとは不思議と息が合った。
 社宅暮らしの子で、低学年の時にお父さんの転勤でよその町から西宮へ移ってきたという経歴の持ち主だった。そういう事情が私と共通していたのも、気が合った理由のひとつだったのかもしれない。休み時間にもよく遊んだし、学校から帰った後にカメさんの家へ遊びに行くこともしばしばあった。
 名字に「亀」という字が入っているので、ニックネームは「カメさん」だった。ほどなく、短縮形で呼ばれるようになり、6年生に進級する頃には「カメ」になっていた。担任の先生も、そう呼んでおられた。

 社宅暮らしの宿命か、私と同様、カメさんも小学校卒業と同時に西宮を離れることになった。以後、しばらくは年賀状の交換などをしていたが、大阪府豊中市の住所が記された葉書を最後に、彼との交信は途絶えてしまっている。


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ダンジョウ小学校

2008年03月02日 13時03分49秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 塾の思い出を、もうひとつだけ。

 私が通った塾は、阪急今津線の甲東園駅から歩いてすぐの所にあったが、その近所には、段上町という町があった。
 西宮市段上町-という地名が、実際に存在するのである。もちろん現在もある。
 字が違うけれど、私の名字と読みが同じだ。

 その町には、西宮市立段上小学校というのがあって、そこの児童も、塾へ通って来ていた。
 だから、私が初めて塾へ通った日、新入りの名前が「ダンジョウ」だと知るや、教室内は大爆笑に包まれてしまった。地名と同じ読み方をする風変わりな名字が、面白くて仕方がない。顔を揃えているのは小学生ばかりだから、こんなときはとりあえず笑う。

 私は、自分の名字を恨みたくもなったが、これは仕方がないことだ。

 その場の勢いも手伝って、「ダンジョウ小学校くん」というあだ名を付けられそうになって困ったが、もちろん、そんな長ったらしいあだ名が定着するはずもなく、日を追うごとに、誰も何も言わなくなった。

 このとき、『自分は、珍しい名字の人と出会っても笑ったりしないでおこう』と心に思ったのは本当の話である。

 塾の話は、これでおしまい。


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ジャガイモと、サツマイモ

2008年03月01日 14時15分00秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

「小学校生活」の思い出からは話がそれるが、塾通いをしたことは、私にとって西宮時代の大きな出来事のひとつだった。4年生の9月、いわゆる2学期のスタートとともに、私は塾へ通わせてもらうようになった。

 初めて教室へ通った日のことである。
 その日は、理科の授業が行われる日だった。
 小さな教室の中には、30人ほどの生徒(児童)がいた。
 入塾は随時受付していますよ、みたいな教室だったが、やはり一般的には、春(4月)から入塾する生徒が多いようだ。
 私は、秋から中途入塾した形だったので、ここでも〝転校生〟の心境に陥ったというか、つまり…、春からの数ヶ月間を経てすっかり雰囲気が出来上がっている教室内は、四面楚歌の如く、私の知らない顔ばかりが並んでいた。


 きょうは新入りが来たということで、授業の冒頭、早速、担当の先生が私を指名した。

「まず、檀上に質問をします。ジャガイモは、何科の植物ですか?」

 この質問は、今も忘れられない。
 そんなことは、聞いたことも考えたこともなかった。その場で考えたって分からない。
 ほかの生徒は、私が何と答えるかジッと聞いている。
 静まり返った教室で、私は、蚊の鳴くような声で、「分かりません…」と返事をするのが精一杯だった。

「ハイ。それでは…、ほかに分かる人はいますかぁ?」

と、先生が教室じゅうに声を向けた瞬間、ほかの全員がサッと手を挙げた。

 ジャガイモはナス科の植物だと、このときに知った。
 『じゃがいもは、なすびの仲間なのか』と、私は驚きながら覚えた。
 
 先生の質問がさらに続く。

「それでは、続いて、檀上に質問をします。サツマイモは、何科の植物ですか?」

 だから…、ふつう知らないって、そんなこと。

 サツマイモはヒルガオ科の植物だと、このときに知った。
 ヒルガオ科の植物は、ほかに、アサガオとヨルガオがあるそうだ。
 『さつまいもは、朝顔の仲間か…』と私は覚えようとしたが、これでは、肝心のヒルガオ科という名前を忘れてしまう恐れがある。すると、先生が覚え方を教えてくれた。

「朝・昼・夜に、サツマイモを食べる!」

と、覚えなさいと。


 じゃがいもはナス、そして、朝昼夜にさつまいも。
 (さらに、ユウガオはウリ科なので注意せよ、というオマケ知識もくっ付いている)
 
 こうした知識とは縁が薄い道へ進んでしまった現在の私だが、今も忘れずに覚えていることを思うと、このとき私が受けた〝衝撃〟は相当強烈だったようである。


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小テストの時間

2008年02月24日 12時35分39秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 4年生のときは、T先生(担任)の方針だったのか、授業中にしばしば「小テスト」が行われた。
 例えば「算数」の時間など、ひとつの単元が終わると、必ず小テストがあった。テストと言っても、半ペラの白紙が一枚ずつ配られ(これが解答用紙になる)、そこに『教科書』の練習問題をそのまま解いて答えるだけ、という簡単な仕様のものではあった。(当然、ノートを見てはいけない。筆記具と教科書以外は机の中に片付けた状態で行われる。『教科書』に答えを書き記しておくカンペ作戦は御法度である)

 児童全員に半ペラ白紙が行き届いたのを確認するとT先生は、
「それでは、教科書の○ページを開いてください。そこに、練習問題が五つ書いてありますね。今から、それを全部解いてみてください」
とおっしゃって、小テストが始まるのだった。
 要するに、授業中に先生が説明してくださった問題ばかりである。けれど、私のほうは内容をすっかり忘れているから、なかなか解けない。復習する習慣がまだ身に付いていなかった頃で、私のテスト結果は危うい低空飛行を続けた。
 
 T先生は恐い先生だったけれど、小テストの点数が悪いことについては一切怒ることはなかった。しかし、ほどなく、どこで情報を仕入れたのか、うちの母がこのテストの存在を知るところとなり、こっちに叱られた。

「あんた…、授業でやった問題がそのまま出てるんやろ? だったら、百点満点が取れて当たり前と違うの? 復習をして行きなさい!」

 私の辞書に「復習」という文字が書き加えられた瞬間だったかもしれない。
 以後、私は、小テストの前日には一通りその単元の問題を解いてみて、本番に備えることにした。やってみれば効果は絶大で、ほどなく低空域を離脱、満点を取れるようにもなった。嬉しかった。


「おおっ! おまえ、がんばるのぉ~」

 採点後の答案用紙を返却しながら、先生はおどけた口調でおっしゃった。そして笑った。
 恐いはずのT先生が、笑った。


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うちのクラスだけ…

2008年02月23日 22時07分34秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 T小学校への転校から一年が経過し、めでたく、私は4年生に進級した。

 前年度の3年5組がそのまま4年5組にスライド昇格する形となり、クラスメートの構成には全く変動がなかった。
 さすがに教室の場所は変わったが、新しい教室内には、前年度から慣れ親しんだ〝いつもの顔ぶれ〟が並んでいた。

 ただし…、担任の先生だけが、交替されることになった。

 ほかの教室(4年1組~4年4組)では、前年度(3年生のとき)の担任がそのまま持ち上がったのに、どういうわけか、4年5組だけ担任が交替になった。

 クラスメート(児童)の構成には変動がないのに、担任の先生だけが交替されるというのは、珍しいケースではないかなと思う。
 先生が産休に入られる場合などはこの現象も生じるだろうが、このときはそういう事情もなく、どうして3年生のときの先生が交替してしまったのか不可解だった。



 そのような次第で、わが4年5組の新学期(4月)は、「クラス全員で新しい先生を迎える」ことから始まった。

『新しい先生って…、恐いのかな? 優しいのかな?』
と、まだ見ぬ先生を想像し、児童たちは不安と緊張に包まれる新学期の幕開けである。
 この緊張感を「クラス全員で共有しなければならない」のが、こうしたケースの特徴だろう。
 この感覚は、児童の顔ぶれもシャッフルされる〝クラス替え〟の場合とはまた異なる、独特なものだった。

 新しい先生は、T先生という男の先生だった。
 私の場合は、広島時代を含めた小学校6年間で、担任が男の先生だったのはこの年だけである。

 この先生は、厳しかった。
 児童の感覚で表現するところの〝恐い先生〟に属することは間違いない。

「おまえは、なにをやっとるんだぁ…、バカタレェ!」

が、先生が怒ったときの口癖で、約束を守らなかったり宿題を忘れたりすると確実に注意を受けた。「なにをやっとるんだぁ…」のあとに一瞬の間があり、「バカタレェ!」のところで頭を叩かれるシステムだった。この雷は、男女かまわず落とされた。相当な迫力があって、泣き出す子もいた。
 自分に非があって、怒られても仕方ない場面だということは児童本人あるいは周囲から見ても納得できていたが、とにかく、叩かれる直前のあの〝間〟が恐ろしかった。


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