ダンポポの種

備忘録です

親父との最後の日々

2022年11月01日 22時21分00秒 | 備忘録
私の父は、もともと、心臓に疾患がありました。狭心症とか不整脈とかいうやつ。
〝命そのもの〟である心臓に関わることなので、父は定期的な通院を欠かさず、心臓や血管のようすをいつも先生に診てもらっていました。息子の私から見ても、父は自分の健康にすごく気を付けていたと思います。
おかげで、日常生活には何の支障もなく、父は高齢になってからも毎日を元気に過ごしていました。当ブログにも、父母私の三人で1泊旅行に出かけた話や、晩めしで一緒に酒を飲んだ話などを、書いたことがあったと思います。『今夜は実家で晩ごはん会です。親父と酒を飲みました』っていう記事は多かったでしょう?
平和で楽しい時間でした。

コロナ禍になって、感染予防が叫ばれると、父は、なお一層に健康管理に気を付けていました。
父自身は、不要不急の外出をほとんどしませんでした。
「コロナが終息しないうちは、旅行も行かれへんなぁ」って。
私も、高齢の父母を外食や旅行に連れ出すことを控えるようになりました。自粛。
父母私が一緒に出かける先は、せいぜい、アルプラでの買い物ぐらい…でしたね。
あっ、西国三十三寺のお参りには、何回か、三人で行きました。
コロナ以降では、2020年11月に丹後の成相寺と松尾寺。2021年10月に施福寺と葛井寺。同11月に宝厳寺(竹生島)。そして2022年5月に谷汲の華厳寺、これで成就満願。
ほかにも、兵庫県高砂へご先祖墓参りへ行ったことが数回あったと思う。
コロナ禍になってから、父母私の三人で出かけた機会はそれぐらいだったかな。(案外、出掛けてる?)
もっともっと、温泉旅行とか行きたかったなぁ。

   ◇          ◇          ◇

【親父に告げられた、思いもよらぬ病名】

昨年(2021年)春ごろでした。
父は、「胸のあたりがちょっと苦しい」「心臓がドキドキする…」と言い出しました。
狭心症の持病がありますから、私たち家族も「また心臓の血流が悪くなっているのかもよ?」と推察。
早速父は検査入院して、先生に入念に調べていただきました。
けれども、心臓や血管(循環器系)に異常は確認されませんでした。

家族:「心臓は異常ないって、先生言うてはったね」
父:「うーん そうなんかなぁ? でも、まだ、このへんがなぁ…(←胸のあたりを触りながら)」

浮かない表情の父は、続いて、こんどは内科の先生を訪ねました。
内視鏡検査で、食道や胃を隅々診察してもらったようです。
しかし、ここでも異常は確認されませんでした。

家族:「異常は無いんだってさ。胃の中もきれいですよって、先生言うてはったね」
父:「うーん… だったら、この違和感は、何が原因なんやろか?(←胸のあたりを触りながら)」

〝異常なし〟と言われても、父は全然すっきりしなかったんですね。
心臓? 胃? そのあたりに、モヤモヤした違和感が続いていたようです。

その後も父は、しつこいように、先生に相談を続けたみたいです。

すると、ひとつの疑い(病名)が浮上しました。


<膵がん>

可能性を踏まえて検査をした結果、事実だと確認されました。
今の時代ですね。先生は、本人・家族の前でズバーン!と告知します。隠さない。
父本人も、私たち家族も、ただただ、衝撃でした。
思いもよらぬ病名を告げられてしまった。

「膵臓がん、ってか? あれまぁ…

早期発見が難しいとされる病のひとつですね。
症状が出たときにはもう遅いとも言われる。
発見だけでなく、治療も難しい。体内の奥まった箇所なので、手術ができない。
今日・明日で直ちにどうこうなるわけではないと、先生はおっしゃったけれど。
先生からの告知に、私の心にも絶望感が芽生えました。
隣りに座っている父の横顔を見つめながら、『今から取り返しがつくものなのか、つかないものなのか…』と不安に襲われました。そんなことを思うこと自体が、絶望感。
「今は、提供できる薬の種類も増えています。抗がん剤治療を頑張りましょう!」
と言ってくださる先生にお任せするしかなかったです。
あれほど健康に気を付けていた父が、どうしてこんなことになってしまうのか?
私たち家族にとっては、父の回復を願い、そして、覚悟を固めていく日々の始まりでした。

告知の以降は、2~3週間に一度のペースで通院して、抗がん剤治療を続けました。
ご多分に漏れず、副作用が出ました。父は、手足のしびれ、むくみ、体の倦怠感を訴えました。髪の毛も抜けました。そういう厄介な症状と〝付き合っていく〟しかないのですが、顔をしかめて辛そうにする日がたびたびありました。これについて、先生から、「入院」の提案は一度もありませんでした。入院する必要は無いということです。一貫して『普段は自宅で過ごし、診察日だけ外来通院する』というスタイルでした。
元気だったころ父は、自分でクルマを運転して通院していましたが、ほどなくそれは難しくなりました。家族としても、しんどい父に運転させるわけにいかない。通院日には私が送迎するようになりました。

先生がおっしゃったように、途中で幾度か、薬の種類が変わりました。
あるとき、手足のしびれ(副作用)がひどくてシンドイ!と父が先生に申し出て、薬を変えてもらったことがありました。弱いタイプの薬に変えてもらったんでしょうね。そうしたら、しばらくすると、失われていた髪の毛がまた生えてきた
「おい、髪の毛が生えてきたぞ」って、父は喜んでいました。
髪が生えてきて、久しぶりに父が笑いました。嬉しかったんやろね。
でも、この状況で髪が生えるということは、『抗がん剤、効いてないんじゃないの?』って、家族は心配な気持ちになりました。

がんをやっつけるために強い薬を使うと、副作用も強くなり、父はすごくシンドイ思いをする。そこで薬を変えて、弱い薬を使うと、父は穏やかに過ごせて髪の毛も復活した。でも、それだと「肝心な抗がん効果はあるのか?」という心配です。案の定、次に通院した際に血液検査してもらうと、数値が悪化していた。ダメだ。先生は、また薬の強さを変えることを提案なさる…。
どっちを取ればいいのか。家族も思い悩まされる問題でした。




【親父との最後の日々】

父が抗がん剤治療を始めてから亡くなるまでは1年4か月半でした。(=約1年半)
月日とともに、食べる分量もだんだん減っていき、やっぱり最後は瘦せ細ってしまったけれど、いつも実家を訪ねて顔を見ていた私にとっては、その姿は〝いつもと同じお父さん〟でした。

今から一か月ほど前の9月末までは、自分で立ち座りや歩行ができて、ふだん通りに自宅で過ごしていた(=自分のことは自分でできた)のですが、先月(10月)に入ってから一気に体力が無くなりました。日に日に、どんどん弱っていきました。自分の力で立ち上がれなくなりました。歩けなくなりました。

   ◇          ◇          ◇

◎10月27日の朝 救急搬送
前夜から容態が思わしくなかった。意識も朦朧としていて、様子が変だ。もう自宅では看ていられない。
午前8時半、救急車でいつもの病院まで搬送してもらいました。
病院へ着くと、すぐに主治医の先生も駆けつけてくださった。
父の様子を見れば、先生にはもう分かるんでしょうね。
これ以上治療を続けるかの意向確認を、母が訊かれていたみたいです。私も異存はない。
「今まで、つらい治療にもよく耐えて、頑張ってこられましたね!」
先生も、父を褒めてくださった。
父はそのまま入院することになりました。
「入院中にご本人が苦しがったり痛がったりされることがあれば、痛みを和らげる処置を取りますので、どうかご心配なく…」
「先生、よろしくお願いします。m(__)m」

入院中の面会に備えて、その場に来ていた母私妹の三人はPCR検査を受けて、この日は帰宅しました。
コロナ禍なので、入院病室での家族面会はできないはずなんだけど、なのに、看護師さんは面会・付き添いを強く勧めてくれました。「ぜひ、面会に来て、そばに居てあげてください!」って。
風雲急を告げる―、そんな気配。
お別れの時が迫っているのを感じる。


◎10月28日の朝 父が亡くなる
午前4時40分。自宅のフトンで寝ていた私の枕元に置いてあったスマホが鳴った。
病院からの電話。
父の呼吸が弱くなりつつあるらしい。家族召集の電話でした。

母と私は、急いで支度をして、まだ真っ暗な道を病院へ急ぎました。
5時半に病院へ到着。
父は、病室のベッドで酸素吸入マスクを着けてもらって、小さな呼吸を続けていました。
息はしているけれど、呼び掛けても返事しません。反応がありません。
私は、ちょっとだけ生えていた髪の毛(白髪ですけど)に触れて、よしよしと頭を撫でてやりました。
手も、さすってやりました。
「あれ! 手が、もとに戻ってる!?」
母が驚いて言いました。
むくんでパンパンになっていたはずの父の手が、ほっそりした元の手に戻っていました。不思議。
6時半を過ぎた。
そのとき、父が声を出したように聞こえました。そして、一瞬だけ目を開けたようにも見えました。
「お父さん! 分かるかぁ!? お父さん!!」
呼び掛けてみたけれど、それっきりでした。

妙な静寂が訪れました。
「あれ…? 息してるか?」

すぐに看護師さんが来てくれました。
静かになった父を見て、言いました。
「呼吸が止まったのかも、しれないですね」

7時過ぎに、滋賀から妹が駆け付けました。父の娘です。
妹の到着を待って、7時40分過ぎに当直医先生が病室へ来られて、正式な死亡確認となりました。
父が逝きました。

   ◇          ◇          ◇

お父さん。
昨年、がんが見つかったときは、本当にびっくりしたよなぁ。家族みんなびっくりした。
抗がん剤治療は大変で、むくみ、しびれが、辛かったね。
ほんまに、おつかれさまでした。
最後まであきらめず、一生懸命に病気と闘ったお父さんは立派でした。

10月に入ってから、お父さんは自分で立ち上がれなくなり、僕が抱き上げて、立つ、ようになりましたね。最初のうちは、僕がすこし抱き上げたら、そこからはお父さんが自分の力で立とうとしてくれました。でも、日が経つにつれて、抱き上げるたびにお父さんの力が薄れていくのを、僕は感じていました。
抱き上げながら僕が、『おい!お父さん、自分で立ってくれ!』って言うたことがあったね。ほな、お父さんは、ぼそっと「難儀やなぁ…」って呟いたね。自分で言うか!?って、お母さんも僕も大笑いしました。
抱きかかえ方なんて、僕はよく知らないので、力任せで無理やりグイッと引き上げたこともあったと思う。お父さん痛かったかな。ごめんな。でも、限られた期間だったけれど、親の介護というかお手伝いをちょこっと担うことができて、僕はよかったと思っています。
お父さん、ありがとう。




伯父さんありがとう

2022年04月09日 19時26分00秒 | 備忘録
去る4月1日に、兵庫県高砂で暮らす伯父が亡くなりました。行年90才。
通夜・告別式はもう済みました。

昨年12月17日に両親と私の三人で高砂へ行ったときに、伯父の家も訪ねました。
晩年の伯父はすっかり腰も曲がってしまい、動作もゆっくりになっていたけれど、自分のことは自分でできる体力と気力は維持していました。その日も、訪ねた私たちを歓迎してくれて、いつもと変わらない口調で話しかけてくれました。その様子を見て私も「齢は進んだけど、この人は元気だなぁ」と思ったものです。

同居している従兄によれば、伯父は亡くなる二日前までは家で普段通りに過ごしていたそう。夜半に自宅で急に体調が変わってしんどくなり、救急車で搬送されて、病院でほぼ1日を経て、4月1日の朝方に亡くなったとのことです。経過だけを聞けば、なんとも、あっけないことですね。
「わしは、100(才)まで生きようと思っとうからな!」
と、常々、伯父は言っておりました。
事実、伯父はずっと元気に過ごしていましたから、100才という目標も「有り得るな…」と私も思っていました。この結末からは、やっぱり、本当に100まで到達するのは容易ではないっていうことやね。

私が大人になって今の人生(職業)を歩むようになったのは、伯父のおかげです。
人生の分岐点は今から30年ちかく前-。伯父が私に言いました。
「お前もな、D家の一族に生まれたひとりだし、いっぺん、修行だけでも受けておいたらどうや?」…と。
もし、そのとき、伯父の提案を断っていたとしたら、私の人生はどうなっていただろうか…
私は伯父に弟子入りして〝この業界〟の一員に加えていただきました。京都ヘッドに出入りするようになったのも、そのときからです。私が大学生のときでした。

その後、私は京都S華町の業務施設へ移ることになり、業務上立場としては伯父のもとを離れて、別の新しい師匠のもとで業務に励むことになりました。

でも、そののちも、伯父はいつも私のことも心配してくれていました。
「あのな、お前が京都で頑張ってしっかり励んでいるっていう良い噂をな、わしも聞いてるさかいな。人からそんなふうに言うてもらえたらな、わしも嬉しいし、誇りに思っとるからな…」
そんな噂が本当にあったのか不明ですが、伯父はいつも優しい言葉で私を励ましてくれました。
喋りはじめに、つぶやくように「あのな…」と言うのが、伯父のしゃべり方だったな。
「あのな、これ少ないけどな、またな、何かに使うたらええわ」
と言って、そっとお小遣いを手渡してくれるパターンも多かったです。おおきに~

伯父からもらったものは、とても多いです。
私はそのうちのどれほどを伯父にお返しできただろう。ご恩に報いることができただろうか
反省とともに、これからは伯父に安心してもらえるように励まねばならないと思います。

伯父さん、お世話になりました。本当にありがとうございました。
よかったら、お浄土から、私のこともちょこっと見守ってもらえたらいいなぁと思います。
m(__)mよろしくお願いします。

「出た こういうときだけ、どうか見守ってください!とかって、お願いしたがるんよね」
「ま、確かに…。ちょっと図々しいお願いかな、やっぱり
「分かりましたよ。見守りますよ! 見守ればいいんでしょ、見守れば!」
「おまえ誰やねん
ちゃんちゃん

合掌





20年経っても、思い出す

2015年01月17日 23時57分10秒 | 備忘録
きょう、阪神・淡路大震災から〝20年〟となりました。


今から20年前の1月17日。
当時、私は大学生。
京都の親元を離れて、山口県下関で、単身の学生生活を送っていました。
学生の本分を忘れ、ひとり暮らしをいいことに、ぐうたらな 怠けた生活を送っていた時期でもありました
夜更かしは当たり前!? 思いっきり夜遅くに寝て、朝は起きられずに、そのまま昼ごろまで寝てる っていう、ダメダメ生活です。
20年前の1月17日、私は、まさに そういう生活状態の中にありました

あさ5時46分に地震発生。
神戸から遠く離れた下関では、震度2ぐらいの揺れが観測されたそうです。
夜更かしして眠りについたばかり私は爆睡中で、震度2では、到底気が付きません
結局、そのまま(=何も知らぬまま)、お昼ごろまで 思いっきり寝続けた…、というのが正直なところです。

当日、昼頃にようやく起き出した私は、部屋(自室)の片隅に置いてある電話機の留守電ランプが点滅していることに気づきました。
『おやっ? (寝ている間に) 電話が掛かってきていたのか
爆睡中だったんだと思うけど…、このころの私は、寝ているときに電話が鳴っても、まったく気が付かないタイプでした。

寝ぼけ眼をこすりながら、留守電ボタンを押して、メッセージを再生しました。
朝方に掛かってきていた電話で、大学の友人(同級生)からのものでした。神戸出身で、私と同じように下関へやって来て単身生活をしている子でした。
「さっき、関西で大きな地震があったようだ。神戸はかなり被害が出ているみたいだ…。京都は大丈夫か? 実家と連絡ついたか…?」
というふうなメッセージが ふきこまれていました。
神戸出身であるその友人は、私が京都出身であることを知ったうえで、電話をかけてきてくれたようでした。

『へっ? 地震…? 何のことや
この期に及んでも、まだ事態が分かっていない私です。

「そんなに大きな地震ならば…」と思って すぐに自室のテレビをつけてみました。
そして、テレビ画面に映し出された光景に、言葉を失いました。
私が、この大地震を知ったのは、このときでした。

◇          ◇          ◇          ◇          ◇

現在、私は、京都で暮らす毎日です。
言うまでもなく、地元・関西の人たちとお話をする機会が多いです。
毎年1月17日が巡ってくると、うちの近所のみなさんも、改めて当時を思い出されるようです。
「あのときの地震の揺れは きつかったなぁ…」って。
京都南部の人々にも、それは強烈な印象で残っているのですね。

だけど、私は…、阪神・淡路大震災について振り返るとき、いつも、こういう 自身の〝間抜けな生活ぶり〟を思い返さねばならぬのです
取り返しのつかないことですが、20年経っても、情けないことであります



バレンタインデー

2010年02月12日 23時55分29秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

◇            ◇           ◇


昭和60年(1985年)2月-、私が6年生だったときの思い出である。
小学校生活に別れを告げる卒業式が、いよいよ1ヵ月後に迫っていた。

2月14日のバレンタインデーの夕方、私の家の郵便受けに ひとつのチョコが届けられているのが発見された。
第一発見者が 私だったのか、うちの親だったのか、記憶が定かではない。
社宅(マンション)に住んでいたので、郵便受けは1階にあった。夕方に帰ってくるときは必ずそこを覗いて、郵便物が届いていないかを確認してから自宅の階まで上がってくることになっていた。家族内のルールである。

郵便受けに届けられていたチョコ箱は、手のひらに乗るぐらいの大きさだった。
きれいに包装され、いかにも〝プレゼント〟という体裁に整えられていた。
ただ…、肝心の「宛て名」と「差出人名」が見当たらない。バレンタインデーの贈り物だろうと察しは付くのだが、〝名無し〟では正体不明である。

包みを手に取って、上から下から横からと 注意深く見回してみると、包装紙の一隅に 当時流行っていた丸っこい文字(まんが字とも呼ばれた)で、

『6年2組の女の子より』

と書いてあった。


「6年2組って書いてあるから、これ、あんた宛てに届けてくれたんとちがうか?」と、うちの親は、私に向かって言った。
 
それは間違いないことと思われた。
でも、一体誰なんだろう…?
私にとっては大変光栄なことだったけれど、「6年2組の女の子より」だけじゃ、誰が届けてくれたのか分からない。


「あんた、心当たりは無いのか?」と、うちの親は言った。

心当たりって言われてもなぁ。 分からん…。

「(包装紙に書かれている)この字を見て、誰が書いた字か分からへんのか?」
と、うちの親は面白そうに言う。

なんだか、謎解きのサスペンス劇場のようになってきた。
けれど、書かれている字を見ても、私にはピンとこなかった。
当時は、みんな丸っこい字を書いていたように思うし、そもそも、クラスメートの誰がどんな字を書いているかなんて、私の関心の外であった。
(もっとも、こうした異性に対する鈍感さは、現在に至っても何ら改善されていないようである。私は昔からこんなのだったんだね…。)


チョコ箱を手にした私は、いったい誰が届けてくれたのか?と疑問に思いながらも、傍らで面白がっている親に訊いてみた。

「これ、食べても大丈夫かな?」

「大丈夫やろ。ちゃんと包装もしてあるし…」

     ◆          ◆          ◆          ◆          ◆


今から25年も昔の 小学生時代のチョコの思い出を いまだに大事そうに持ち続けているとは、よほど律義か、かなり間抜けか…、その判断はお任せしたいと思うけれど、男女の恋物語とは全く別の事情から、私にとってこのチョコは「忘れられない味」として思い出に残っている。

「これ、食べても大丈夫かな?」
「大丈夫やろ。ちゃんと包装もしてあるし…」
という会話に、それは集約されている。

 
この年は、世間を騒がせたあの事件-「グリコ・森永事件」の真っ最中だった。
江崎グリコ社長の誘拐事件。その舞台は、まさに西宮であった。
その後、犯人が 毒入り菓子を実際に店頭に置いたりしたものだから、物騒なことこの上なかった。

道に落ちているお菓子を食べてはいけない、見知らぬ人からお菓子をもらって食べてはいけない、身に覚えのないお菓子は食べてはいけない、など…、
私たち子供らも、お菓子に関する注意事項をしつこいぐらいに聞かされていた。
そんな時期に、「6年2組の女の子」は 何も言わずにぽんと チョコを〝投函〟してくれたのである。
恐らく、面と向かって渡すのが恥ずかしかったから、郵便受けに届けて立ち去ったのだろうと思う。
そして間違いなく、私だって、面と向かって受け取るのが恥ずかしいに決まっていた。

せっかく届けてくれた、バレンタインデーのチョコ。
私の鈍感さゆえ、身に覚えのないお菓子として無慈悲な処置も有り得た、危うい贈り物だった。
私の心は、「届けてくれたのは 誰なんだろう?」というトキメキが半分、「これ、食べても大丈夫なんだろうか?」という拭い切れぬ不安が半分。
混乱する気持ち…、これじゃあ、かい人21面相の思うつぼではないのか…!

本当に、いったい誰なんだろう?
クラスメートの楽しげな顔を、ぶわーっと思い浮かべてみる。
ハッと気が付くと、その背後で〝かい人21面相〟が不敵な笑みを浮かべているようで。(←勝手に、怪人二十面相のイメージ)

     ◆          ◆          ◆          ◆          ◆

その後、卒業式までの残り1ヵ月を、私は普段通りに過ごした。
あのチョコが 誰からの贈り物だったのか分からないままだったが、クラスの女子に「届けてくれたのは、あなたか?」と問うて回るわけにもいかず、
時間だけが過ぎていった。
失意のうちに「ホワイトデー」も過ぎてしまい、そのまま小学校最後の日を迎えることになった。


卒業式の日は、青空が広がるとても良い天気だった。
明るい春の陽ざしに包まれながら小学校を卒業した-という思い出は、今もしっかりと記憶に残っている。
そして…、ホワイトデーの返礼が無かったことに業を煮やしたのか、この日、チョコの当人が私の前へ 名乗り出た。

「いいこと教えてあげよか。6年2組の女の子って、私やで」

そんな言い方だったと思う。
唐突だったが、これは本人しか知り得ない情報だ…。間違いない。
そして、案の定、そう言われた私は、言葉に詰まっていた。

「名前ぐらい、書いとけや!」

と、精一杯強がってみたものの、しどろもどろであった。

「ホワイトデーに何もくれへんかったやろー。何かちょうだいやー!」

と、向こうはたたみかけてくる。

「そんなん…、名前書いてへんから、分からへんやろ!」

↑それはさっき言うたやん。



かくして、名無しチョコの一件は 解決することになった。
これ以降の後日談は、存在しない。

バレンタインデーにまつわる思い出が一向に更新されない中、間抜けな私の心に今も残っている、子供時代の思い出である。



甲子園に棲む魔物

2008年05月31日 11時23分29秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

前回に続いて、小連体の話-。

当日のプログラムの最後に、「学校対抗リレー」というのがあって、大いに盛り上がった。
甲子園球場の外野グラウンド、レフトからセンターにかけての芝生エリアに、リレー用の周回コース(トラック)が特設され、各小学校の代表選手たちが駆け抜けた。(←私の記憶です。確か、芝生エリアにリレー用コースが設定されたと思う)

各小学校から、男子チームと女子チームが1つずつ出場した。
男女別に6~7校ずつが競走して、そのときのゴール・タイムによって総合順位を付ける方式だった。予選とか準決勝とかは一切無しで、各チームとも走るのは一回だけの真剣勝負だった。(←これも私の記憶です)

わがT小学校は、男女両チームとも、各クラスの脚力自慢の中から選びに選び抜いた「超厳選・高速強化オールスターズ」で編成され、さらに、連日の放課後特訓を重ねたうえで甲子園へのりこむという、気合いの入りようだった。
言うまでもなく、私がそこにノミネートされることは有り得なかったので、そういう特訓の厳しさは他人事にしか感じていなかったけれど、大会の直前には日曜日も返上して練習が行われていたように思う。指導担当の先生が、とにかく熱心だった。(→何を隠そう、あの、恐いT先生であった)


そして、特訓の成果は実を結んだ--。

甲子園球場の舞台でT小チームは素晴らしい走りを展開し、タイム集計の結果、男女とも見事1位を獲得して「アベック優勝」の快挙となった。アベック優勝は、小連体において史上初だと聞いた。
一発勝負の結果ながら、西宮市でリレー競走が一番速い小学校、という栄誉に輝いた

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

西宮でNo.1である。

私は、応援席(スタンド)から眺めているだけだったが、興奮した。


「よっしゃー これで、ほかの小学校にも、大きな顔ができるなっ

歓喜の声が渦巻く応援席で、私はそう叫んで、周りの仲間と喜びを共にした。


すると、そばにいた女子が、

「あんた…、それ以上 大きい顔してどうすんねん」って。


喜びのあまり、私も油断していた。不用意な一言だった。
〝待ってました!〟のようなツッコミ(好球必打)をまともに喰らった私の心は、一瞬にして焼け野原となり、もう、元には戻らなかった。

甲子園には魔物が棲むと、人は言う。



甲子園球場で

2008年05月30日 23時02分36秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

毎年秋、西宮市内の小学校に通う6年生が阪神甲子園球場に集結して、体育大会が開催された。
(現在もこの体育大会は続いているようですが、2007年度~2009年度はシーズンオフに甲子園球場の改修工事が行われるので、この3年間に限って、体育大会は中止されるそうです)

西宮市小学校連合体育大会… という長い名前の行事で、平素は「小連体」(しょうれんたい)という略称で呼ばれていた。出場資格が問われる選抜大会ではなく、西宮市内の小学校に通う6年生は漏れなく参加する仕組みになっていた。小連体の当日は6年生は学校での授業が無く、朝からみんな一緒に甲子園球場へ出かけていくのだった。
6年生だけとはいえ、西宮市内の全ての小学校から集まるので、人数は盛大だった。各自、弁当持参で出かけ、私などは〝ほぼ行楽気分〟だったことを覚えている。


運営側からの事前振り分けによって、各小学校は「ダンス」または「組み体操」(組み立て体操)のどちらかを児童全員で演じることになっていた。

わがT小学校は「ダンス」に振られ、同じ演目を練習してきた他校生たちと一緒に、グラウンドいっぱいに広がって踊った。
演技の途中に、それぞれの小学校ごとの振り付け(オリジナル・パート)があって、それが他校のパートと組み合わさって美しい演技になった…、らしいのだが、踊っている当人たちはそれを見ることができないから残念だった。

何という曲名でダンスを踊ったのか、すっかり忘れてしまったが、甲子園球場グラウンドのちょうど「ショート」の守備位置付近で、私は踊った。
今でも、甲子園の野球中継でショートに打球が飛ぶと、当時を思い出すことがある。

高校球児の夢舞台・甲子園球場グラウンドに、小学6年生で立ち入りが許されるのは西宮っ子の特権であり、私自身も良い思い出になっている。
なお、小連体では、土の持ち帰りは絶対禁止事項だった。



最後の音楽会の最後 〔後編〕

2008年03月23日 10時17分55秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

音楽会の当日になった。

T小学校には、音楽会専用のホールなんて無かったので、この日だけは、体育館が音楽ホールに変身した。
遮光カーテンが引かれた館内は真っ暗で、即席で組み立てられたスポットライトが舞台上を照らしていた。

私も、6年2組の一員として舞台に上がり、合唱の発表をした。
何を歌ったのか、曲名は忘れてしまったが、大きなミスもなく無難に歌い終えたと記憶している。

合唱発表を終えて、クラスメートと和やかに舞台から下りてきた私は、待ち構えていた〝件の先生〟にその場で身柄を拘束された。
教室へ戻っていくクラスメートたちの列から引き剥がされ、舞台裏の別室に監禁されて「閉会の挨拶」の最終調整に励んだ。
はっきり言って、合唱練習よりも挨拶練習のほうが大変だったが、どうにか当日までに原稿は暗記した。
あとは、早口にならないよう、落ち着いてゆっくり言うだけだ。


    ◇     ◇     ◇

「よしっ! 本番も、その調子でいくんやで!」

別室での〝最終リハーサル〟が済むと先生はそうおっしゃって、手にしたファイルの中から、二つ折りの青い画用紙を取り出された。

「これ、持って行き!」

言われるままに、私はそれを受け取った。
二つ折りの青い画用紙-、開いてみると、中には挨拶文の原稿が貼ってあった。
暗記用として〝原版〟は私が持っているから、これは、それとは別に先生が清書してくださったものだ。
だけど、これは一体、どういうこと…?

ポカ~ンとしている私に、先生はサラ~ッとおっしゃった。

「舞台に上がったら、急に緊張するかもしれへんし、もし、ド忘れしたら、それを見ながら挨拶して、いいよ」

それを聞いて、ますますポカ~ンとする私だった。

『ああ、なるほど…。先生は最初からこういう作戦を考えておられたのだな…』
と、私が気付いたのは、ずっとずっと、ずーっと、後になってからのことである。


真っ暗な館内。
私は、舞台上でスポットライトをひとり占めして、大勢の保護者たちを前に、閉会の挨拶を無事終えた。
緊張感から解き放たれて、意気揚々と舞台から下りてきた私は、例によって待ち構えていた先生に、今度は自分から得意げに言った。

「先生、最後まで、原稿を見ないで言えました!」

ということは…、前を向いて、視線を下げずに、保護者たちに向かってしっかりと挨拶ができたわけだ。

すべては、「ご苦労さん!」と言って笑っておられる、先生の思惑通り-。



最後の音楽会の最後 〔前編〕

2008年03月22日 10時59分44秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

職員室の片隅――。

担任を通じて職員室への呼び出しを受けた私は、先ほどからずうっと、その先生から説得をされ続けている。

「お前なら、できる!」

「頼むから、やってくれ!」

「担任の先生には、許可をもらってあるんだ」

「挨拶するだけじゃないか!」

苦渋の表情で立ち尽くす私の前にあらゆる言葉が並べられ、懸命の反論も焼け石に水で、着実に退路は断たれていくのだった。


…というわけで。
学校行事として行われる音楽会(音楽発表会)において、「閉会の挨拶」を私がやることになった。
開会ではなくて、閉会の際の挨拶である。
6年生の二学期も終盤、11月下旬か12月上旬のことだったと思う。
小学校生活最後となる音楽会の、その最後を、私が締めくくるのだ。

私を呼び出したこの先生は、そうした学校行事での段取り・進行を一手に引き受けておられた方だった。日頃は、低学年教室のクラス担任を受け持っておられたが、私の中では『学校行事のとき舞台裏を走り回っていた先生』という印象のほうが断然強い。私は5年生のときに学級委員を務め、学校行事の舞台裏に関わったので、それ以来、この先生にも顔を覚えられていた。低学年児童への接し方は気持ち悪いぐらいに優しいのに、高学年児童に対しては鬼のように厳しい先生だった。

5年生で学級委員を務めたときに〝こき使われて〟懲りたので、私は6年生に進級した際には学級委員を辞退した。
6年生では「飼育委員」という委員会に所属し、校内にある鳥小屋(インコ・にわとり小屋)の掃除に精を出すのどかな日々を過ごしていたのに、それが今回、突然の呼び出しで事態が急変してしまった。
それにしても、「担任の先生には許可をもらってある」なんて、児童を相手に手回しが良すぎるではないか。


音楽会での「閉会の挨拶」である-。
挨拶の原稿は、この先生と一緒に考えた。
音楽会の当日は大勢の保護者が見学に来るので、それを踏まえた上で原稿をまとめる必要があった。会場に来てくれた保護者に向かっての挨拶である。
原稿用紙2枚分になったと記憶している。めちゃめちゃ長い文面ではなかったが、かといって、ひとこと ふたこと でパッと終わるような軽いものでもなかった。


挨拶の原稿が仕上がると、先生は、こうおっしゃった。

「それじゃあ…、この原稿を、当日までに覚えてきてね」

「ええっ! 覚えるのですか?」

「そう。全部暗記してちょうだい」

そんなの覚えなくても、当日は原稿を見ながら言えばいいのでは…? と私は訴えてみたが、先生は首を横に振った。

「アカンで。当日は、原稿を持たずに挨拶してもらうからな…」


原稿の暗記と、話し方の練習。
音楽会の当日まで、特訓が続くことになった。



京  都

2008年03月17日 15時38分38秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

小学校の遠足の思い出。

3年生の秋(二学期)は、貸切バスで西宮市内を一周。
3年生の三学期は、歩いて西宮神社と香枦園。
4年生の秋(二学期)は、阪急電車で服部緑地公園。(→雨天のため中止)
5年生の春(一学期)は、再び、阪急電車で服部緑地公園。(リベンジ)

など…、この「備忘録」カテゴリーに投稿した記事の中にも、遠足ネタは多い。
ついでに言うと、大阪弁天町の交通科学博物館にも遠足で行った記憶がある。
4年生の春(一学期)だったと思う。

その都度、行き先を考えなくてはならない先生方は大変だっただろうが、児童のほうは気楽なもので、
「こんどの遠足は、どこへ行くのだろう?」
と、心を躍らせ、担任の先生が行き先を発表されるのを、楽しみに待ったものだった。


私が通ったT小学校では、5年生の秋以降の遠足については、その行き先が毎年固定化されていた。

5年生の秋は、奈良公園
6年生の春は、伊勢志摩(修学旅行)
6年生の秋は、京都

これは毎年決まっていて、「奈良・伊勢・京都」の三点セットは、T小の高学年児童には避けて通れぬ必修メニューだった。(いずれも、全行程を貸切バスで移動。電車利用は無し)

このうち、6年生秋の「京都遠足」には、なにか儀式めいた独特の重み(雰囲気)があった。
その雰囲気は、伊勢志摩へ行った修学旅行を上回る。少なくとも私は、そんなふうに感じていた。
清水寺・金閣寺・太秦映画村などを巡り、ごくふつうに京都見物をしただけの遠足だったけれど、私は終始、目に見えないプレッシャーに包まれているような気がしてならなかった。ひょっとすると、クラスメートたちも似たような心境だったのではないか。そのプレッシャーみたいなものを、言葉で説明するのが難しい。


6年生の秋-。
卒業というタイム・リミットが意識の中に入ってくる時期ではあった。

保護者たちの間では、
「(遠足で)京都へ行ったら、(あとは)卒業式だな」
という言い回しが、しばしば語られていた。
これは、毎年6年生の保護者たちに受け継がれている、独特の表現だった。
私にはそれが悲しく聞こえた。
「京都は最後の場所…」みたいな、寂しさを感じた。
〝きょうと〟という地名の響きが、そういうイメージに はまっている気もした。

遠足に出かける楽しさと、これが最後という寂しさ。
両方が入り混じって複雑な気持ち…。
目に見えないプレッシャーとは、そういうことだったのだろうか。
いま、その京都で暮らしながら、考えてみたりする。



香り消しゴム

2008年03月15日 09時32分24秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

当時、香り付きの消しゴムというのがあって、私が通ったT小学校でも、断続的にこれが流行した。

私が転校してきた直後の3年生のときに一時的な流行があって、その後、5年生から6年生にかけての時期に再び流行。高学年になっていたこともあってかブームが深度化し、香り消しゴムの一大流行期が築き上げられた。

私がいたクラスでは、主に女子の間で始まったブームだったけれど、ほどなく男子も追随し、気づけば教室内が香り消しゴムだらけになっていた。

カステラ、コーヒー牛乳、みかんジュース…など、子供たちが好きそうな甘い香りがいろいろあって、休み時間の教室内は、消しゴムの品評会場みたいな雰囲気になった。
お互いに香りを嗅ぎあって喜んでいるうちは可愛らしいものだったが、他人が持っていない〝珍しい香り〟の消しゴムを自慢する者が出始めると、状況は一気にエスカレートしていった。もう、止められない。

『クラスメートの注目を集める秘訣は、他人が持っていない香りにあり!』

とばかりに、ディープ・コレクターへの道を突き進んでしまう子が出現し、それは、日替りで大量の香り消しゴム(各種)を持ってくる〝女王〟を降臨させることになった。
「今日の香りは、たこやき…」とか言って。


言うまでもなく、こういうのは集め始めるときりがない。
典型的な、子供の無駄遣いでもある。
また、その取り扱いが、消しゴム本来の用途から逸脱していた点も問題化した。

〝珍しい香り〟を求めて校区外の文房具店へ買いに行っている奴がいるらしい…という噂が流れたり(→保護者の同伴無く児童だけで校区外へ出かけたらダメというお約束だった)、教室内での消しゴムの紛失事案も相次いだ(→盗難の疑いも拭えなかった)ため、最終的に、学校側からその旨を戒める指導が入って、ブームは一気に終息へ向かうことになった。

『消しゴムは文房具』という大義名分のもとに教室内への持ち込みが許されていた香り消しゴムの時代は、こうして幕切れを迎えたのである。



先生!黒板が見えません

2008年03月10日 18時38分11秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

メガネ・デビューを果たす前、私が最前列の席で板書写しに悪戦苦闘していたころの、ある日の出来事。

私のすぐうしろの席に座っていた女子が、前フリも無く、先生に直訴した。

「先生…、黒板が見えません。Dくんの頭が大きすぎて」

授業の冒頭、先生が本題に入ろうとされた直前の、一瞬の隙をついて発せられた一声だった。
クラスメートたちにも聞こえていて、教室内に笑いがおきた。

おまえは、突然何を言い出すのか…。
しかも、「黒板の字が見えません」ではなくて、「黒板が見えません」と言った。
意識的に、敢えてそう言っただろう。
だって、「頭が大きすぎて…」と言ったじゃないか。

私は、椅子に座ったまま、上半身をひねって振り向いた。
相手は満足そうに、ニコニコしている。
どうやら、ネタにされてしまったようである。

私の〝頭ネタ〟(大きさ編)は、卒業の日まで継続的に登場した。



メガネ・デビュー記念日

2008年03月09日 10時06分26秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年生の2学期後半ごろから、自分でも気付いていたのだが、黒板の文字が見えづらくなってきた。
視力の低下だった。

授業中も、目を細めたり、指で目尻をつり上げたり、下げたり…、なんとか焦点を合わせようと奮闘していたが、やがて、そういう頑張りも効果が薄れてきて、自分自身でも「これは不便だ」と実感するようになった。不便というのは、黒板の字をノートに書き写すのに、人よりも余計に時間がかかるようになったことである。

5年生に進級したとき、担任の先生の配慮によって、健康検査で視力が悪かった児童たちは優先的に、黒板から近い教室前方の席に配置されることになった。
『この際だから、一刻も早く、眼鏡を買ってもらうように!』
という、指導付きの措置ではあった。

この取り計らいにより、私も最前列の席を割り当てられ、当初は懲りもせず裸眼で頑張っていたが、近視はどんどん進んでいくので、ほどなく、最前列からでも黒板の字が見にくくなってきた。
視力の良い人には想像がつかないだろうが、本当に、最前列の席からでも、黒板の字がぼやけて読めなくなる。もう、眼鏡なしでは為す術がない。

私の場合、肝心の眼鏡は視力検査の直後に早々と買ってもらっていて、毎日ランドセルの中には入れて、登校していた。けれど、クラスメートの前で眼鏡を掛けるのが恥ずかしくて、ずっと躊躇していた。学校内ではランドセルから眼鏡を取り出せずにいた。小学生のメガネ・デビューには勇気が必要だ。

私としては一生懸命に黒板の文字を見ようとしているだけなのだが、その姿は、最前列の席にデンと座り、目を細め、しかめっ面で黒板を睨みつけているわけだから、つまり…、教壇に立つ先生に対してガンを飛ばしていることにも等しく見える。本人だけが気づいていないが、傍から見ると相当印象が悪い光景だ。


ある日の授業中、ついに、見かねた先生の鋭い声が飛んできた。

「コラッ!! 眼鏡を持って来ているんだったら、さっさと、掛けなさいっっ!!」

実際には、私を〝名指し〟しての一撃だった。
声を聞けば分かる、先生の本気モードの叱り声が炸裂し、授業の流れが完全に止まった。
〝ザッ…〟という空気の変化。それは、クラスメートたちの視線が一斉に私へ向けられる気配。
うううっ、背中にみんなの視線が…。悲惨すぎる。

授業が止まり、突然の静けさに包まれた教室内に、ランドセルから眼鏡ケースを取り出す音だけがゴソゴソと響いた。





カメさん

2008年03月08日 12時38分17秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年生から5年生へ進級する際に、クラス替えがあった。
担任の先生方もクラスメートも、組み合わせは大幅にシャッフルされ、私は5年2組になった。
4年生のときの担任だった〝恐いT先生〟は5年5組の担任に就かれたので、私はそれとは別の教室で、内心はホッとした気分が正直あった。


5年2組での日々がスタートしてまもなく、私は、「カメさん」というニックネームの子と仲良くなった。
4年生のとき、彼が何組にいたのかは、私もよく覚えていない。
とにかく、5年2組の教室で初めて出会った子である。

よく分からないが、こいつとは不思議と息が合った。

社宅暮らしの子で、低学年の時にお父さんの転勤でよその町から西宮へ移ってきたという経歴の持ち主だった。そういう事情が私と共通していたのも、気が合った理由のひとつだったのかもしれない。休み時間にもよく遊んだし、学校から帰った後にカメさんの家へ遊びに行くこともしばしばあった。

名字に「亀」という字が入っているので、ニックネームは「カメさん」だった。
ほどなく、短縮形(敬称略?)で呼ばれるようになり、6年生に進むころにはすっかり「カメ」になっていた。担任の先生も、そう呼んでおられた。


社宅暮らしの宿命か、私と同様、カメさんも小学校卒業と同時に西宮を離れることになった。
以後、しばらくは年賀状の交換もしていたが、大阪府豊中市の住所が記された葉書を最後に、彼との交信は途絶えてしまっている。



ダンジョウ小学校

2008年03月02日 13時03分49秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

塾の思い出を、もうひとつだけ。

私が通った塾は、阪急今津線甲東園駅から歩いてすぐの所にあったが、その近所に段上町という町があった。
「西宮市段上町」という地名が実際に存在するのだ。現在もある。
字が違うけれど、私の名字と読みが同じだ。

その町には西宮市立段上小学校というのがあって、そこの児童も塾へ通って来ていた。
だから、私が初めて塾へ通った日、新入りの名前が「ダンジョウ」だと知るや、教室内は大爆笑に包まれてしまった。地名と同じ読み方をする風変わりな名字が面白かったのだろう。顔を揃えているのは小学生ばかりだから、こんなときはとりあえず笑う。私は、自分の名字を恨みたくもなったが、これは仕方がないことだ。

その場の勢いも手伝って、「ダンジョウ小学校くん」というあだ名を付けられそうになって困ったが、もちろん、そんな長ったらしいあだ名が定着するはずもなく、日を追うごとに、誰も何も言わなくなった。

このとき、『自分は、珍しい名字の人と出会っても笑ったりしないでおこう』と心に思ったのは本当の話である。

塾の話は、これでおしまい。



ジャガイモと、サツマイモ

2008年03月01日 14時15分00秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

塾通いをした話-。
4年生の9月(2学期)から、私は塾へ通わせてもらうようになった。


初めて塾へ通った日のこと。

その日は、理科の授業が行われる日だった。
小さな教室の中には、30人ほどの生徒(児童)がいた。
「入塾は随時受付していますよ」という塾だったが、やはり一般的には春(4月)から入塾する生徒が多いようだ。私は9月からだったので、中途入塾した格好で、この教室でも〝転校生〟みたいな心境に陥った。
四面楚歌というか、教室内には私の知らない顔ばかりが並んでいた。

きょうは新入りが加わったということで、授業の冒頭、早速、担当の先生(理科)が私を指名した。

「まず、檀上に質問をします。ジャガイモは、何科の植物ですか?」

この質問は、今も忘れられない。

じゃがいも、何科…?
そんなことは、聞いたことも考えたこともなかった。その場で考えたって分からない。

ほかの生徒は、私が何と答えるかジッと聞いている。

わかりません…
静まり返った教室で、私は、蚊の鳴くような声でそう答えるのが精一杯だった。

「ハイ。それでは…、ほかに分かる人はいますかぁ?」

と、先生が教室じゅうに声を向けた瞬間、ほかの全員が、サッ!と手を挙げた。(怖かったわ

ジャガイモはナス科の植物だと、このときに知った。
『じゃがいもは、なすびの仲間だったのか』と、私は驚きながら覚えた。
 

先生の質問がさらに続く。

「それでは、続いて、檀上に質問をします。サツマイモは、何科の植物ですか?」

だから…、ふつう知らないって、そんなこと

サツマイモはヒルガオ科の植物だと、このときに知った。
ヒルガオ科の植物には、ほかに、アサガオとヨルガオがあるそうだ。
『さつまいもは、アサガオ(朝顔)の仲間だったのか…』と私は覚えようとしたが、アサガオを印象付けてしまうと肝心の〝ヒルガオ科〟という名前を忘れる恐れがある。すると、先生が覚え方を教えてくれた。

「朝・昼・夜に、サツマイモを食べる!」

と、覚えなさいと。


じゃがいもはナス、そして、朝昼夜にさつまいも。
(さらに、ユウガオはウリ科なので注意せよ!というオマケ知識も記憶に くっ付いている)
 
大人になって、こうした知識とは縁が薄い道へ進んでしまった現在の私だが、今も忘れずに覚えていることを思うと、このとき私が受けた衝撃は相当強烈だったようである。